恋坂
この作品は「越前国名跡考」という江戸時代の地誌本の中に出てくる恋坂という地名とそこに記されている狂歌を題材に創作したものです。地名は人々の記憶から消え去ってしまっている歴史的事象を秘かに残す大切なものなので、安易に地名を変えてしまう事には異議を感じる。
この峠は後に越坂峠と呼ばれるようになるが、江戸時代末期にはまだ恋坂峠と呼ばれていた。江戸時代の文献でも恋坂と記録されている。なんとも色香のあるかわいい地名だが、この地名のゆかりははっきりしない。この峠道は福井から勝山に向かう勝山街道を追分という集落で分岐して永平寺に向かう近道として作られた道で、吉野村の吉野堺から志比谷村の諏訪間に抜ける。この峠越えの道を永平寺への参拝客が往来していた。永平寺道として道標も立っている。
嘉永3(1850)年8月、早朝の峠の頂上で伊太郎という男が峠の北側を見つめて何やら考え込んでいる。伊太郎はここから北へ2キロほどいった鳴鹿の渡しの旅籠「秋田屋」の23歳の次男である。普段は旅籠の手伝いをしながら、春と秋には鳴鹿の堰の建設の作業員として日雇いをして働いていた。大野や勝山など谷合を流れてきた九頭竜川は鳴鹿の堰あたりで平野に出る。春になるとその流れを堰き止め、用水路に水を流し福井平野全域の田を潤す。秋には堰を壊し流れを元に戻して用水路への水の供給を止める。毎年大量の材木と竹籠と石で土木工事を行ってきたのである。そのために工事の季節になるとこの村周辺には多くの男たちが集まり、その男たちを楽しませるために飲食店や女郎屋、博奕場まで開かれていた。
恋坂峠で北の方向には伊太郎の家がある鳴鹿の渡しが見える。伊太郎はある女のこれからについて考えながら見つめていた。その女というのは鳴鹿の対岸にある古市村の円屋につとめていた“まつ”という女中だった。伊太郎とまつは3年前から恋仲だったのだ。人目を避けるために、毎回峠で会うことにしていたのだが、今日は事件があってここには来れない。伊太郎は彼女のことを考えながら峠の地蔵さんの前で大きな石に腰掛けて持って来た吸筒をだして中に入れてきた酒を一口飲み始めた。するとその時、曲がりくねった峠道の最後の曲がり角を歩いてくる人影が見えた。菅笠に黒い僧服を身に着けた坊主だった。永平寺から托鉢にでも来たのだろうか。そう思った伊太郎だったがその坊主も峠を上るのに息を切らせたのか、峠の頂上で伊太郎の座っている大きな石の傍らに座り込んだ。その坊主は頭をそり上げていて、いかにも修行中と言った感じがした。年の頃なら30歳程度だろうか。
「お坊さんはどちらから来られたんですか?」
と伊太郎が聞くとそのお坊様は
「私はこの峠を降りた松岡の天龍寺で修行をする栄心という坊主です。今日はご住職のお使いで永平寺に行ってきた帰りです。」
とすかさず答えてくれた。人のことを聞くだけ聞いて自分のことを語らないのは失礼かなと思い伊太郎も
「私は鳴鹿村の秋田屋の息子で伊太郎と申します。いつもここで定期的に人に会っていたんですが今日は特別な事情で来れないんです。」
と答えた。定期的に会っていたのが若い女だとは言いにくかったので隠しておいたが、まだ若いので少し不安がっていることも表情に出てしまった。栄心は
「その事情というのは大変なことなんですね。不安な感じに見えるんだけど、その人は女かい?」
と聞いてきた。見透かされて純粋な伊太郎はますます顔に出たようだ。栄心はさらに続けて
「その顔は女だな。若いって言うのは良いことも多いけど、つらいこともたくさんあるよね。どんな悩みがあるんだい。少し話してみたら気持ちが楽になるかもよ。」
と言ってくれた。伊太郎は今日までの苦悩を見知らぬ坊主に出会いからあの事件まで相談してみることにした。
すべて話し終えると栄心は
「私はいろんなところで狂歌を詠んでいるんだ。この峠は元禄の頃に芭蕉も通っているだろ。芭蕉の俳句ほど高等なものではないけど、狂歌もいいよ。」
と言って周りを見渡した。伊太郎は盃を栄心に渡して、持っていた吸筒の酒を注いだ。すると栄心は遠くを眺めながら
「なるか(鳴鹿)とてひとつくめた(久米田)としひさかい(志比堺)
むこふあひつき(合月) こなたまつおか(松岡)」
と詠んだ。伊太郎は
「ちょっと待ってください。鳴鹿、久米田、志比堺、合月、松岡。全部ここから見える範囲の地名を中に込めたんですね。すごいですね。」
と感嘆すると栄心は
「君が悩んでいる“おまつ”と“おつき”の名前も込められましたよ。」
と教えてくれた。