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恋坂峠  作者: 杉下栄吉
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恋坂峠

 九頭竜川鳴鹿の渡しでの転落事故の翌日、恋坂峠には2人の男女が旅姿で峠道を登り切り、振り返って諏訪間から鳴鹿方面を見渡していた。

「伊太郎さん、おつきさんは大丈夫だったのかな。心配だわ。」おまつが伊太郎の顔を見つめながら世話になったおつきの身を心配していた。

「おつきなら大丈夫さ。彼女は子供の頃から泳ぎが達者で、7つのころから川を泳いで渡っていたし、潜ってアユを手で捕まえていたんだ。鳴鹿や久米田の川沿いの子供はカッパみたいなもんだから。」と伊太郎はおまつの肩を叩いて心配するなと慰めた。そして2人は峠を上ってくる道をじっと見つめていた。


 しばらくすると1人の女と一人の坊主が何やら話しながら登って来た。おつきと栄心だ。2人は伊太郎とおまつの旅立ちを見送りに来たようだ。つきの顔を見るなりまつが

「おつきさん、大丈夫だったの。流れていったときは死んだかと思ったわ。」まつはつきに駆け寄り泣きながら抱き着いて嗚咽しながら話しかけた。

「私なら大丈夫よ。子供の頃から九頭竜川で潜ってアユを捕まえて来たから、久米田のカッパというあだ名だったの。流されたふりをしながら船から離れたところで潜って裏川の方へ流れていったの。この季節は裏川の方は鳴鹿の堰から水を流しているから行けるでしょ。それに少し行けば上合月の用水路の取水口がある事もよく知ってたの。あそこなら隠れることもできるし、久米田の渡しの家も近いし、暗くなるまで水門の裏で隠れていて、暗闇に紛れて家に帰ったから誰にも見つからなかったわ。それより事前におまつちゃんと洋服を入れ替えるときに善吾郎親分の子分たちに見つからないか、そっちの方が心配だったわ。計画どおりにおまつちゃんが厠へ行きたいと言って秋田屋の厠へ来た時、化粧しているのを見て私も慌てて化粧をしたのよ。」

「あれは善吾郎親分のおかみさんが最後だからきれいにしてあげるねって白粉と紅をさしてくれたんだ。」

「そうなの、びっくりしちゃったわ。でもあの子分たちが気づかなかったから何とかなったけど、船の上でも入れ替わっていたことがバレるんじゃないかと心配だったの。」

「そういう意味ではおかみさんが白粉を塗ってくれたから見分けがつかなくなったのかもしれないね。」

2人は抱き合い泣きながら話したが途中からは笑い声も混じって思い出していた。

栄心は伊太郎に向かってにやりと笑いながら

「伊太郎さんの船頭姿も様になってましたね。わざと船に横波をぶつけて大きく揺れさせたのはうまかったですね。」と言うと

「必死でしたよ。舟をこぐことは子供の頃からやってるし、船頭は波が高いから誰も引き受け手がなかったのでおれが入る事は簡単でした。」と答えた。すべて栄心の計画だったのだ。

続けて栄心は「それにしてもまつさんの親父はこれから大丈夫かな。おまつさんが逃げたんじゃなくて事故で死んだことになったから借金を返せとは言われないだろうけど、またすぐに博奕で借金を作りそうな気がするけど」と言うと

「ここから先はもう親子の縁は切れているよ。だいたい博奕の借金のカタに娘を売った段階でおしまいさ。あとは一人で生きていかないと。」と伊太郎が志比堺の方面を見ながら話した。

「それにしても2人は恋坂からどこへ行って暮らしていくつもりなんだい。」と栄心が尋ねると伊太郎は栄心を見て

「おれたちはこの恋坂で逢引きを重ねました。そしてこの恋坂で栄心さんに出会い、おまつのことを相談してまつを助け出すことが出来ました。出発するにあたりこの恋坂から出発できるのは運命めいたものを感じます。それでおつきねえさんと昨晩考えたんですが、恋坂から出発するから次は愛という字に関係のあるところがいいなと思い地図を見ていたら敦賀の山の中に愛発と書いて「あらち」という地区があるみたいです。何処へ行くという当てもないんですから恋の坂を下って愛を発するなんてしゃれてると思いませんか。行ってみて働けるところがなくて住めなかったらまた考えます。」とあっけらかんとしていた。聞いていたまつも無計画な伊太郎の話に少し呆れたが

「無鉄砲な計画だから心配だけど伊太郎さんと一緒なら大丈夫な気がするわ。それに恋坂から愛発なんてすごくロマンチックだわ。賛成。大賛成」と言って声を裏返らせた。

「それじゃこのへんで私たちは出発します。」伊太郎は見送ってくれる2人に礼を言った。おつきは

「おつきねえさん。命がけで救ってくれて一生忘れません。お元気で」と最後の別れを告げて松岡側の坂を下って行った。見送る2人は坂を下っていく2人の背中を見ながら手を振っている。

「栄心さん、伊太郎さんから聞いたんだけど、この峠で狂歌を詠んだんだってね。どんな狂歌だったのさ。」と興味深げに問いただした。すると坊主の栄心は頭をさすりながら

「大した作品じゃないよ。悩んでいる伊太郎さんから聞いた名前や集落名を適当に並べただけさ。」と言いながらあの歌を諳んじた。


『なるかとて ひとつくめたとしひさかい むこうあいつき こなたまつおか』


「あら、鳴鹿に久米田に志比堺、合月と松岡、みんな入っている。それによく考えるとおまつちゃんと私の名前も入っているのね。伊太郎さんたら私のことをどんなふうに言っていたんですか。」とつきが聞くと

「伊太郎さんはつきさんのことが今でも忘れられないのかもしれません。少年時代に現れた年上の少し色っぽい美人。許されない恋だけど忘れられない初恋。そのつきさんから紹介されたおまつのことをおつきさんのように思って救い出す決心をしたのかもしれません。」と伊太郎の心の奥を想像した。つきは伊太郎から慕われていたことは知っていたがおまつとつきあってからはその思いが続いてはいないだろう、あきらめてくれただろうと思っていただけに戸惑いもあったがほのかな女心も感じて顔を赤らめた。


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[一言] 先ほど読み終えました。 大変感服いたしました。唸ります。
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