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A GOOD MAN WHO DRIPS WITH WATER

 「十神の彼女、戻ってこないな?」

 「先生、女子のデリケートな問題に踏み込んじゃだめですよ」

 「お?あの十神が生意気にも紳士じみたことを言うじゃないか」

 「生意気、ってなんですか」


 アリスがお手洗いに向かうと言ってからしばらくして、犬山が口を開いた。

 ここに来て、彼は真司から本当の話を聞けていない。信頼されていないわけじゃないのは理解しているから、おそらく本当に隠したいなにかなのだろう。そう考えながら犬山は真司を見る。


 水泳はやめたと言っているが、その割には筋肉はついている。むしろ、中学時代よりしっかりついているように見受けられる。

 それは真司が何かしらの運動をしているのは明白だった。


 まあ、真司がブクブクに太っているよりは全然マシなのだが。


 ストレスでそうなってしまう可能性も少なからずあったので、犬山はそこら辺に関しては安心した。


 「それにしても、喜瀬川アリス―――どこかで聞いたことが……?」

 「あいつ、アメリカにいたときはピアノやってた、って言ってましたね」

 「あー、思い出した!去年電撃引退した音楽の姫だ」

 「引退?」

 「なんだ、聞いてないのか?喜瀬川アリス。有名ピアニストながら事故で引退した母の血を受け継いだ天才。それは全盛期の母を大きく上回る才だった。そんな彼女は去年突然引退して、アメリカから去った。まさか、こんな町で恋を見つけているとはな」

 「そんなに有名なんですか?」

 「そうだな。その界隈の人間なら誰でも知ってる。私ですら、少しだけ噂を聞く程度にはな」


 そう言う犬山の言葉には無視できない言葉が混じっていた。


 「噂?」

 「まあな、喜瀬川アリスは引退理由を明かしていないんだがな、一部では事務所の社長やプロデューサーとの枕を強要されかけたから、って言われてるんだよ」

 「枕営業……?あいつは人気だったんでしょ?」

 「そうだけどな。それはアメリカで、の話だ。コンサートのチケットとかは即完するくらいのものだ。だけど、テレビとかの露出は少なかったし、日本とかの海外ではそこまでだったんだ。だから、テレビとかにも積極的に出してやる、って言われながら服を破られたらしい。それから彼女は逃げるように事務所を辞め、アメリカからもいなくなったって話だ」


 そこまで聞いて、芸能関連の話に疎い真司はようやくアリスの闇を知れた。おそらく、このことは彼女自身が話したくないことなのだろう。親にも口止めして、真司に話さないようにしていたのだろう。


 しかし、ここで彼は合点がいった。

 なぜ彼女は手を震わせながらも、自身と肉体関係を持とうとするのかが。


 おそらく、真司に対する愛情もあるのだろうが、それと同じくらい忘れたいことがあったのだ。

 枕を売れるための手段とする判断をその時にアリスが下したのかはわからない。だが、今の彼女を見る限りそうとは思えない。ゆえに、その忌まわしい記憶を―――行為を真司とのものにすることで上書きしようとしたのだろう。


 そんな想像が容易にできた。

 彼はそれを利用されたとは思わない。好きな人が苦しんでいるのなら、求めているのなら静かに手を伸ばしてあげることが大事なのではないのか。


 「なんだか、俺のするべきことが見つかったみたいですね」

 「ん……?今の話になにかあったのか?」

 「いえ、ただ与えられてるばかりじゃ、アリスに申し訳ないな、って今更ながらに」

 「お前が与えてない?冗談言え。十神は真っ先に恋人に与えるタイプだろ」

 「そう世の中はうまくできてないんですよ」


 そう言うと真司は、伸びをする。

 これから準備しなくちゃいけないこと。彼女と話し合わなくちゃいけないこと。色々できた。


 しばらくすると、アリスが戻ってきた。

 戻ってきた彼女は、なにも言わずにちょこんと真司の隣に座る。ただ長時間咳を外したのは申し訳ないと思ったのか、少しだけ体を丸めて小さくしている。


 そんな姿を見たからか、それとも男としてなのか、彼女の目尻が少し腫れていたのは誰も触れない。


 「よし、出るか……」

 「そうだな、十神の話は聞けたいだけ聞けた」

 「え……もういいの?」

 「そうだな。俺も、考えることがあるからな」

 「考えること?」


 真司の言葉にアリスは怪訝そうな表情を見せるが、彼はそれに気付かない。時間もそれなりにたち、注文も全て片付けた彼らは、早々に店を去る。


 「じゃあ、十神。また会うことがあったら」

 「先生、出発はいつですか?」

 「……8月の16日、成田空港、18時24分発だ」

 「じゃあ、16時くらいに空港に向かいますね」

 「来てくれるのか?―――言っちゃなんだが、ほかのOBも来るぞ?」

 「別にいいですよ。次いつ会えるかもわからないなら、ちゃんとお別れは言わないと」


 そう言うと、真司はアリスを連れて歩き出す。

 彼はここで別れの言葉を言わなかった。なぜなら、本当の別れの言葉言うのは空港で会ったときであって、今じゃないから。


 それに、耐えれる気がしなかったのだ。

 今度の別れは、本当に最後の別れになる。タイムリミットはもう1年もない。そうなれば、海外に行く人など会うことはできないのだろうから。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「私はずっとそばにいるわよ」

 「どうした?」

 「私はあなたが最後の時まで傍にいるわ。あの人が駄目だとは言わない。でも、別れるのは辛いのでしょう?」


 アリスに図星をつかれて、真司は少しだけ黙る。だが、すぐに口を開く。


 「そうだな……次は最後の別れだ。泣かねえようにしねえとな」

 「別にいいじゃない、泣いたって」

 「カッコつかねえだろ。あの人に教えてもらったのに、水泳辞めて。そのくせ泣くんだ」

 「それでも……あなたにとって大切な人だったんでしょう?守りたいと思った人の中にいるんじゃないの?」


 その言葉に、真司は答えなかった。返事の代わりに、彼はアリスを抱き寄せる。少しだけ歩きにくい形にはなるが、彼女はそれを拒否しなかった。


 「最後くらい、カッコつけさせてくれよ……」

 「真司―――泣きたいほど辛いことがあっても泣かないのは、男気があっても、カッコいいとは思わないわ。ここぞって時に泣ける人こそ、『いい男』なんじゃないかしら?」

 「はは、これは1本取られたな」

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