一〇〇年の花 the century plant
火星。
軌道長半径 227,900,000 km
公転周期 686.98 地球日
自転周期 1.026 地球日
赤道半径 3,398 km
質量 642,000,000,000,000,000,000,000 kg
平均密度 3390 kg/m^3
太陽輻射量 0.43(地球比)
衛星 2
火星とは、こういう惑星である。
同じ内容を、もう少し別のやりかたで表現してみよう。
太陽からの距離は地球と比べて二倍ほど。
約二地球年で太陽の回りを一周し、地球とほぼ同じ長さの一日を持つ。
直径は地球の半分ほど、地球の十分の一ほどの重さ、太陽から受ける光の量も地球の半分ほどで、フォボスとデイモスというふたつの衛星を従える惑星。
火星とは、こういう惑星である。
さらに別の描写をしてみよう。
片方には、標高24キロメートルという圧倒的な高さを誇る太陽系最高峰のオリュンポス火山が聳え立ち、もう片方には長さ4000キロメートル最深部7キロメートルほどのマリネリス大峡谷がぱっくりと口を開けている。
この大落差が描かれた大地は荒涼とした赤い砂漠。
方々でひび割れ、隆起しながら、大気や水などの浸蝕を媒介する物質が希薄であったため三十億年の永きに渡ってほとんど変化していない荒々しい姿を晒しており、天空には足の早い小さな月が浮かんでいる。
三十億年より更に昔には、火星の地表に大量の液体の水や溶岩が存在しており、柔らかい表土を削りに削っていまの姿の半分を作った。
その頃には大気もあった。
しかし、低い密度とそのために小さかった重力のために火星は大気を維持し続けることができず、大気は宇宙へ逃げ散り、気圧の低下で液体の水は続々と沸騰し気化し、地表面の鉄分を余す所なく赤く錆びさせながら冷やし固め宇宙へと逃げ散って行った。
このときの錆こそが、火星の砂漠の赤い土である。
ふたつの衛星のうちのひとつであるフォボスは、目に見えていびつな姿を晒しながら地球月の三分の一ほどの大きさで空に浮かび、二〇秒で自分自身が居た場所を抜けだし、まるで時間を間違えてしまったかのように一日に二度も地平線から顔を出しては空を駆け抜けてゆく。
もうひとつの衛星デイモスはフォボスとは反対向きに進み、一度昇ると二日と半分以上は空に居続ける。フォボスの三倍遠くにあるため小さくしかし満ち欠けが分かるぐらいには見えており、火星の天空ではひときわ明るく瞬きしながらじっと地上を見続ける眼光のようである。
火星とは、こういう惑星である。
* * *
火星には『トウキョウ』と名付けられた都市が三つある。
多くはない。
パリは火星に八箇所あり、ウィーンは六箇所、香港も同じく六ヶ所で、アテネが五箇所、グランドキャニオンも五箇所でその周りには火星のラス・ヴェガスが七箇所、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、デリー、ソウル、リオデジャネイロ、ローマ、アレキサンドリア、プラハ、シドニー、バビロン、カイロ、キャメロットが、トウキョウと同じで三箇所づつ。メッカ、エルサレムという名の土地はなく、ダブリンが二箇所、エジンバラが一箇所あるが、ロンドンはない。その代わりなのかどうなのか、イングランドは二箇所ある。
地名というのは新たにつけることのできないものであるようで、これらの名前の都市はラグランジュ・ポイントにも多数あり、火星以外の惑星にもいくつもある。
火星で最も大きい『トウキョウ』は、南米由来の都市であるブエナ・トウキョウ。
血筋的に日本人を祖先に持つ者が多く、また進んで移民をするほどには恵まれない境遇の者も多かったため、懐旧を元に名付けられた。
ブエナ・トウキョウは火星の食料生産のおよそ二〇パーセントを支える大農業地帯の中心にあり、農家からあぶれた者たちが吹き溜まり、また農民たちの商取引の場として大きく発展した。
ふたつめの『トウキョウ』は、鶯コーポレーションの経営する『第十三東京』。
鶯コーポレーションが公募から選んだ街のニックネームは『フェアリー・ステップ』で、さらにその略称が『ふぇあすて』となる。通常この略称で呼ばれ、本来の名前が顧みられることはほとんど無い。
