第1話 雲海の下でコーヒーを
――ここは浮遊島都市《ルクス=ポルト》。雲海から突き出た桟橋が陽光を跳ね返し、無数の飛空艇が白い軌跡を描く朝。
ハルト・レン、二十七歳。ストームライン輸送公社の郵便配達員にして、自家焙煎コーヒー愛好家。彼は薄い雲を透かして射しこむ光を眺めながら、下宿兼焙煎室の小窓を開けた。
焦げたような、けれど甘い香りが頬を撫でる。階下《月渡りベーカリー》を営む大家――猫耳のフェルサリア、ノエラが今朝もパンを焼き始めたらしい。
「今日も平和だといいな」
独りごちると、ハルトは深煎り豆をミルに流し込んだ。ころころと転がる音が、まだ静かなバザール通りに小さなリズムを刻む。
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早朝六時 三層街〈蒼空バザール〉
夜明けを告げる鐘がゆっくり鳴り、露店の帆布が一枚、また一枚と上がる。雲海の青白さと、市場のランタンの橙色が交じりあった空気の中で、ハルトは配達鞄を肩にかけた。
路地の角を曲がると、狸耳の新聞記者ピオが号外紙束を抱えて走ってくる。
「おはようハルト! 聞いたかい? 龍禍脈が夜半に微弱フレアを起こしたってさ。帝国の観測艦が慌ててたらしい!」
「フレアっていっても“微弱”なんだろ? 俺の手紙が燃えない程度ならご機嫌でいられるさ」
ハルトは笑い、ピオも耳をぴくりと揺らして走り去った。
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七時半 ストームライン区画ポスト
ステーションには大小さまざまな配送艇が並んでいる。ハルトの愛機は一人乗りの郵便カヌー《リトル・ルーバ》。膨張式の気嚢を備え、軽貨物と手紙なら雲間を縫うように飛べる。
フォージドワーフのグラン叔父が積み込み台で腕組みしていた。鉄より硬そうな髭を揺らし、今日の天候図を示す板を叩く。
「北西に乱気流。龍禍脈の影響で気流が跳ねてるぞ。お前のコーヒーじゃ酔いを覚ませんから気をつけろ」
「じゃあ、帰ったら二杯奢りますよ。もちろん叔父さんの好きな深黒ローストで」
「ははは、約束だ!」
荷物を載せ、《リトル・ルーバ》は滑るように離床した。
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九時十五分 音律学院寮
学院の塔は弦のように細い金属線で雲上に吊られ、空中でうっすらと共鳴音を奏でている。ハルトは寮のバルコニーに着艇すると、インターホンを押した。
現れたのは透き通る髪のエーテリス、ルミィ。寝不足のせいか光の粒が髪からこぼれ落ちている。
「小包です。差出人はギアラントの楽器工房……どうやら新型の音律導式チューナーらしいですよ」
「ありがとう! あっ……」
ルミィの手が震え、署名ペンがカタリと落ちた。ハルトは自分の鞄を探り、紙袋を差し出す。
「これ、今朝挽いたばかりのドリップバッグ。寝不足には手っ取り早いでしょ」
ルミィは目を丸くし、嬉しそうに首を傾げた。
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正午 雲崖公園
雲を見下ろす高台のベンチで、ハルトはサンドイッチを頬張る。遠くでは帝国の飛空戦列艦が帰還し、白い軌跡を描いていた。
そこへピオが再登場。息せき切って新聞を突き出す。
「見てみろよ! “龍禍脈フレア、上層航路に影響なし”だって! つまんない見出しになっちまった」
「平常運転が一番さ。派手な仕事は英雄のお役目。俺たちは雲の下で飯とコーヒーを守るだけ」
ハルトは笑い、雲海の向こうに白い鳥が飛ぶのを目で追った。
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夕方 月渡りベーカリー
店内は甘い香りとパンの湯気で満ちている。ノエラは尻尾を揺らし、カウンターの上で小さな風を起こして香りを店の奥まで運んでいた。
「ハルト、ちょっと手伝ってくれる? 今日はカンパーニュがよく売れるの」
「了解。エプロン貸してください」
ハルトが棚にパンを並べていると、ルミィがバスケットを抱えて入ってきた。光る楽譜がひらひらと揺れる。
「さっきのお礼……この譜面、コーヒーの焙煎音からインスピレーションを得たの。よかったら聴いてみて」
