情熱 おまつとの出会い
おまつは鳴鹿の川向こうの村、志比堺の丑松の娘だった。おまつも15の年から古市の円屋で女中として奉公していた。おまつの母親は久米田の伝兵衛の家から嫁いできているのでおつきとは従兄関係になる。おまつは幼いころからおつきのことを姉のように慕い、半月に一度は遊びに通っていた。おつきが秋田屋へ奉公に出ると自分も奉公に出る先を探し、円屋を見つけたのである。
伊太郎がおまつと知り合ったのは伊太郎がおつきから女を紹介すると言われてから半月ほど経った10月の事である。おつきが伊太郎に
「わたしをお供に連れて円屋まで付け届けをする御用を作ってください。」
と言われ伊太郎は前日酒を飲みに行き、わざと支払いをつけにして帰り、翌日金を持って支払いに行くという口実を作った。世話になったので円屋に花束を届けるという名目でおつきに花束を持ってついてこさせたのである。おつきは店で並べていた売り物の花を一抱え見繕って花束を作り、和紙でくるんで手に持って伊太郎に追従した。伊太郎は舟渡し渡し場で2人分の渡り代を出すと、船頭がすぐに船を出してくれた。九頭竜川の川幅は50間ほどあり深さは1丈ほど。後の単位で3mほどの深さであった。腕のいい船頭で揺れることもなく無事に対岸の古市村につくと村の中心部に円屋はあった。
円屋につくと伊太郎は店のおかみに
「昨日のつけを払いに来た。30文だったよな。」
と言って持って来た銭を手渡した。そしておつきが持って来た花束を受け取って
「おかみ、昨日は世話になったね。お陰様で楽しい酒が飲めたよ。」と花束をおかみに渡して店のテーブルに腰掛けた。おつきもいっしょに座ると奥から女が一人出てきた。
「おまつ、久しぶりね。元気だった。川を挟んで近くに奉公しているのに、なかなか会えないね。ここにお座りよ。こちらが秋田屋の伊太郎さんだよ。」
と伊太郎をおまつに紹介した。おまつはそこに座ることにやや抵抗があった。仕事中だったのでおかみさんに叱られるんではないかと考えたようだ。それを察した伊太郎が
「おかみさん、このおまつさんを少しの間だけここに座らせてやってもいいかい。このおつきとは従兄同士なんだ。いいだろ。」
と言われて円屋のおかみもなじみ客からの頼みなので断るわけにもいかず首を縦に振って
「幼馴染なんだからしばらくおしゃべりしな。ではごゆっくり。」
と言って奥に下っていった。
テーブルの3人はお互いに顔を見合わせている。仲を取り持つおつきは
「坊ちゃん、おまつです。どうです。かわいい顔してるでしょ。おまつちゃんは私より5つ若いからまだ18です。伊太郎坊ちゃんより2つ下です。お似合いだと思うんだけど。」
と一人で盛り上がって2人を結び付けようとしている。18になった伊太郎ではあったがまだ純粋な若者なのでまともにおまつの顔を見ることが出来なかった。うつむき加減に足元を見ると草履をはいた足は白く、短めの着物だったので細く引き締まった足首が見えた。そのまま顔を上に上げていくと腰回りが見えたが、16歳の少女の体はまだつぼみの様な幼さが残っている。一瞬、顔を上げて彼女の顔の方を見ると髪はこの時代の未婚女性がしているように結い上げているが、白い肌に整った顔立ちで、おつきの従兄であることがうなずける美形だと一瞬のうちに判断できた。伊太郎は少しうれしかった。
「おまつさん。志比堺の生まれだってね。家は何をやっているんだい。」
伊太郎の言葉におまつははっとした。旅籠のおぼっちゃんと自分なんかが釣り合うわけがないと思ったのだろう。しかし嘘をつくわけにもいかず
「うちの父は小作人です。父の代で分家したので田んぼなんかありません。庄屋さんの家の田んぼを借りて作ってますから、貧しい暮らしをしてます。だから私はここで宝庫ぷさせてもらってます。」
と恥ずかしそうに自分の身の上を話した。伊太郎は
「なにも恥ずかしいことじゃないさ。うちだって旅籠屋はしてるけど田んぼなんか何にもねえのさ。貧しいもんさ。それにおれは次男と来たもんだ。何にも相続させてもらえねえから、一生勤め人さ。気楽なもんさ。」
