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救世のディアフトライ  作者: 波多見錘


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アリスの唇

 人をこんなに好きになったことは過去に一度でもあっただろうか?


 アリスは自宅のベッドで横たわりながら考えていた。


 帰宅してからお風呂に入り、ピアノを弾く。毎日の習慣を終えた後は―――というよりも、ずっと真司の顔が彼女の頭に浮かんでいた。

 だからこ否が応にも彼を本気で想っていることを理解してしまう。


 思えば、彼女は彼の前でまともに大好きなピアノの話をしたことがない。いつもなら、その話をして異性をドン引きさせて帰らせるのが彼女ではあるのだが、現状、そういったことをしていない。


 それだけ真司にドン引きをしてほしくないのだ。


 「いや、違うわね……」


 そこまで考えて彼女は、それを声に出して一蹴する。おそらく真司なら、彼女の話をいつまでも聞いてくれるはずだ。静かに彼女が話し終わるまでずーっと聞いてくれるはず。それは彼女もわかっている。だというのに、彼女は話さない。


 心のどこかに彼への申し訳なさを感じているのだ。


 アリスに音を『聴く』才能があったとするなら、真司には『泳ぐ』才能があった。しかし、彼はそれを奪われて夢破れた男。たいして、アリスは現役でコンクールにも出たり、天才をいかんなく発揮している。


 そんな彼女は、普段の自分のピアノの話など彼にはできない。


 彼が気にしなくても、彼女自身が気にしてしまう。


 「はあ、真司……」


 気づけばそんな言葉が漏れていた。

 普段はあんなに気が強い彼女だが、やはり年頃の乙女ということだ。好きな人のことを考えて胸が苦しくなる。最近の彼女の悩みなどそのくらいだ。もちろん受け入れきれない事実もあるが、それ以上の幸せで上書きしてしまえばいい。


 昔から彼女は口説かれることはあった。この見てくれに、このプロポーション。しかも業界では天才と言われる有名人。そんな彼女がアメリカにいたときに注目を受けないはずがなかった。


 前に通っていた学校では毎日とは言わずとも、頻繁に告白を受けることはあった。たまに女子から告白されることもあったが―――たいていの者は1度で終わるものだったが、たまに2度以上するものや食い下がったりするしつこいものがいた。


 好きでもないのに、なんどもされても迷惑だというのに……


 しかし、日本に来て、彼女はその気持ちを分かった気がした。


 来日して初めての出来事―――それは幸か不幸か魔物に襲われたこと。そしてそれがすべての始まり。

 顔こそ見れなかったが、自分の耳で感じた心地よく優しい声。そんな人に助けられて、もう一度会いたいと思うようになった。


 そしてその願いはすぐにかなった。


 転校先の学校―――しかも、隣の席にその声の主がいた。聞き間違いなんてありえなかった。あの日から何度も反芻させて惚れこみ続けたあの声。しかし、その声の主の目は暗かった。何事かと思えば、すぐにわかった。


 なんせ彼は、休み時間すぐにどこかに行き、誰ともつるもうとしていなかった。


 自分でそうしているはずなのに、どこか寂しそうな表情。すぐに彼を笑顔にしたいと思った。そこで聞いた、逃げただけのクズという言葉。許せなかった。自身の母親の存在を知っていた彼女は。夢破れることに対して、そんな逃げたクズなんて心ない言葉をかける人たちのことを。


 そう考えると彼女は、自然と真司に歩み寄っていた。最初は、気になる男子に声をかける程度、ただいつの間にか守ってくれた人を前にすると、なんだか急に目の前が真っ暗になって不安感に襲われた。

 彼を頼れば助けてくれる。でも、彼はすでに苦しんでいる。色々な感情がぐちゃぐちゃになって、抱きついて泣いてしまった。転校してきて間もない彼女だったが、まさか自分がそんな姿を見せるとは思っていなかった。


 そこからズルズルと彼と一緒にいる日々。そこで見てきた彼の苦しみ―――自身を犠牲にしてでも誰かを守ろうとするその姿が好きになっていた。

 一時のすれ違いこそあったものの、今はその関係を修復して恋人になっている。


 もちろん彼女にも思うことはあった。

 このまま恋人になることに対して、彼の幼馴染に対してわずかながらひけめがあった。


 それもそうだ。彼女がファーストキスを真司にささげた日、キスをする彼女の目には、真司以外に後ろに唯咲美穂もいた。アリスは彼女に見せつけるようにキスを続けた。あの時はなにがなんでも真司を手に入れようとしていたのだから当然だ。


 あそこで手を緩めれば、付け入るスキを与えれば―――あの時のように辛い言葉を投げかけられたかもしれない。


 とっさと判断としては、よかったと自負している。


 ただ、その行為は真司の彼女としての立場を確立すると同時に、その幼馴染を絶望に突き落とす行為。やり過ぎたのではないかと、心配になる。だが、加藤とかいう水泳部のエースと付き合うことになったのは、ちょっとした話題になっていたので、もしかしたらこれでよかったのかもしれない。


 「もう―――よくわからないわね……でも、ごめんなさい唯咲さん。私もこれだけは……真司の隣だけは譲れない」


 そう言いながらアリスは唇をなぞる。

 よく保湿され、ぷるんとしたそれには、まだ彼の唇の感触が残っている。


 決して彼女は貞操観念は緩くない。そんな彼女のキス―――どれだけ特別な意味を持つのか。それが彼に伝わっていると良い。


 今は、自分の指に湿ったそれがくっついてくるだけだが、なんども触る。なんども反芻させる。

 それだけ自分にとって、初めてで大切で、愛おしい感覚。


 おそらくこの先一生忘れることがなく、そして絶対に忘れてはいけない大切な感覚。

 どんなことがっても、彼女の中でそのキスの感覚は奪えない。たとえ記憶喪失になっても、体が覚えている。それくらい大切なもの。そして、これからも体が常にその感覚を感じていられるくらいにしてほしい。


 そんな、少しだけ淫らな願いを想ってしまう彼女。


 真司は幸せ者だろう。

 どんなに突き放しても、どんなに辛い言葉を吐いても、アリスは絶対に離れない。そんな彼女が恋人になったのだ。彼にその気がなくても彼女は全力で彼を幸せにする。それが喜瀬川アリスという女なのだから。彼はもう幸せにならないことを諦めるべきなのだ。


 「真司……明日のリレー応援、してくれるわよね?」

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