心にある恐怖心
二人がキスをした後、何とも言えない時間が過ぎた。
互いになにかを言うわけでもなく、離れるわけでもなく―――この後にどうするべきなのか、経験が足りず何も言えない二人は、ただ抱きしめあうだけだった。
というより、互いに恥ずかしくて動けないのだ。
そして、そのままの姿勢を30分近く続けたころに、ようやく真司が均衡を破った。
「う、うちに行くか……」
「そ、そうね……お義母さんも待っているでしょうしね」
「わ、悪かったな―――キスなんかして……」
「へ?」
アリスは彼の言葉に耳を疑う。
確かにキスは彼からしてもらった。だが、それは彼女の求めたこと。目を瞑って、それを受け入れる姿勢を作った。それを察したから、彼はキスをしてくれたのだと思っていたからだ。
「アリスから、しようとしてたんだよな。でも、我慢できなくて、俺からしちゃった……」
「……ぷっ、アハハ!」
「わ、笑うなよ……」
「私がそんなこと気にすると思ったの?ていうか、キスくらいあなたからもしてほしいわよ!私のファーストキスは私から、2回目はあなたからしてほしかったから良いわよ。それに―――」
「それに?」
「我慢なんていらないわ。したくなったらいつでも言ってちょうだい。あなたの望みなら、私はなんでも答えて見せる」
そう言うと、アリスはもう一度真司に近づいて両手で頬を挟み込んだ。
挟まれたことによって情けない顔を作る真司だが、彼女にはそれが可愛く見える。好きな人だから―――というのも大きいのだろう。こんな人を愛したい。いや、同時に愛してほしい。
それだけが彼女の望み。彼女の今を生きる希望だった。
「さあ、行きましょう。あなたのお母さんが夕飯を作って待ってるわ!」
「俺より家庭事情を把握するのはやめてくれよ……」
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真司の家に帰ると、リビングではすでに料理を用意した母―――明音が待っていた。
彼の帰宅を確認すると、どこか安心したような表情を見せて歓迎してくれた。
「おかえり。ごはんの準備はできてるから、手洗って早く席につきな。アリスちゃんも遠慮せずに食べるんだよ」
「ご馳走になります」
そうして、二人は手を洗って席につくと、そのままいただきますをして夕飯を食べ始める。
特に豪華なものも特別なものもない。ただ、いつも通りの食事。だが、明音にとって今目の前にある光景は嬉しいものだった。
自分の息子がガールフレンドを連れてきて、一緒に宅を囲む。なんだか自分に娘ができたようでうれしかった。
思えば、彼女は真司に我慢ばかりをさせてきたのかもしれない。
水泳をやりたいとせがまれたとき、すんなりとやらせてあげることができたが、そのあとはろくに真司のお願いを聞いていない。心のどこかでそのことに対する罪悪感もあった。
だというのに、彼は戦い、そして死ぬ道を選んだ。そんな彼の姿を見て、孫の姿は見れないと思っていたのに―――こんなかわいい子を連れてきて……すごく、胸が熱くなる。
そんな感情を隠すように明音は質問する。
「アリスちゃんはこの後は家に帰るの?」
「さすがに何日も真司と寝てると、パパがそわそわしちゃうから―――今日は家に帰ろうと思ってます」
「そう。明日、お弁当は作ってもらえる?」
「そうですね……普段は作ってくれないけど、体育祭とか特別な時は張り切って作ってくれてますよ」
「じゃあ、明日は真司のお弁当だけで十分みたいだね」
「アリスの分も作ろうとしてたのか……」
「いいじゃないの。私だって、アリスちゃんのお世話をしたいのよ」
「よくわかんねえなあ……」
夕飯も食べ終えて、3人で少しゆっくりしていると、アリスが突然真司のもとに近づいてくる。いや、元々隣にいて近かったのだが、今は彼女の肌が触れるほどの距離に近づいてきている。
