THE HAND
沈んでいく……
水じゃない。これは……?
怒り?憂い?悲しみ?―――どれでもない。なにもわからない感情が俺を呑み込んでいく。
抗う術がない。ただ無数に伸びてくる手が俺を引っ張る。振りほどこうという気も起きない。どこかで覚えのある感覚―――なんだろうか?なんだか思い出す必要はないような……
このまま吞み込まれれば俺は苦しまずに死ねるのだろうか?
誰かを死ぬのは見たくない。だから戦う。
そこに一点の曇りはない。しかし、それでも苦しいことはある。罵倒される毎日は、気づかないうちに己の精神を蝕んでいた。大丈夫だと。気にする必要はないと思ってきたが、心のどこかには苦しみを与え続けていた。
そんなことをする奴らを守る。
それは果たして正義なのだろうか?自分の正義は―――
「バッカ野郎がっ!」
そこまで考えたところで真司は叫んだ。
自分はそんなことを考えながら戦ってきたんじゃない、と自身の邪念をはらうように頭をブンブンと横に振る。
(俺は決めたんだ。死ぬなら、誰かを守って、自分を誇って死ねるようにって―――男なら決めたことを最後までやり通すもんだろうが!)
気を強く持とうとするが、今真司がいる場所ではどす黒い考えがしみ込んでくる。
次々に自身の理念を捻じ曲げられるような気持ちの悪い感覚。そして、それの元凶である闇に、彼を引っ張る数々の腕。
それのせいで抗おうとしても抗えない。
どんなに抜け出そうとしても振りほどけないと察した真司は、諦めて闇に入ろうとしているところ。このままではどうなるかはわからないが、ろくでもないことになるのは目に見えていた。
スランプに陥っていても、水泳を諦められなかった。
どんなに部活の邪魔をするなと言われても、なにもしないのにプールサイドにい続けた理由は諦められなかったからだ。いつか何かを手に入れられるんじゃないか。そう思った俺は部に出続けていた。
しかし、あの日に俺は幼女を助けるためだけに自分の将来を投げ出した。
すべてを投げ出すことになったあの一件で、真司の心は一度折れている。それでも立ち上がったのは、自身が体の自由を失ってまで人を助けたことに意味はあったと思いたかったからだ。
だからこそ彼は水泳を捨てて戦う道を選んだ。
そのために失ったものは多かったが、今までの人生で自身が一番誇れるものを手に入れることができたと思う。
だが、それが国に見つかって大衆の目に触れたときになにを言われたか。
『真司は人類の敵』だそうだ。さすがの真司もこれは応える。他の評価は関係ないと言っても、こうなった以上は彼がしかるべき機関に狙われるのは必然となる。
国はまだわかっていないのだ。真司を失ったら人類は魔界に対する対抗手段を失う。政策に対して批判的な人間がそれを言っているのは確かだが、あくまでビジネスライクなものか逆張り的な感覚でしかないだろう。
しかも戦闘を終えてボロボロになっていたところにその話をされたのだ。心の弱ったところにそんなことを言われてはとどめにしかならない。
そんな誰も幸せになれないことをするのか。
決して真司自身が幸せになりたいと思ってはいない。それでもなれるんじゃないかと錯覚する時くらいはなある。例えば、彼の恋人のアリスに抱きしめられているときとか。
今まで感じたことないくらいに幸福感に覆われたとき彼はそれを錯覚する。ただ、それは罪とは言わない。人が幸せになりたいと思う気持ちは悪いことではない。だからこそ、それを望めない彼は不幸なのだ。
(やっぱ、俺が誰かの戦うなんて荷が重すぎたのかな……)
そう考えた瞬間、彼の胸に圧迫感を感じた。
今、彼は背中から闇におちているかたち。ついに自信を前から押してくる手も出てきたのかと思うと、真司を引っ張る腕がどんどんとほどかれていく。
「な、なんだ……?」
あまりにも突然の出来事に真司自身も驚くが、そんな暇もないほどに闇も払われていく。
先ほどまで暗かったその世界は、いつの間にか無数の腕も消えており、ただなにもない空間のみが広がっていた。
しかし、それでも自身の胸に何かが乗っかっている感覚はぬぐえなかった。それは、明らかに手でもなかった。
感覚にはある程度の丸みを帯びている。
その正体を確かめようとなにもないところに手を置く。すると、ちょうど自身の胸の上のあたりから光を放ち……
「ぐっ……!?」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目を覚ました真司は見慣れた天井を最初に見た。朝、自分の姿勢がよければ見ることになる天井だった。
夢の中で感じた胸の異変。それは視線を自身の胸の上に落とすとその正体がすぐにわかった。
そこには胸のあたりの服を掴んで、顔を押し付けてむせび泣いているアリスの姿があった。
彼女はまだ真司が起きたことに気付いていないのかずっと顔を押し付けている。
そんなアリスの頭にポンっと手をのせると、さすがに気付いたのか彼女が顔をあげる。
真司が起きていることを確認すると、アリスはなにが起きているのかわからないような顔から顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「2日よ……どんだけ待たせるのよ……」
「そんなに寝てたのか。悪かったな」
「そろそろ心が折れそうだったわよ……」
「それでこの態勢か」
アリスは真司の上に跨っている。あまりにも真司が起きなくて、もう起きないのではないかと思うほどに追い詰められていて、せめて彼のことを感じたいとこんなことをしたのだ。
それのおかげで戻ってこれた可能性があるのは真司は黙っておくことにする。
だが、それでも伝えたかった。
自分を愛してくれる。自分を幸せにしようとしてくれる。自分を庇ってくれる。
そんな大事な大事な恋人に一つだけ伝えたいことがある。
それは―――
「ありがとうな……」
「なにが……なにがよ!馬鹿ッ!こんなに心配させて!」
「悪かったって」
「もうこんな思いさせないでよ……」
「保証しかねるが……まあわかったよ」
「そこは即答しなさいよ……本当にあなたは馬鹿だわ……」
そう言ってアリスは真司の体にすべてを預ける。
そんな彼女に真司は耳元でこうささやいた。
「愛してるよ」
「ひゃわ……ふ、不意打ちはやめなさいよ―――わ、私もよ……」