まれに市民たちが用意せねばならない行政資料に『第十三東京』の名前が記されいる場合があり、意識をすれば目にする機会が皆無というわけではないが、都市イメージに気を使う鶯の社員官僚たちに抜かりはなく、都市名は小さく記載済みになっており、ほとんどの顧客市民はそれを意識することはない。
そして、最後に残った『トウキョウ』は、実は『東京』と表記しない。
『豆莢シティー』。
火星のテラ・フォーミング初期にその作業をする者たちが住んだ二連クレーターの居留地。クレータには気密ドームが被せられ、そのドーム内に作られた街だ。
片方のクレーターは火星表面に従来からあったものなのだが、もう片方は、街を作成するために必要だった水質の小惑星を狙いすまして落下させて新たに作ったクレーターである。その隣接したふたつのドームと幾分かの外延部を緑色の光電池ケープで取り囲んだ姿は、どこか枝豆の莢に似ていた。
いくつかあった初期の火星テラフォーミングチームのうちここを基地としていたチームのリーダーが日本人であったため、その姿と『東京』のもじりの両者から、この街は『豆莢シティー』と名付けられたのである。
またの名をピーポッド。
やはり豆の莢である。
現在ではこの『豆莢シティー』は、エンハンスド・シントイズム《拡張神道》の聖地兼修行場となっている。
驚いたことに、ピーポッドはいまだに気密が守られたままであり、そればかりではなく、分子に宿る霊という原子霊物信仰という拡張神道独自の宗教的情熱によって、当初に機能していたようにアクアとバイオマスのエコロジカルスフィアとして存在し続けている。しかし完全な閉鎖環境ではなく、成立当初からそうであったように、熱とエネルギーとインフォメーションに関しては、多くの部分を外部に依存している。
清浄なエコロジカルスフィアへの忠誠から、人口はわずかに三〇〇〇人。
旅行者が入れないということではないのだが、穢れなき清浄な御スフィアを外部の不浄なアクアとバイオマスから保護するために、そして正しきアクアとバイオマスの外部への流出を防ぐために、入退莢をする者には前後にそれぞれ三日の禊として精進潔斎が求められ、さらにスフィアへの入退莢の直前には沐浴と、ナノマシンによる大小の強制排便をさせられる事になっている。
それだけのことをしても、もちろん旅行者当人の肉体があることによって発生するさまざまの排泄物や皮膚の欠片や抜け毛などなどはエコロジカルスフィアへの侵入を免れない。
しかし、ピーポッドの御スフィアはそこまで狭量ではない。
不可避に侵入してくる不浄なバイオマスまでをも排除したりはしないし、その発生を防ぐ方策──具体的には、剃髪やスキンスーツ着用の義務、ナノマシンによる大小便の分解と体内への再循環──などを旅行者に強要したりはしない。(強要はされないが、それらの措置を旅行者が希望することは可能である。旅行者はそれらの措置を希望することによって、その度合に応じて超高額な入莢税の減免や、立ち入り可能区域・利用可能施設への便宜が図られる)
なぜならば、それらの不浄なバイオマスを必ずしも排除しないこと、浄不浄のバイオマスを含めたすべてに神は宿り、あらゆる物に宿る神のすべてが原子霊物信仰の最終的な深奥であるあるからだ。
その密儀の深奥と、いまだに奥義を極めない無知な魂が宿る未だ清らかならざる──将来的に浄らかになる──バイオマスとの妥協点こそが、入莢税措置なのである。
* * *
カサイ=シンイチという男がいた。
カサイは売り出し中のフリーランス若手RSプロデューサー/センサーで、こう表現するとなにかであるようだが、要するにRS業界の最底辺でユノーヅのRS界隈をうろついたりしながら、小さな儲けになる話を漁っているという人間だ。
この街、豆莢には、新しいセンサー志望の人間に会いに来た。
RSセンサーには詩人が求められる。
便宜的にそのように呼ばれてはいるが、詩性は言語による詩とは関係ない。
あらゆるものに対する感受性ぐらいの意味で、特殊なものほど価値が高いとされている。
その点、豆莢の住人なら折り紙付きだ。
