淡い思い おつきとの出会い
おつきが秋田屋に奉公に来たのはおつきが15、伊太郎が12の時だった。おつきは本当の名前は“つき”というが慣例上女の名前には“お”を付けておつきと呼んでいた。おつきは隣村の上久米田の定吉の娘で、家の家計を助けるために旅籠での女中勤めを始めたのである。秋田屋の屋根裏の小さな部屋に同じ女中の先輩と一緒に寝起きしながら、一生懸命働いた。15のおつきはまだ細く、子供のような体型だったが、顔立ちは目鼻立ちが美しく整い、農作業のせいで顔の肌は浅黒かったが美人の部類だった。
秋田屋に来たばかりの頃は伊太郎はまだ子供だったので何も思っていなかったが、月日が過ぎて伊太郎が14、おつきが17の頃には美人のおつきを伊太郎が少しづつ意識し始める年ごろになっていた。伊太郎が漬物桶を川に持って行って洗おうと川へ降りる階段を下りていると、川の洗い場におつきが洗濯物をすすいでいた。その様子を見た伊太郎はおつきの白くてきれいな足が膝まであらわになっている様子に目を奪われた。着物は濡れないように裾を前も後ろもまくり上げて帯にはさんでいる。下に着ている襦袢も濡れないように少したくし上げているので足が太ももまで見えそうになるところを、少し斜めにひざを折って周りからは見えないように気を付けている。しかし後ろから静かに近づき横の洗い場に来た伊太郎からはその白いきれいな足がしっかりと見えた。伊太郎が来たことに気づいたおつきは恥ずかしそうに襦袢を下ろし、膝が見えないようにして洗い物を続けたが、伊太郎はおつきの首筋が川の水と汗で少し濡れて輝いているのを見逃さなかった。伊太郎にとっては3歳上のお姐さんなのだが初めて女として意識した瞬間だった。おつきは洗い物が終わると着物を整えて川の階段を昇って家に行ってしまった。
2年後には16になった伊太郎が客のお膳を台所に運ぼうとしていると19のおつきが踏み台に乗って使い終わったお膳や漆の食器を棚の上に片付けようとしていた。台所作業の途中だったおつきはひもをたすき掛けにして袖をまくり上げ、下半身は前掛けをして着物はたくし上げている。踏み台にのぼった後ろ姿は襦袢が見え、足元は白い足首がのぞいている。下から見上げている伊太郎におつきは
「伊太郎坊ちゃん、下から見るのは恥ずかしいです。おやめください。」
と言って顔を赤らめた。伊太郎はそそくさとその場を離れたが先日の洗い場の件と言い今日の踏み台の件と言い、おつきのことを特別な思いで見るようになってしまった。
一番特別だったのは伊太郎が18、おつきが21になった夏の夜、伊太郎は村の夏祭りで神社で若い衆と踊り、夜遅くに帰って来た。店はもう閉まっていて明かりも消えていたが、裏の木戸から入ろうと真っ暗な西の路地に入ると風呂場から明かりが見えた。まさかと思いながら足音をさせずに近づいて開いている隙間から覗き込むとおつきの背中が見えた。21のおつきは肉付きもよく美しい大人の女に成長していた。風呂は家の者が順番に入るが、奉公人たちは最後に入り風呂を掃除して上がる決まりになっていた。おつきは一番最後に入るのでこんなに遅くに入っているのだろう。伊太郎は後ろめたさと好奇心が入り混じり、もっとのぞき込みたいという思いをかなぐり捨ててゆっくりと裏の木戸へ進んだ。家に入るとまっすぐに自分の部屋に入り、寝床にもぐりこんだが、まだ興奮が収まらない。初めて見る母以外の女の裸、背中だけだったが18の少年には刺激が強すぎた。
寝床で布団をかぶり寝ようと目を瞑っていたが先ほどの光景が頭から離れない。悶々としていると部屋の戸を静かに横に開けて誰かが入って来た気配がした。
「坊ちゃん、さっきお風呂の外から私が入っている姿を覗きましたね。私は奉公人ですが女郎ではありません。それに坊ちゃんよりも3つも年上です。世の中に女はたくさんいますから私なんぞに気を取られず、良いお嫁さんを見つけてください。」