ハルトは驚き、譜面を受け取る。音符は香り立つ豆のように躍り、五線譜の上で小さな火花を散らしていた。
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夜 屋上
月が雲を銀色に染め、遠い空で龍禍脈が淡い緑光を帯びて揺らいでいる。
ハルトは豆を挽き、ドリップでゆっくりと湯を注いだ。蒸気が夜気に溶け、ほろ苦い香りが広がる。
(今日も無事に終わった。配達も、人助けも、大げさじゃなくてもいいさ)
コーヒーに映る月。遠くで聞こえる学院塔の音律。どこかで龍禍脈が脈動しても、ここには静かな時間がある。ハルトはマグを掲げ、ひとり乾杯した。
明日もきっと、平凡で少しだけ特別な一日が待っている――。
湯気に願いを託しかけた、その刹那。腰の導式ポケベルが震えた。
――旗持ち最優先便/発信・中央郵政タワー
――出発時刻22:00/宛先・帝国会計局
――日付跨ぎ厳禁
添付の波形グラフは、龍禍脈フレアが再燃しつつある歪な山を示している。
「今夜か」
ハルトはマグを置き、作業着から深夜便の制服に袖を通し直した。胸で操舵リズムが鳴り始める――タタン・タッ・タタン。
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嵐の走路
22時、中央郵政タワー下層。翡翠色に脈打つ魂封郵袋が巨大な保管箱で運ばれてきた。
荷室に箱を固定し、錨索を締め、気嚢バルブを開くと魔力雨が帆布を叩く。
射出口のシャッターが開き、稲光が口を開けた瞬間、リトル・ルーバは鉛直に跳び上がった。
魔力の暴風が左舷を舐め、艇体が悲鳴を上げる。ハルトは呼吸を四拍に刻み、操舵輪を細かく揺らす。
風の谷間がわずかに開き、揚力が戻る。ただの一拍でも遅れれば、稲光が帆布を裂く。
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月と稲光
雲頂を突き抜けた瞬間、満月が翳りなく現れた。
下層の稲光は緑の竜が雲を食むように蠢き、上層は静かな月光の海。
夜間回廊は暴風で幅三十メートルまで縮んでいる。逸れれば防衛結界、落ちれば魔力嵐。
《帝国管制・上層航路N2、通行旗確認。到着予告を標準−0分で維持せよ》
ハルトは薄く笑い、操舵輪をわずかに切った。
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帝国会計局
23時57分。白い行政塔の時計が針を刻む。
リトル・ルーバは貨物リフト横の浮遊デッキへ軟着艇。
係官が封印光を確認し、翡翠の検印ハンマーを打った。
「決算書類、受領二十三時五十八分。跨ぎ前、完璧です」
ハルトは礼を返し、補給を断り、風の尾が残る回廊へ再び舵を向けた。
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帰路
00時12分、復路に入る。魔力雨は細粒になり、気流の谷はなお脈動している。
ハルトは操舵輪を固定し、胸の鼓動で風を読む。
タタン・タッ・タタン。
上下左右の揺らぎが拍と同調し、帆布を打つ雨粒が進路を示す矢印へ変わった。
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上層静域
01時47分、《ルクス=ポルト》の管制灯が雲間に見えた。
稲光は遠い南東で消えかけ、フレアの尾は細い光脈になっている。
気嚢を緩め、揚力をゆっくり逃がし、艇は夜の空気を切らずに降下した。
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帰還
03時02分、中央郵政タワー屋上。
夜勤整備士がランプで帆布の損傷を探し、数字を読み上げる。
「剥離ゼロ、充填率九十三パーセント」
ハルトは航海日誌へ最後の数字を記入した。
往路22:00発23:58着/復路00:12発03:02着――遅延ゼロ。
整備士が手を叩き、薄闇に掌音が反響する。
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コーヒーと夜明け前の静寂
格納庫の隅でバーナーを点け、深黒ローストを粗挽きにする。
湯が粉を包むと、焦がし砂糖と土のような重い香りが鉄と油の匂いを塗り替えた。
カップに月明かりが揺れ、龍禍脈の名残はほぼ溶けている。
「嵐の定刻便、無事帰還」
苦みと微かな甘みが喉に落ちた。