なぜならば、この街の住人はそのすべてが拡張神道、ひいては原子霊物信仰の信奉者だ。つまり、ナノスケールの原子に棲まうピコ/フェムトスケールの神々という概念に真剣に関わっている。
ピコ/フェムトのスケールだからといって彼らにとって小さすぎるということはない。神聖存在だからサイズには縛られない。つまり豆莢の住人ということはフェムトの神を受け入れているということであり、感受性が特殊だということは証明されているも同然だ。
カサイの言葉で表現すると、とても正気だとは思えない。
「カサイちゃ~ん。センサー志望の娘がマメにいるっていうからさぁ、ちょっと会って様子見てきてくれないかなぁ」と、大人プロデューサはカサイに言った。
大人にしてみればカサイに小遣い仕事を頼むことでビジネスチャンスを逃すこともなくなるし、カサイにちょっとした恩を売ることもできる。それになにより、尻の穴の中まで洗われることもなくて済む。
カサイにしてみれば、尻の穴の中を洗われることや、その他の諸々の小さなことをちょっと我慢するだけで、デカくなるかもしれない大人の新人センサーのプロデュースに一枚噛む事ができるかもしれないし、その他にもなにがしかのチャンスがあるかもしれない。
もし仮になんのチャンスも無い話だったとしても、最低限大人の支払ってくれる小遣い銭は稼ぎになる。
なにより、そもそも話を断われるわけは無かった。
売り出し中の若手というのは、つまりはそういうものだからだ。
センサー志望の娘は、ハズレだった。
たしかに詩人だったが、ありふれた詩人だった。
豆者ならばこうだろう、というそのままの詩人だ。
髪を剃り尻の穴の中まで洗われておいて残念な話だが、そのままでは使い物にならない。
前頭葉の肥えたRSレリッシャー供にとっては「またいつものアレ」。
いずれにせよ、この新人をどう使うかは大人が考えるだろう。
そして、ありふれた詩人を売れるなりにそこそこ面白く使うような仕事にカサイは噛む気はない。どこにでもあるような話だ。
動く金の規模は違うが、カサイだけでもしてるようなことでもある。
カサイ自身は他になにか、カサイ自身が乗り気になれるなにかを求めているのだ。今回は違かったが、せっかく他人の旅費で珍しい所に来たのだから、大人の用事の後には自分の探し物もしてみるつもりでいる。
そのカサイは、豆莢の森の中で死んだ。
森の深部、人の通わぬところで死んだ。
なぜそんなところで死んだのかは謎だ。
そこは制限区域、街の外の人間にとっては進入禁止とされている場所だった。
カサイがそこに居ることは、不可能ではない。
入莢にあたっての斎戒沐浴などを行なえば、禊は済んでいるものとされ、そこからさらに禁止事項の抑制反射を組まれたりはしないからだ。ただし違法にはなり、見つかれば(不浄なバイオマスとの妥協案である)罰金となる。
あるいは、カサイが制限区域に踏み込んだのは、新人が使えなかった腹いせだったのかもしれないし、尻の穴の中まで洗われたついでに、豆莢の森のノン・ポエティティ・リソースを拾っておこうと思ったのかもしれない。(カサイ自身もRSのセンサーである。しかしそれは彼が詩人だからではなく、常人並みの詩人性さえも持たない『無詩人』というある種の特殊能力者だからだ。ノン・ポエティティ・リソースは、センスシンセサイズの素材になったり、マニアが対照用に鑑賞/参照したりという意味での口直し的な価値がある)。
カサイが死んだ原因はわからない。
死体が消滅したからだ。
だからカサイの死因は過労かもしれないし、拡張神道純粋主義者のテロルを喰らったからなのかもしれない。あるいは転んだときの打ち所が悪かったのかもしれないし、自らの詩人性の無さを儚んでの自殺かもしれない。
とにかく、カサイは森の中で死んだ。
そしてカサイの死体は発見されなかったし、探されもしなかった。
とにかく、手遅れになるまでは。
カサイは詩性を持ってはいなかったが、体の中には花の種を持っていた。
カサイの親が(いまや滅びた)『火星に花を!』ムーブメントのシンパサイザーで、カサイに幼児洗礼を受けさせてフラワーシードをインプラントさせていたのだ。
