BETTER TWO THAN ONE , THREE INSTEAD OF TWO
意識が戻る前、彼は嗅ぎ慣れない匂いを感じていた。
金木犀の香り―――鼻腔を満たしていくほどの甘い匂い。
しかし、そこに不快感はない。なにかにつつまれるような温かさもあり、心地がいい。
そんな香りに土まれながら彼の瞼が上がると、彼の目の前に最近はよく見慣れた顔があった。
「アリス……寝てるのか?」
「……起きてるわよ。寝ようと思ったら、意識ないまま抱きしめてくるし、寝相が悪すぎよ」
目の前にアリスが寝ていた。
いつものように彼のベッドに入っては、添い寝をしていたのだが、そこからすぐに彼に手を背中に回され、拘束されてしまった。
拘束という言い方は少々物騒ではあるが、実際そのくらい身動きが取れなかった。
しかし、彼女自身もそこまでの拒否感はなく、むしろ受け入れの姿勢を見せていた。
だが、そんな彼女がハグでドキドキしているのに、真司から飛び出してきた言葉は度肝を抜かれるものだった。
「シャンプー変えたか?」
「……ふんっ!」
彼女は一瞬だけ硬直し、すぐさま行動に出る。
気に入らないとばかりに頭突きを彼にかました。
彼にもダメージは入ったが、結局彼女自身も頭に痛みが走ってしまった。
「―――バカ……」
「いや、いつもと違う匂いがしたから……」
「お義母さんのシャンプーとリンスかりたのよ。だからいつもと違うだけよ」
「そうか……まあ、いい匂いだよ」
「そうじゃ、そうじゃないでしょ!」
少しだけ嗚咽が混じった言葉。さすがに真司もそこで気付けないほどクズではない。
いや、詳しい意図そのものはわからないが、なんでこうなっているのかは分かった。自分が言葉選びを間違えたのだ。
自分が何を言うべきだったのか―――それは彼女の涙を見ればわかることだった。
「ただいま……」
「もう、遅いのよ……ばか……」
「悪かったって」
彼の胸に顔を埋めてアリスは涙を流した。
声に出してわめいたりすることはなく、静かに鼻を鳴らしながらぐずぐずと泣いている。
本当に心配されていることがわかる。
今の彼にできることは、彼女を慰めることだけ。
急に倒れた自分も悪いから、泣き止めだなんて言えない。まあ、女の子相手にそんな発言はあり得ないと言われるかもしれないが。真司は普通にそういうことを言う人間だ。男女関係なく。
そんなことは置いておいて、結局彼の心を満たすのは彼女だ。
彼女を失うとき、真司もまた心を壊してしまうのだろう。その姿は苛烈で、残酷で―――彼を冷酷な殺人マシーンに変えてしまうに違いない。
しっかりと目を覚ましたところで時刻を見ると、彼が帰ってきた時間の6時間ほど後だろうか。
もう昼というより、夜という時間になっていた。
「もう夜か……」
「そうね―――ご飯食べる?」
「そうだな」
きゅるるる
ご飯を食べる、と真司がアリスの言葉に同意すると腹の虫が大きくなった。
腹を鳴らしたのは真司ではなく、アリスだった。
あまりの恥ずかしさに彼女はお腹を押さえながら顔を真っ赤にして俯く。豪快な音、というわけではないが、本当にお腹が空いているのだろうと思えるほど大きなものだった。
羞恥で死んでしまえるほどのものだった。
「……聞かなかったことにしてくれるかしら?」
「えぇ……いや、腹減ってたんだろ?」
「デリカシーないわね。女の子のそういうことはなにも言わずに忘れるものよ」
「別にいいだろ?それ以上に恥ずかしいことなんかしてるし、これからもだろ?」
「うるさいうるさい!いいから忘れろ!」
真司の言葉に彼女は顔を真っ赤にしながら背中をバシバシ叩き、抗議の意を主張する。
彼はそれを甘んじて受け入れながら、下の階へと向かっていく。
すると、そこには母親がおり、彼の姿を確認すると一言だけ言った。
「ご飯は食べるのか?」
「そうする―――昼も食ってないから腹減ったよ」
そう言うと、明音は冷蔵庫の中から色々なものを取り出した。
そのすべてが、今日の昼に出そうとしていたもの。捨てるのはもったいないし、アリスが心を込めて作ったものなので、夜ご飯に繰り越しになった。
しかも、明音もアリスも彼同様に昼を食べていない。彼がいないところで食べるのは嫌だったし、看病のことでそれどころじゃなかったからだ。
明音は食べる時間は十分にあったのだが、彼女自身昼に真司とアリスと一緒に食べると決めてしまった手前、ここに来て一人で食べるのは気が乗らなかったからだ。
「じゃあ、あたしたちも腹減ってるから早く食べよう。アリスも席につけ」
「は、はい……!」
全員の着席を確認した後、全員がいただきますをして食べ始める。
「ん、この卵焼きアリスのか?」
「―――!う、うん……おいしい?」
「おいしいよ。この間からも練習してたんだな」
「よかったあ……」
二人の仲睦まじい姿を見た明音はふっと口角を上げながら見守った。
自分の息子の恋姿を見れるのはなんだか嬉しいものだった。
しばらくの間黙々と時間が過ぎていったのだが、テレビを見ていたアリスが気付いた。
「今日のニュース―――魔物関連がないわね」
「そりゃあ、今日はなにも起きてないからな」
「いや、今日真司は戦いに行ったじゃない」
「でも、人払いの結界が貼ってあった。戦闘後も、青龍の魔術で街を戻したし、誰も気づいてないんだよ」
要はシュレディンガーの猫と言わけだ。
今回の件は誰も認識していない。観測できない事象は起きてないのと同じ。今回の戦闘の目撃者はおらず、当事者しか知らない。
真司の苦労を知られることはないが、同時に街が壊れる恐怖を味合わなくて済む。
どっちもどっちだ。まあ、真司自身に承認欲求はさほどないため、前者は言うほど気にしていない。
「でも、なんか嫌―――真司があんなにボロボロになって帰ってきたのに」
「いや、あれはとんでもないバカがいただけだよ」
「バカ?」
「自爆で事を済ませようとした奴がいた。それで負ったダメージだな」
「相手は?」
「死んじゃいない。そういう技なんだろう―――まあ、こっちのも後遺症になるほどの攻撃じゃなかったから気にすることじゃない」
そう言うと、真司は卵焼きを頬張る。
今までで一番おいしいと思えるものが、恋人の作ったもの。こんなにも嬉しいことはない。彼女が自分のためにおいしいものを頑張って作ってくれた。
それは戦闘の傷も癒せるほどのものだった。