第4話 雲海へ跳ねろ
1 プラットフォーム・ゼロ
午前五時五十五分。中央郵政タワー南側滑走路に朝霧が漂う。
《リトル・ルーバー》の気嚢は夜間の低温で硬く収縮していたが、ハルト・レンがバルブを開くと山吹色の膜がゆっくりと脈打ち、大きく息を吸い込むように膨らんだ。
助手席――簡易ナビ席に座ったラビリス族の新人キオ・ホップは、昨日の講習で覚えた通り索を握る。耳は風向を測るセンサーのごとく細かく揺れ、脈拍よりわずかに早いテンポで跳ね返る。
「気嚢圧、緑域」
「魂封スロット、緑から白……緑、安定!」
翠光の点滅が最終安定を示す。ハルトは旗籠を解き放ち、中立郵便旗の龍禍絹布を朝日にかざした。旗布の七重紋章が薄紅の光を反射し、格納員たちが同時に敬礼する。
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2 離床、タタン・タッ・タタン
誘導係が導光ラインを白から青へ切り替えた。
ハルトは索を一引き、二引き――タタン・タッ・タタン。キオもリズムを追従する。
《リトル・ルーバー》の双尾翼が開き、タイヤがレールを滑り出す。十メートル先のプラットフォーム端を踏み越えた瞬間、気嚢が微かに縮み、次の拍でふわりと膨張する。重力がすっと軽くなり、艇体は白い雲肌へ吸い込まれた。
下に見える翼橋で、メリダ=ホワイトウィングが小さく手を振る。
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3 静穏層上抜け
高度二百。雲海はまだ滑らかな布のようだが、翡翠色の龍禍脈光が縫い目のごとく走る。キオの地図端末が軽く震えた。
「南東へ二度、航路B7に気脈安定帯!」
「取る。気嚢バルブ三番、二度だけ絞れ」
キオが弁を操作し、気嚢の膨張が微調整される。艇首が静かに南東へ旋回し、雲海の白がゆっくりと翡翠に溶ける。
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4 哨戒艦《シルヴァ=ハルコン》
雲壁が突然裂け、鋼鉄の腹が姿を現わす。ゼフィリア帝国巡回戦列艦《シルヴァ=ハルコン》は今朝も航路検問中らしい。
艦の重砲塔が艇を捉え、警告灯が赤に変わる。
ハルトは旗を高く掲げた。
龍禍絹布が朝の風を受けて波立つ。検証器の緑光が艦橋側で二度点滅――即座に砲塔が下向きへ引き下げられ、艦体がゆったりと進路を譲る。
キオは感嘆の息を漏らす。
「本当に、旗だけで……」
「旗は剣より強い。あそこに乗る将校もそれを知ってる」
旗を巻き戻しながらハルトが目を細める。彼の横顔を見上げ、キオの胸には自分もその旗を守る側に立つのだという誇らしさが静かに燃え上がった。
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5 竜背クレバス
目的地への最短航路は雲海峡《竜背クレバス》。翠光をまとった龍禍脈柱が乱流を生み出す危険地帯だ。
流脈シーカーの針が激しく振れた瞬間、艇体が横滑りし、気嚢がギシリと軋む。
「跳ねろ、キオ」
「タタン・タッ・タタン!」
二人の索のリズムが完璧に重なり、双尾翼の補助フラップが拍子を刻む。艇は雲壁を蹴るように斜め上へ跳ね上がり、次いで一転、前のめりに滑り落ちる。圧縮蒸気弁が開き、気嚢が瞬間的に膨張――揚力が復活し、艇体は翠光柱の縁を巻き込む旋風ごと跳び越えた。
魂封スロットが黄へ、そしてすぐ緑へ戻る。ハルトは安堵のため息を押し殺し、キオは弾む耳を押さえた。
「いまので講習全部が役に立ったろ」
「はい! 体で覚えました!」
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6 停止した昇降塔
クレバスを抜けた向こう、雲海下へ突き出る昇降塔〈オルト軌条〉の尖塔が見えた。しかし塔頂の警告灯は消え、外壁ライトも沈黙している。
「自動制御はまだ死んでるな」ハルトが呟く。
「じゃあ、僕が――」キオが跳躍脚を鳴らす。
「慌てるな、まず艇を塔脚プラットフォームに固定する。ワイヤ射出準備」
ハルトはサイドワイヤを巻き取り、トリガを親指で確認する。塔の受信結晶が生きていないなら、手動で昇降機を再起動するしかない。
翠光が雲下で脈動し、新しい乱流の気配が空気に震えを与える。
《リトル・ルーバー》はゆっくりと高度を下げ、塔脚の鋼鉄フレームへ近づいていく。
旗はまだ高く翻り、魂封郵袋は脈動を強めていた――。