カサイは幼すぎてそのことを憶えてはいなかったし、親はカサイにそのことを伝えるのを忘れていた。体の中に花の種があることを知っていたならば、詩人性を持たないカサイも(彼の死因が自殺だとするならば)自殺まではしなかったかもしれない。
カサイの体の中のフラワーシードは、カサイの心臓が停止してから一〇〇時間を待ち、心停止の経過時間を見てカサイが間違いなく死んだものと判定し、活動を開始した。
フラワーシードは内蔵していたナノマシンでまずカサイの身体を耕して、花の種の糧とした。
スキンスーツに包まれたカサイの身は、骨までを含めてすべてをナノマシンに耕され、一ヶ月で姿を失った。スキンスーツはその間も姿を保ち続けていたが、一ヶ月の間には舞い落ちる枯れ葉がカサイの身体を埋め、隠してしまった。
それらの枯れ葉は腐敗し、崩れ、聖なるバイオスフィアを形作る清きバイオマスの別の形態へと姿を変えて行く。ある原子の神は土に還って森の木々を肥やすのかもしれないし、他の原子の神は水に溶け雨になり上水道に紛れ込んで人体の一部になるかもしれない。
清きバイオマスは、聖なる豆莢のエコロジカルスフィアに必ず還ることが約束されている。
約束されていたのだ。
カサイが死んだ、この時までは。
* * *
カサイの花の種は竜舌蘭だった。
竜舌蘭はその逞しい根を元のカサイの身体の在った場所にくまなく張り巡らせ、カサイの身体のすべてを養分とし、力強く育った。そして、白く鋭い根の先は、いつしかスキンスーツを突き破り、豆莢の土の中に伸びていった。
外界の不浄な原子から生まれたカサイの竜舌蘭は、豆莢の純粋なバイオマスの中に、とうとう根を伸ばしたのである。
カサイの竜舌蘭は強化地球種であり、強く、大きかった。
火星の低重力下で本来よりもさらに大きく成長し、聖なるバイオスフィアの浄きバイオマスを強奪し、デリケートにデザインされた豆莢のエコロジカルスフィアの純粋なバイオマスによる生態循環系を蹂躪し、王のように、竜のように成長して行き、いつしか地形と呼べるほどの大きさになった。
事がここにまで至ってやっと、豆莢シティーの住人たちにカサイの竜舌蘭が発見された。
しかしその巨体のうち不浄なバイオマスはほんの一部である事(なにしろフラワーシードとカサイの身体の分だけだ)と、すでに時間が経過しすぎてカサイのバイオマスだけ析出しえなくなっていた事から、支払済みの入莢税の効力で妥協が選ばれることとなり、あえて排除されることもなく、竜舌蘭はますます巨大に育っていった。
そして、巨大なカサイの竜舌蘭はその比類なき威容で、いつしか拡張神道の信者たちからの敬意を集め始めることとなる。数年を経ず、その竜舌蘭は《ひのほしのたつのしたのみこと》という名をつけられ、名付けと共に豆莢の一柱の神となっていった。
* * *
カサイの死から二〇年が経ち五〇年が経ち、九〇年が経った。
その間、カサイの竜舌蘭はただ山のように巨大に黒々と茂り、牙の付いた葉を養うばかりで、花を咲かせることがなかった。
カサイの死から九八年目、豆莢シティーでは三年間の夏を続けることをその要件とする『三年夏法案』が起草され議決された。
三年夏法案実施の最終年──カサイの死から百年目──に、山のように神のように在り続けた竜舌蘭の頂上部から、一本の茎が伸びはじめた。
茎は一日に一〇メートル以上の速度で伸び続け、九日目に豆莢のドームの屋根を突き破り、翌一〇日目で光電池ケープをも破り、まだ伸び、九〇日目に一〇〇〇メートルの高さで竜舌蘭の花を咲かせた。
竜舌蘭の花には、ひとつの奇蹟があった。
センサーであるカサイのセンシティブ・ノードを取り込んでおり、開花とともにRSの無制限な放送を始めたのだ。
それは、竜舌蘭の一〇〇年の記憶が詰まった王のような竜のような山のような神のような、そして植物の詩人だった。
それは空前にして、さらに絶後の詩性だった。
カサイの竜舌蘭は、三週間ほど咲き続け、その後に枯れた。
地下に残る子株は豆莢シティーのクレーターの外まで達しており、神聖で清浄な御スフィアは上にも下にも完全に破られた。
翌年には、豆莢周辺の様々なところで竜舌蘭が生えはじめる。
* * *
火星の花が歌いはじめたのは、この時からだと言われている。