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HALTO  作者: daisuke2025.6
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第2話 夜明け前の抜擢


 浮遊島都市《ルクス=ポルト》を覆う雲海は、真夜中と暁の狭間で深い群青色に沈んでいた。遙か下方の大気層を吹き抜けてきた冷たい風が、街を吊るす鎖橋を低く唸らせる。午前五時。中央郵政タワーの塔鐘が三度、重々しく鳴り響くと、塔身を縁取る導式ランプが順番に灯り始めた。


 地下格納庫の天井には、夜勤が残した結露が水滴となって落ちる。配達員ハルト・レンは、愛機の一人乗り郵便艇リトル・ルーバを点検しながら、その滴が気嚢布に染み込まないよう布巾で丁寧に拭っていた。昨夜、龍禍脈フレアによる暴風と乱気流を突き抜けて定刻配達を成し遂げた彼は、局内では“嵐の定刻便”と囁かれている。しかし当の本人は、英雄視の実感などなく、いつものように油と汗の混じった工具箱を閉じると、細い口笛を吹きながら手を洗った。


 そこへ、羽ばたきと共にひんやりした上層の空気が流れ込む。夜勤補給係のエアリエル青年が翼をたたみ、滑るように着地した。


「ハルト、上へ。ポストマスターが今すぐ、とさ」


 呼び出しの予感には慣れていたが、この時間帯に上層階へ呼ばれるのは珍しい。ハルトが首を傾げると、青年は悪戯っぽく笑って言った。


「表彰状? それ以上かも。ま、頑張れよ、エース」



---


鷹翼の執務室


 十二階へ通じる螺旋階段を上がるにつれ、薄闇がわずかずつ明度を増していく。壁面の大窓は翼橋ウィング・ブリッジの向こうにひろがる夜明け前の雲海を切り取り、紫紺のグラデーションに朱がひとすじ落ちてきた。廊下の空気は、まだ夜の冷たさを宿しているのに、遠くからパンを焼く甘い匂いが漂い始めている。


 鷹翼のポストマスター、メリダ=ホワイトウィングの執務室では、銀縁の砂時計がさらさらと音を立て、緩やかに朝を示していた。メリダは羽根を軽くたたみ、ハルトを迎えると、深煎りのコーヒーが入った陶磁杯を差し出した。焙煎したての香りが、まだ眠気の残る廊下空間をやわらかく満たす。


「昨夜は見事だったわね。あんな気流で荷物も落とさず、時間も狂わせず。おかげで、《宵明星銀行》の決算書類は無事に帝国会計局へ届いた。上層部も感謝しているわ」


 メリダは机上の書類束を整え、さらりと言葉を続けた。


「だからこそ頼みたいの。きょう六時半からの“新人導入講習”、講師をあなたにやってほしい」


 卓上に置かれた任命書には、すでに“ハルト・レン”の名が印字されている。乗りかかった舟どころか、半ば船底まで漕がされているらしい。ハルトは苦笑しながらコーヒーを一口すすった。


「俺の話なんて退屈じゃありませんか? 学院の教授か、あなたが話したほうが――」


「机上の空論より“雲の匂い”を知る声のほうが新人の胸に届くわ。特に今日集まるのは、多層世界の各地から来た異種族の混成組。あなたの昨日の実績は彼らにとって何よりリアルな指標よ」


 鷹翼は賛嘆ではなく期待を孕んで羽ばたく。ハルトは頷き、厚い任命書に自筆で署名を加えた。



---


講習室の朝


 淡い黄金色が雲海の端を染めるころ、講習室の照明は消されたままでも十分な光に満ちていた。新しく支給された青銀の制服を着た十四人の新人――先の尖った耳を揺らすエーテリスの少女、機械油の匂いを漂わせるフォージドワーフの若者、猫耳のフェルサリア姉妹、そして短い灰色のうさ耳と長い跳躍脚を持つラビリス族の少年キオ・ホップ――が、種族も背丈も違う椅子に座っている。


 ハルトは大判のチョークで白いボードに三つの大文字を書いた。


《現物》 《封印》 《信用》




 チョーク先で“現物”を叩きながら、嵐の夜に感じた湿った空気の匂いを思い出す。


「郵便が残る第一の理由、現物。人が暮らす限り、パンも歯車も薬瓶も質量を持つ。雲の上から下まで運ぶには艇と腕が要る」


 次に“封印”を囲む。


「第二は封印。魂封ソウルシールで守られた荷は、持ち主本人のマナ波長でしか開かない。偽者の手で無理やり開ければ導式は壊れ、内容物は灰になる。安全に運べるのは、顔の見える送り手と受け手を知る配達員だけだ」


 最後に“信用”の文字を強く丸で囲んだ。


「第三は信用。俺たちが対面で手渡す姿こそ保証なんだ。――ここで質問」


 ラビリス族のキオが元気よく跳ね立つ。


「ゲートリンクがもっと安くなれば、僕らの仕事は消えますか?」


 ハルトは“コスト”と書き加え、数字を添えた。


《長距離郵便×1000》




「一回のゲートリンク開門料は、長距離便千通分。位相安定炉も座標鍵も高価で、維持には特級術者が張り付く。王宮の緊急使者や合同軍の作戦隊には安いが、人々の手紙や薬には法外だ。だから君らが今日ここにいる」


 キオの耳は理解の合図のようにぴんと伸び上がった。



---


 魂封郵袋


 講習が終わると、廊下の窓から射す光はすっかり朝の白さを帯びていた。メリダは薄紫色の革袋を取り出す。中央の白銀紋章が心臓の鼓動のように淡く脈打ち、その周囲を七重の導式糸が螺旋状に縫い留めている。


「地底層ヒュグラ王国の老学士、ルフ・オルトメア宛。魂封郵袋よ。龍禍脈剪断域の影響で自動航路は全面閉鎖中。人の手で届けるしかない」


 袋から感じる脈動は強く、ハルトの指先に熱い痺れを残した。ちょうどその時、講習室から飛び出してきたキオが息を切らせて駆け寄る。うさ耳が上下に揺れ、目は期待と野心で輝いている。


「ポストマスター! ぼくを同行させてください! 実地研修、ぜひやりたいです!」


 メリダはハルトに視線を送る。


「君の判断に任せるわ」


 ハルトは魂封郵袋と元気な耳を見比べて肩をすくめ、笑みを浮かべた。


「じゃあ、相棒だ。雲海の風は気まぐれで牙をむく。落ちるなよ」


「落ちたら跳ねて追いかけます!」


 キオは敬礼のつもりで耳を折り、すぐさま背嚢を背負い直した。ハルトの胸には、久々に味わう血の高鳴りが走る。魂封袋の脈動は、それを祝福するかのように穏やかに拍動していた。


 ――郵便員の冒険は、今始まったばかりだ。



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