最低最悪な僕
「おはようございます、御大地くん」
朝、下駄箱で靴を履き替えていると、ちょうど北千種さんと鉢合わせた。
「……」
僕は北千種さんの顔を見て、違和感を覚えた。
なんだか、いつもと雰囲気が違うような……いや、雰囲気の話どころではない。北千種さんのトレードマークである『お下げ眼鏡少女』の影が、一切なかった。
――丸みを帯びたショートヘア、眼鏡は外していることから、おそらくコンタクトに変えたのか……真面目女子生徒のイメージは一転、今どきの子らしい、爽やかな女子生徒へと変身していたのだ。
「…………っ!?」
「な、なんですか、そのお化けでも見るかのような表情は……」
北千種さんは悲しげに眉を下げた。どうやら僕は、驚きのあまり酷い顔をしていたらしい。
「ちょっと気分転換にイメチェン? してみたんです。どうですか、似合っていますか?」
毛先を弄りながら、照れくさそうにそう聞いてきた北千種さん。
その仕草は新鮮で、確かにこの姿もかわいらしかった。
「……まあ、その姿もいいと思う」
「『まあ』ってなんですか。もう、せっかくおしゃれしてみましたのに」
北千種さんは唇を尖らせて僕を睨んだ。なんだかいつもより、そんな北千種さんが愛らしく思えた。
「『まあ』……なんて言って悪かったな、本当に似合ってると思ってるよ」
「前よりいい感じです?」
「前も今も、どっちもいいと思う」
「……ふーん、無難な答え方をしますね、御大地くんって」
そう言う北千種さんだったが、顔はうれしそうに微笑んでいた。
それから、僕らはいっしょに教室へと向かった。
(まあ、わざわざ別れて教室へ行くこともないしな……)
僕はあの日――学祭の日、北千種さんの告白を受け入れた。
つまり今、僕らはれっきとした彼氏彼女、カップルなのだ。
いっしょに行動するというのが、最も自然なことであろう。
「そういえば北千種さんさ」
「なんですか?」
「その……まだお兄さんと喧嘩してるの?」
北千種さんにはひとつ上に兄がいる――僕らと同じ学園に通う二年生であり、生徒会に属しているお兄さんが。
これまで北千種さんは登校するときも、下校するときも、はたまた昼休憩のときでさえ、よくお兄さんといっしょに過ごしていたようなのだが、あのときを境に一切そういったことはなくなっているようだった。
あのとき――図書室で僕らと、僕の姉、そして北千種さんのお兄さんが邂逅したあの日だ。
――『――わたしはもう、兄さんの『愛』は必要ない』。
……そう、北千種さんは自分の兄に対してハッキリと宣言し、それから僕は、彼女がお兄さんといっしょにいるところを見たことがない。
お兄さんを避けている場面なら、幾度と見たけれど。
「……喧嘩、しているわけじゃありません」
「でも明らかに北千種さん、お兄さんのこと避けてるよな」
「兄さんには、これくらいハッキリと態度に出したほうがいいんです」
北千種さんは僕を見つめ、こう続ける。
「兄さんには、わたし以外のこともちゃんと見てほしいから」
「……ふぅん」
そこで、そろそろ教室へ着きそうだというところで、不意に北千種さんは足を止めた。
何事かと思い振り返る僕に、北千種さんは少し膨れっ面を浮かべて、こう話す。
「……御大地くん、いつまでそうしている気ですか?」
「……何が?」
「――『呼び名』です! わたしたち、一応付き合ってるんですよね? その……下の名前で呼んでほしいなって、ここ最近ずっと思ってるんですよ」
「……ああ悪い。……でもさ、北千種さんも僕のこと、苗字で呼んでるじゃないか」
「…………っ!」
最後にそう言い返すと、北千種さんは目を丸くしていた。……もしかして、今まで自分のことは気づいていなかったのだろうか。
「……ま、でもそうだな。苗字で呼んでいるのも不自然だし、下の名前で呼ぶか。……じゃあ、これからは瑠璃って呼ばせてもらうよ」
僕はそう話すと、北千種さんはなぜか悲しそうに俯いた。
「……嫌、だったか?」
恐る恐るそう聞くと、北千種さんは静かに首を横に振って、こう答える。
「……いえ、あっさりと呼ぶものだなぁと思いまして」
言い方がまずかったのか……と考えたが、すぐに答えなど浮かぶはずもなく、なぜ彼女の機嫌を損ねてしまったのかわからないままに、僕はとりあえず「ごめん」と謝っておいた。
「……ううん、いいんです。わたし、ちゃんと御大地くんを振り向かせるって決めてるんですから」
北千種さん――いや、瑠璃は何か思い直したのか、また笑顔を見せてそう話した。
「あのさ、北千種さんは……じゃない、瑠璃は、僕のこと苗字呼びのままなのか?」
「あっ、そうですよね。わたしだけ苗字で呼ぶのも変ですし、ちゃんと名前で呼ばないと……ですよね」
瑠璃はやや顔を紅潮させて、上目遣いで僕を見やった。
「ま、ま、まも……」
ショートヘアの毛先を弄りながら、恥ずかしそうに口をモゴモゴさせていた瑠璃だったが、次の瞬間、瑠璃は走り出し、僕の横を通り過ぎて、先に教室へ入っていってしまった。
「わたしのほうは心の準備が足りないので、また今度で……!」
――そう、言い残して。
「…………」
内心やれやれと思いながら、僕も瑠璃のあとに続いた。
(まったく、ただ名前を呼ぶだけの話なのに……)
心の内でそうボヤいた瞬間、僕はふと姉の顔が――円樹先輩の顔が浮かんだ。
――『守』。
円樹先輩の呼ぶ声は、今でもしっかり耳に残っている。
それはとても心地よくて、尊くて、愛おしくて。
そういえば、最近はあんまり関わらないようにしていて、声を聞けていないな。
……。
…………全然、僕ったら円樹先輩のこと、諦めきれていないじゃないか。
(そう簡単に、『恋』の気持ちは書き換えられない……っていうのか)
早く諦めたいのに。
早くこの気持ちを、手放したいのに。
そのために僕は、瑠璃の告白だって受け入れたのに。
(……って、最低だな、僕)
今更ながら改めて僕は、僕自身のことを、最低最悪の野郎だと認識したのだった。