そのまま彼女は彼に耳打ちをした。
「明日の体育祭、応援してくれる?」
「っ!?―――いきなりなんだ!?」
「ふふっ、私、選抜リレーに出るのよ?なにか応援の言葉が欲しいなー」
「はいはい―――アリス、応援してる。だから、頑張れ」
「―――うん!がんばるから、見てなさいよ!」
真司の応援を受け取ったアリスは、満足げにしながらそう高らかに宣言する。
そんな二人の姿を見ながら飲む酒はうまいと微笑む真司の母の姿は、彼らに映っていないのであった。
そうこうしているうちに、アリスの母から連絡が来てそろそろ帰ってくるように言われた。
「私、そろそろ帰るわ」
「じゃあ、送ってくよ」
「悪いわね」
彼女が帰る準備を始めると、真司は流れるように出かける準備を始めた。
戦いに巻き込まれず、普通に過ごすことができていたのなら、もしかしたら彼は異性にモテたのかもしれない。まあ、そんなこと彼は興味もないのだが。
「2人とも気を付けるんだよ」
「「行ってきます(くる)」」
家を出た二人の間には、会話はなかった。
別にそこまでべらべら話すほどの話題もない。それに互いが互いに一緒にさえ入れればそれでいいと思っているから、これでいいのだ。
それでもアリスにもしたいことはある。恋人らしいことくらい、限られた時間でやりたいもの。
「真司……」
「ん?」
「手、つながない?」
「……いいよ。ほら」
「気恥ずかしいとかないの?」
「俺たちは恋人だろ?キスもしたし、ハグもした。今更手つなぐくらいで躊躇したりしない」
「そう……」
彼の言葉を聞いて、少しだけ残念に思う彼女だったが、それでも手は繋ぎたいので差し出された手を握る。自分のより大きくて、固い手。この手でたくさんの人の命を守ってきた。そう思うと、自分に結ばれた手は本当に大きくて立派なものに見えてくる。
「そういえば―――」
「なんだ?恋人つなぎにしたいか?」
「……したいけど、今はそれじゃないわよ」
「じゃあ、なんだ?」
「真司は、私とセックスしたい?」
「は?」
「あなたは、限られた時間を生きてる。だったら、早くそういうことは済ませたほうが……」
「別にいいよ。アリスは、体の関係を持つのが少し怖いんだろ?だったら別に―――」
そこまで彼が言うと、アリスは悔しそうに強く手を握った。
その手は真司のを握っている手でもあったのだが、彼は指摘せず、痛みを受け入れる。
「正直怖いわ―――痛いとか聞いたこともあるけど、なにより男の人に制圧されるような、襲われるような―――ハグとは違う感覚に襲われるの……」
「だから、無理しなくていいって」
「―――でもね、男として童貞で死ぬのは嫌でしょう?だから、私頑張るから。体育祭で優勝したら……」
そこまで言うと、アリスの口は真司によって閉ざされた。
彼女の口を閉ざした彼は、今まで見たことないような表情をしていた。嬉しそうにはしているが、明らかに怒っている。そんな複雑な表情をしている。
「怖いものを怖いままでしようとするな。お前の心を縛るのは、アリス自身でも許されないことだ。それにな、俺は今十分に幸せだ。その幸せが守れるなら、俺は童貞で死んでも構わない。でも、アリスがその恐怖心を超えてしたいというときは―――その時は、俺もアリスとしたいから……」
「ごめんなさい……私」
「いいんだ。アリスが俺第一に考えてくれているのは知ってる。でもな、いつかアリスの体は自分だけのものじゃなくなるんだ。遅かれ早かれ、いつかな。だから、もっと自分の心に聞いてみろ。したいことはないか。怖いことはないか。そして、好きな人になにをしてほしいのか―――とかな。体育祭は、体の関係を賭けるに関係なく応援してる。だから、思いっきりアリスの笑顔を見せてくれ」