と言ってまた静かに戸を閉めて出ていった。
それからというもの、まだ18の伊太郎は年上のおつきに片思いを続けることになる。20歳の頃からは伊太郎は鳴鹿の堰の建設作業にも加わるようになるが、作業で手に入れるお給金からおつきにかんざしを買ってプレゼントしたり、たまにはその思いが募り逆に意地悪なことをしたりもした。そのたびにおつきからは子ども扱いされ、なかなか届かないあこがれの気持ちが不完全燃焼で終わっていた。
しかしあるとき家の中の不思議な現象に気づいた。みんなが寝静まった夜中に、おつきの部屋の近くをうろつき彼女の様子をうかがっていると、同じように彼女の部屋を覗き込もうとしている兄に気が付いた。兄の名は伊吉。伊吉もまた美しい奉公人の娘おつきに好意を抱いていたのだ。兄である伊吉はおつきの1つ上であり、年齢的にはバランスがとれる。兄の伊吉は父の伊右衛門が死ねば、名前を伊右衛門に変えて家を継ぐことになる。世継ぎの兄が好意を寄せる娘に次男も好意を寄せていることになってしまったのだ。兄の伊吉はおつきの部屋に忍び込んでおつきの寝床に入ろうとしていたのだ。伊吉は伊太郎を見つけると
「お前何やってるんだ。ここは奉公人の部屋だぞ。」
と声の調子を落としながら血相を変えて伊太郎に注意してきた。伊太郎は
「兄さんこそ何やってるんだ。この部屋は女中たちの部屋だろ。中に入ろうとしてたんじゃないのかい。」
と問い詰めると兄は居直った感じで
「おれはこの家の跡取りだ。女中たちを監督する責任がある。お前とは違うんだ。」
と自分の方が正しいとばかりに正論をぶってきた。
「どうせ兄さんだって、おつきが好きなんだろ。」
と伊太郎が言うと兄の伊吉は伊太郎につかみかかって来た。2人で取っ組み合いの争いをしていると中からおつきと中年の女中が寝間着姿で戸を開けて出てきた。おつきは
「どうしたんですかお二人とも。夜中ですよ。それにここは女奉公人の部屋です。お坊ちゃんたちがいらっしゃるところではありません。どうかお戻りください。」
と言うので事態をおさめたが、その時父の伊右衛門も廊下の奥から出てきた。父もこの部屋の近くに潜んでいたのだった。
伊太郎の初恋は片思いのまま終結し、おつきとの関係は年上の友人と言った関係に変化していった。秋の夕方、目の前の九頭竜川を見下ろす渡し場の坂に長椅子があるのだが、そこで伊太郎はおつきに相談を持ち掛けていた。
「おつき、おれはお前のことが好きだったが、年上だしお前はおれのことを相手にしてくれそうもない。しかも兄はお前のことを好きみたいだ。おまけに父は母がいるのにお前のことが気にかかるみたいだ。このうちの男たちはみんなどうかしてる。お前に振り回されているんだ。お前にとっては兄さんと付き合うことが一番いいのかもしれない。でもおれはこれからどうしたらいいんだろう?」
あふれ出る思いを正直にぶつけてみた。おつきは
「伊太郎さん、私なんかじゃなくてもっといい女を探してください。私はおまえさまより3つも年上です。旦那様がお許しくださるわけがありません。好いていただけることは大変うれしいですけど、付き合う相手はよくお考え下さい。伊太郎さんはまだ若いから目の前にいる女しか見えなくて、その女に熱を上げているだけです。周りをもっと見てください。そういえば川向こうの志比堺に私の従兄がおりますが、おまつと言います。年は私より4つ下ですから伊太郎さんの一つ下です。器量よしだし気立てもいいし、かわいいおなごですヨ。いっぺん会って見ませんか。」
おつきは別の女を紹介してきた。これは完全に私のことはあきらめてくださいと言う意思表示だと伊太郎も気づいた。