激流
3日前から激しい雨が続き九頭竜川は激しく暴れた。しかしその雨も昨夜にはおさまり、晴れ間がのぞいてきた。しかし川の流れは激しく、上流での昨晩までの雨の激しさが伺われた。渡し船を出すにはまだ危険があるので、今朝はまだ不通になっている。
ようやく川の流れも落ち着きを見せてきた午後、善吾郎親分のところに一通の手紙が届けられた。手紙を開けた善吾郎親分は大笑いをして女房であるおかみに
「東郷の吾妻屋からやっと返事が来た。明日、祭りだから遊女を揃えなくちゃいけねえからこっちの言い値で買うから、明日夕方までに送ってくれとさ。あの親父とは15両と吹っ掛けておいたからそのまま15両で売れば7両の儲けだ。笑いが止まらねえな。」
と言っている。おかみは
「明日の夕方までに出すには明日一番に送り出さないと間に合わないね。川はまだ流れが急で渡れないかもしれないよ。」と言っている。親分は
「大丈夫だ。少しくらい水量が多くて流れが速くても誰かに出させれば、行くやつはいるさ。いなかったら俺が誰かを脅して何とかするさ。」と凄みを見せた。
「それより明日、吾妻屋で文句言われないようにおまつの化粧と髪を整えてきれいにしてやってくれよ。」と親方は売り物を大切にするように指示した。
鳴鹿の宿場にはもっと以前から遊女がいる旅籠屋が数軒あり、近郷の村々の男たちは夜になると鳴鹿へ遊びに出かけ、遊女と遊んだ者もいた。また鳴鹿の墓場には遊女のまま死んでしまった可哀そうな女たちの小さな墓も存在していた。しかし志比堺の娘であるおまつをこの村で遊女にすることも可哀そうだったし、遊びに来る男たちにとっても近所の知り合いの娘を相手にするのはやりにくいところもあるので、少し離れた東郷の宿場町に話を進めていたのだ。
翌日朝早くに善吾郎親分のおかみはおまつを座敷の鏡の前に座らせて
「おまつ、今日からおまえは東郷の吾妻屋へ行くんだよ。きれいにしていくんだよ。」と諭して白粉を塗り始めた。おまつは少し涙ぐみながら
「おかみさん、最後に会いたい人がいるんだけど会わせていただけませんか。」と懇願した。しかしおかみさんは
「そんな時間はないよ。今日は朝一番に川を渡らないと東郷に夕方までに入れないからね。間に合わないと吾妻屋さんが困るからね。」と言っておまつの最後の願いを断った。
化粧を終えたおまつは2人の用心棒に守られて鳴鹿の渡しから船に乗って出発しようとしていた。しかし九頭竜川の水量は前日までの嵐の影響で多く、流れは速かった。一目で小さな渡し船で横断することは危険な感じがした。しかし善吾郎親分の頼みだったので船頭が船を用意していた。
鳴鹿の渡しでは文化10(1813)年に大きな水難事故があり、乗客と乗組員会わせて3人の死者が出た。奉行所で裁きがあり、責任者が入牢させられたり謹慎させられたりした。渡し場の脇には慰霊碑が建てられ事故の教訓を後世に語り継ごうとしていた。その慰霊碑の横をおまつと用心棒2人が下りていき、用意された船に乗り込んだ。同じ船には女が一人と旅の商人が1人乗り込んだ。菅笠を深くかぶった船頭が
「出発いたします。」と小さな声で言うと竹竿を上手に操って一押しで船は岸を離れた。船頭は竹竿を櫓に持ち替えて船を斜め上流に向けてこぎ始めた。対岸の古市側の渡し場に舳先を直接向けると流れに流されて遥か下流に流されそうだからだった。
「流れが速くて揺れますから船の縁をつかんで離さないでください。」と船頭が乗客に注意した。乗客たちは言われたとおりに船の縁をつかんで振り落とされないように身をかがめ重心を低くした。
船が川の中央付近にさしかかった時、上流から大きな波が来た。船頭は船がひっくり返らないように舳先を上流に向けて、波をよけようとした。ここは船頭の腕で危機を回避したようだった。船は上下動はしたが横に傾くことはなかった。一同が安堵の表情を浮かべると船頭は再び船の向きを流れと垂直方向に向き変えた。するとそのタイミングで再び大きな波が船を襲った。船の垂直方向から大きな波を受け、細長い渡し船は大きく横揺れをした。船体は下流に向けて約30度も傾き、乗客たちは大きな声を上げた。
その時、用心棒たちと一緒に乗っていたおまつが船の外に投げ出されてしまった。一瞬のことで用心棒たちも手を出すこともできず、おまつは見る見るうちに下流へと流されて波にのまれていった。水かさが増した川で流れの中に入ることは自殺行為だった。屈強なやくざの用心棒たちも川の流れを見つめるばかりで中に飛び込もうとはしなかった。船頭は船を立て直すことで手いっぱいで、転覆は免れたものの残りの乗組員たちを落とさないように必死に船をコントロールした。
何とか川を渡り終えた船頭と用心棒たちは船着き場から下流に向かって走って行き、必死におまつと叫びながら彼女を捜索した。しかし一度沈んでしまった体は簡単には浮上してこない。大量の水を飲み込んだおまつの体は川底を石にぶつかりながら流されていったのだろうか。それから村人たちも動員されて捜索が続いたが結局お松の水死体は上がらず、翌日には捜索は打ち切られた。善吾郎親分は大金を手にすることが出来ず大損したが、事件当日も賭場は開かれ多くの百姓町人たちがわずかな金を握りしめて儚い夢を求めて来ていたので、数日で損害を取り戻す勢いだった。