とおどけてみせている。最初の恥ずかしそうなところはどこかに行ってしまったようだ。ただ隣に座っているおつきへの思いもなくしたわけではなかった。
21歳になった伊太郎は毎週のようにおまつを九頭竜川の河原に呼び出して逢引きを重ねた。2人の約束は1につく日の夕方、暮れ六つの時刻に古市側の船着き場付近で会おうというものだった。その日も伊太郎は渡し船に乗って対岸へ行き、堤防の陰でお松の来るのを待っていた。円屋のおかみもおまつと伊太郎が好き合っていることを知っていたので、奉公人ではあったが目を瞑って許していた。少しづつ暗くなりかけていた。伊太郎はお松が歩いてくる南の方をそわそわしながら見ている。しばらくするとおまつがはにかみながら小走りに歩いてきた。10日ぶりに会えたのがうれしいのか、伊太郎の姿を見つけると満面の笑顔で近づいてくる。2人は堤防をおりて川のほとりに座って話し始めた。
「おまつ、げんきだったかい。」
伊太郎が近況を聞くとおまつは伊太郎の顔を見つめながら顔を赤らめて
「私は元気だったわよ。伊太郎さんはどうだったの。」
と聞き返し伊太郎の手を握った。
「おれはおまえのことを思うと胸が痛くてつらかったよ。」
と冗談交じりに答えておまつの体を引き寄せた。
「いやだはずかしい。川向こうの鳴鹿から丸見えかもしれませんよ。ところで秋田屋の御主人は私たちのことをまだ許してくれないんですか。いつになったら夫婦になれるんでしょうか。うちの父が早く決めろってうるさいんです。」
おまつが言うように2人の交際を秋田屋の主人である伊太郎の父の伊右衛門はこころよく思っていなかった。小作人の娘では家の格が違うと言っているのである。
「もうしばらく待ってくれ。おれが説得するから。それよりおまえ、今日は少し紅をさしているのかい。」
伊太郎が見つめるおまつの唇が夕陽に照らされて赤みが増しているように思われた。おまつが店を出る前におかみさんがもう19なんだからすこしくらいはと言って紅をさしてくれたのだ。女のわずかな変化を気づきさりげなく褒めることはもてる男の必要条件だ。伊太郎はその才能はちいさいころから持ち合わせている。
「暗くなってきたから帰らないといけないけど、お父さんのお話を進めてくださいね。」
おまつの言葉を聞いて伊太郎はもう一度おまつの体を引き寄せ抱きしめて
「わかってるよ。急いで話を進めるよ。」
と話しながら10日ぶりの彼女の体の感触を確かめていた。女の盛りを迎えたおまつは少しずつ胸のふくらみも大人の領域に入って来たようだ。手のひらで確かめたい衝動にかられたがまだ伊太郎の理性が働いて制御できた。別れを告げると10日後の再開を約束しておまつを見送ると伊太郎は対岸で待機している船頭に手を振って船を呼びよせ帰路に着いた。
しかし、船で川を渡って家に帰ると秋田屋の伊右衛門が伊太郎を待ち構えていた。川を挟んで対岸から伊太郎とおまつが会っているところを見つかっていたようだ。家に入るなり伊右衛門は伊太郎にテーブルに座るように命じて
「おまえ、あの子はだめだと言っただろ。あの子の親父の丑松は志比堺でもあまり評判が良くない。娘はいい子だよ。器量もいいし気立ても優しそうであんなオヤジにしては出来すぎかもしれない。でもな、夫婦になるという事はあの親父も親戚になるという事だぞ。そういうことまで考えて結婚するんだ。」
伊右衛門の言葉に伊太郎は怒りを感じた。恋に燃え上がっている若者に聞く耳はなかった。
「おやじ、そんないい方はないよ。丑松さんは小作人だけど働き者だ。それにおれは親父さんと夫婦になるわけじゃねえ。おれたちのつきあいを邪魔しないでくれ。」
伊太郎が大きな声で言うので奥で仕事していたおつきの耳にも聞こえてしまった。おつきはおまつと伊太郎がい蒔く言って欲しいとは思っていたが、自分が伊太郎から思われていたことにわずかながら嬉しい気持ちもあり、その気持ちを忘れるためにもおまつと伊太郎の関係が進展することを望んでいたのだ。しかし伊太郎の許しが出ないまま2人の付き合いはずるずると続いて行った。