COMMANDMENTS AND THANKSGIVING
「嫌なところに遭遇させちゃって悪いな」
元父のいた場を離れて、すぐに真司はそう言った。
その言葉を聞いた後輩は首を横に振り、真司に言う。
「いいですよ。別に先輩が悪いってわけじゃないじゃないですか。完全にあの人の勝手で来ているんですから」
「はは、身内の恥だよ。あんなのと血のつながりがあるってだけでも」
「し、心配しなくても大丈夫です!あんな男の血より、お母さんの血のほうが色濃く出てるに決まってますよ。だって、先輩、すごく一途じゃないですか!」
「そう、かもな―――俺がアリスの好意に縋ってるだけな気もするけど……」
言いながら真司は自身の右こぶしを見る。先ほどの男を殴った手だった。
殴ったからと気が晴れるようなことはない。元々ほとんど顔を知らないような状態だ。知るための少ない手段である母のアルバムや父がいたころの家族写真は軒並み父親であろう男の顔が塗りつぶされていた。
それでも塗りつぶし忘れであろう写真を見たことがったが、記憶は薄い。彼にとって、ほぼ知らない人間を殴ったような感覚だった。
真司は真司なりに、殴ることに思うことはある。相手が人間だろうが魔物だろうがそれは変わらない。殴るときに感じる拳に当たる鈍い感覚はいつだっていやなものだ。
「それより先輩、いいんですか?」
「……?なにがだ?」
「いや、私が先輩の恋人になってるみたいなんですけど……」
「あー、アリスは事情を話せばわかるだろうし、あのクズと関わることは二度とないから気にすんな」
「ならいいんですけど」
真司の言葉を聞けて安堵じみたものを覚えるが、それでも少し懸念があった。
それを安心させるためか、彼は彼女の手を握る。
「怖いのなら、これだけは覚えておいてくれ。本当の恐怖に沈みそうになった時、その時一番自分を助けてくれそうな人間の名を心の中でもいい。思いっきり叫ぶんだ」
「思いっきり叫ぶ……?」
「ああ、信じるかそうしないかはお前に任せる。だが、奇跡を願うなら強く思うんだ」
「……はい。だったら、私は先輩の名前を叫びます」
真司の励ましなのか本当なのかわからない言葉を聞いて、後輩は勢いよく首を縦に振りながら言った。
彼は苦笑いするしかなかった。迷わず自分を頼ろうとしてくれるのは嬉しいが、ここまで即答だと少しだけ困ってしまうものだった。
だが、彼にとってそれは大きなものである。多くの人に忌み嫌われ、理解者がまともにいない現状で自分を信じてくれるという言葉は響くものがあった。
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翌日、またも真司の家に来たアリスは、想定外の事態にあっていた。
「し、真司……?」
「ん、どうした?」
「ど、どうしたじゃないわよ!ちょ、一旦離して!」
「……嫌だな」
アリスが困惑しているのは、真司が彼女のことを後ろから抱きしめながら頭を撫でているからだ。
彼の自宅に行き、部屋に入るや否やすぐにつかまってしまった。あまりにも突然のことに、彼女の頭の中は一瞬でパンクしたが、すぐに持ち直した。
「も、もうこのままでいいわ……どうしたの、真司」
「どうもしてないさ。ただ、恋人を愛でてるだけだろ?なにもおかしくない」
「それがおかしいのよ。いや、嫌じゃないわよ。ただ、真司らしくないから……」
「俺はな……アリス以外に興味ないよ」
「そ、そうなの?彼女としては嬉しい限りだけど……」
「俺は一途なんだ……」
「“は”って……その言葉の使い方だと、まるで対比の存在がいるみたいじゃない」
言いながら彼女は自身に回された腕に手を添える。
彼の真意が全く見えない。だが、愛情故の行動なのはわかったので、受け入れることにする。
もう、なんでもいいのだ。
自分が愛されていると自覚できればなんでもいい。少ない時間を彼とどう過ごすのか、それを考えなくてよくなるくらい濃密な時間を過ごせればいい。
そんな惰性の気持ちが彼女の中に沸いてしまう。だが、気になることではある。
彼が突然こうなったのには、なにか理由があるのではないかと。
そんな疑念を口に出すより前に、真司が言った。
「俺は最低だ……」
「なにがあったの?」
「助けるつもりとはいえ、俺は関係ない奴を巻き込んじまった」
「後輩の子のこと?あの子から直接話は聞いてるから大丈夫よ。私はそんなことで怒ったりしないわよ―――あ、もしかして、昨日の今日だからこうなってるの?」
「危険な目に遭わせるのをわかってて、放置してしまった」
「……なにがあったの?」
真司の二言目を聞いて、アリスは事は悠長にしていいものではないと感じ取った。一言目への返答と言葉は変わらないが、語気が違った。
「あいつは俺の恋人だと勘違いされている。そうなれば、あのクズは確実に何かしてくる。俺はあいつが嫌いだ。母さんが嫌うものを、俺が好きになるはずがない。そして、昨日のことで分かった。あいつは殺さなくちゃダメだ。俺たちの名誉のために、これ以上世の女が奴の毒牙にかからないために」
「そのための大義名分にあの子を使うのね?」
「そうだ……今の彼女の手には目に見えないが龍紋がある。だから、守ることはできる。だが、それは同時にトラウマを植え付けることになる。それでも、それ以外に奴を殺す大義名分を得られない」
その言葉を聞いて、アリスは自身に回された腕を振り払って、真司を押し倒した。
ベッドにぼふっと押し付けられた彼は、ただ無抵抗に体を放って、彼女から目を逸らす。
「私はなにも聞いてない……」
「え……?」
「真司がそんな人道から反したことをするなんて信じない」
その言葉は自分を言い聞かせながら、彼への戒めにしているようだった。
「あ、アリス……?」
「だから私から言えることは一つだけ。ちゃんと責任もって、最後までやり通しなさい」
「でも、あいつにトラウマを植え付けることに……」
「そこまで責任をもってやりなさい。そのためなら、私をいくらでも酷使していいから!あなたのためなら、私はこの身のすべてをあなたに捧げるわ―――ひぅ……!?」
アリスの言葉を聞いた瞬間、真司は彼女を抱きしめた。抱きしめる際に引っ張られたアリスは真司の上に乗っかる形になってしまう。そんな状態で彼は、彼女に囁いた。
「ありがとう、アリス」