プロローグ
秒速100kmの速さで人間に飛んでくる物って、一体なんだと思う?
僕は、その場その瞬間に感じた、人の想いだと思う。おい、それじゃあ物理的に考えた人に失礼だろって?
確かにそうかもしれない……これは申し訳なかった。だけどもだけども、ここは少し、僕の言い訳を聞いてくれないかな?
「暑いなぁ……」
まるで誰かと話してるかのように、いつも通り頭の中で考え事をしながら、その話と無関係な言葉を口にする僕。
季節は夏。時刻は午後の4時、か。――今は8月だったっけ、9月だったっけ……忘れちゃったよ。
日本の高校には、無慈悲でもあり慈悲深くもある夏休みという物が存在する。
僕にとってそれは後者に当たる。アリの巣のようなスクールカーストが存在するあんな場所で、働きアリにもなれない僕が生きていくなんて残酷だよ。
あのコロニーに居ると、息が苦しくなる。だけど、夏休みはそんな思いをしなくて済む。だから、この期間は割と好きなんだよね。
まぁ、高校1年の頃からこんな状態じゃ、僕の将来もお先真っ暗かもしれない。クズで嫌われ者の僕にはお似合いなのだろうけど。
だから僕は、せめてこの夏休みくらい、責務を持たないアリとして生きていきたいと思った。
――たった一匹のアリが、1つの社会を作るコロニーから抜け出して、颯爽と旅をするんだ。
アリは自由という名の旅をする。旅は、アリにとって喜びに変わる。
喜びは、遊びという名前に変わる。喜びは、そこら中にあった。
そしてアリは、喜びの中で1つの到達点に辿り着く。
そこの地中は、敵が誰一人存在しない場所。ただただ感性のままに、潜り続けられる場所。
ここでアリは、僕――『月島 真緒』に変身する。変身と言っても、もちろん比喩表現だ。本当に変身はしない。
――僕は、喜びに包まれるような、まるで美しい景色が見えるような、アリが到達点と言った場所に足を向ける。
向かう先は、マイホームよりベストオブマイホームな公園。自宅から、徒歩10分程で着く場所にその公園はある。
ベンチとブランコ、滑り台ぐらいしか遊具はなく、周りは大人なら簡単に登れそうな、低い鉄柵で四角く囲まれていた。
――にしても、やっぱり殺風景だ。この『愛花町』もまぁまぁ田舎だが、この公園よりは華やかな見た目はしている。
だが僕はあそこまで何も無いと、もはや殺風景を表現したアートなのかもしれないと思っていた。
もしくは、実は僕の中の楽園を見い出すことの出来る一種のイデアなのではないか? とも思うことが出来て、心の中では非常にワクワクすることが出来た。
そう、イデアだと思えるから、アリは到達点だと言ったのだ。
そうこうしている内に、公園に着いた。僕は、イカの触手のようにぬるぬると変な歩き方をして、その中に入った。
僕は筋肉が弱いのか、それとも体の使い方が下手なのか、歩き方が他の人より異常だ。
おまけに、存在しない誰かに語りかけるような人間性も持っている。いわゆる変人に見える人であり、れっきとした変人である。
という訳で、色んな要素が災いし、もちろんのこと学校の中では孤立。
バラ色の高校生活は、最大瞬間風速5000m/sで消え去った。あーやだやだ。どうせなら、僕のこの変な性格も飛ばして欲しかったよ風神さん。
公園の中に入っていつも通りベンチに座り、イヤホンを耳に付ける。ウォークマンから流れてくる曲は、アルトサックスの音がする物――ジャズだった。
チャーリー・パーカーの『Confirmation』か……。昔はよく聴いてたけど、最近はあまり聴かなくなったな。
ジャズは渋い物もあれば、甘くとろけるような物もある。ビターなチョコから甘いミルクチョコまで、豊富な品揃えだ。
だけど、周りの人にジャズを勧めても、良い反応は全くしてくれなかった。
皆口々に『へぇ、なんか凄そうなの聴いてるね』『楽しいの?』『トランペットってブゥーってブタさんみたいに鳴くやつだよね?』と言う。
個人的な感情で言えばキレそうというやつだ。とりあえず最後の人に関しては、是非とも養豚場に行って比較してもらいたい。
ジャズ肉等は存在しないことが分かるはずですからねぇ。
あと、ジャズ=トランペットはよく思われがちだが、実際にはピアノもギターもサックスもある。
そんなことで怒ると「うわぁ……ジャズの人って未経験者に対してそんな風に怒るんだ怖ぁ……」という声が聞こえてきそうなので、そこらへんは寛容になっている……はずだ。
まぁ色々と言ったが、とにかく、僕の頭の中にあるジャズストアを現実で開いてどれだけ安く売っても、1人買ってくれたら奇跡だと思える程に学校の皆の反応は薄かった。
……僕、さっきまで何考えてたっけ。
あぁ……う〜ん、うーーーむ。あぁ、こりゃあ忘れたなぁ。データファイルが吹っ飛んだようだ。
はぁ……僕の頭の中が絵の具で描かれていれば、美しさを保ちながら記憶喪失にもならずに済むのに。
この曲も気分じゃないかもしれない、変えよーっと。
僕は青色のウォークマンを取り出し、曲を検索する。
ん〜。えぇと、フォスターのビューティフルドリーマー、マイオールドケンタッキホーム、って! なんでこれ古いのしかないんだよぉ。
あっ、これ古い曲マイリストって書いてあったわ。いっけなぁい。
――ん……『エリック・サティ』の『ジムノペディ』だ。なんかエモい曲だし、これ聴くか。
僕はとりあえず、第一番を再生した。
イヤホンを通じて、耳にピアノの音が流れる。ベース音から始まり、次はコード――単音、次は複数の音のまとまりの音と交互に流れていく。
そういえばこの曲には、第一番が『ゆっくりと苦しみを持って』、第二番は『ゆっくりと悲しさを込めて』、第三番に『ゆっくりと厳粛に』という意味が込められているらしいんだよなぁ。
でもいかんせん、僕の感性が乏しく残念なようで、この曲からは癒やしの感情を最優先したダイレクト情熱アタックをされてしまう。
この押し寄せてくる感情に、別名『リラクゼーション発見紀行』と名付けたい程だよ。
……つまり簡単な言葉で言えば、悲しい曲というよりも、癒やされる曲として認識してるというお話なのだ。
とはいっても、今では癒やしの曲としてこの日本にも定着してる感はあるし、僕の感性もあながち間違ってないのかもしれない。
いや、むしろこれは、初めてマジョリティの考えに寄り添うことが出来て嬉しいと思った、マイノリティ側の人間のほんの一瞬のぬか喜びみたいなものだとも言えるのかもしれないな。
そうなると、作曲者の本当の想いを汲み取れる人は――人間の本当の想いを汲み取れるのは、自分自身しかいないのかもしれないね。
あぁ〜あ。なぁんか、曲も相まって悲しく思えてきたかも。
僕もなんか、楽しい物を見つけに――。
ギーコーギーコー。
「えっ……」
さっきまで、ブランコ付近には人影も無かったはずなんだけど。驚きのあまり、つい言葉を発してしまった。
僕の目に飛び込んで来たのは……少女だった。
まるでその少女は、今僕が聴いている『ジムノペディ』を演出として使っているかのように、何かの物語のヒロインのように、いきなり現れた。
……ゆっくり、ゆっくりと、その後ろ姿は揺れ動いた。
優雅に、甘美に、けれどもどこか、このイデアとも言えるユートピアを象徴する美しい星空かのように、彼女は瑠璃色に光り輝いていた。
彼女は、地に足をつけた。
その瞬間、音楽は止まった。
僕は無意識の内に、この瑠璃色の星空を――絵画を描く邪魔をしてはいけないと思っていたようだ。
自分でも驚いた。勝手に指が、ウォークマンの停止ボタンを押していたのだから。
すると彼女は立ち上がり、こちらを振り向いた。
「今、私が感じていたこと、あなたにすぐ伝わる?」
僕はハッとした顔をする。
「うーん、そりゃもう、もの凄いスピードで伝わったよ」
僕は彼女に微笑みかける。
「へぇ〜例えば……秒速なんkm――??」
「100kmだね」
僕と彼女は、しばらく見つめ合う。それから数秒後に、お互い吹き出して笑った。
「当ててあげようか? 君が感じたこと」
僕は出来るだけ優しく、そう質問した。
「うん! 教えてよ、イケメン君」
彼女は、優しく応えてくれた。
僕は、指で地面を指す。それから今度、両腕を広げる。
まるで、昔からの友人みたいに、阿吽の呼吸のように、僕達は驚く程に同じタイミングで息を吸った。
そして、きっとこれから言う言葉も、一言一句違わずに、同じタイミングで言うんだ。
全て、バッチリと……。
『『僕達、私達外れもの同士、このコロニーだけのアダムとイブになれる――――』』