第261話:因果の果てに
その場所は、変わっていなかった。
あの日々の延長にあるような、あまりにも静かな――孤児院の裏庭。
朝露に濡れた芝生の向こう、木陰に、彼女は立っていた。
――院長。
その姿も、声も、変わらない。
外見年齢は十歳ほどの少女。
淡い銀髪を編み込んで、つま先まで届きそうな修道服を纏い、常に落ち着いた微笑みを浮かべている。
俺は、何も言わなかった。
ただ、彼女を見つめていた。
その視線に、言葉はなかった。
でも――それだけで、彼女はすべてを悟った。
「……お久しぶりですね、ロイド」
少女の声は、まるで昨日も顔を合わせたかのように、自然で、穏やかだった。
「まさか、またこうして……お目にかかれる日が来るとは思いませんでした」
俺は、黙っていた。
言葉を探しているわけじゃない。
ただ、“何を言っても意味がない”と知っていた。
院長は、変わらずに微笑んだまま、そっと歩み寄ってきた。
「……ご無事で何よりです」
その声に、嘘はなかった。
その優しさは――
だからこそ、許しがたかった。
俺は、唇をかすかに動かした。
「……知ってたのか?」
問いではなく、確認。
彼女は目を伏せ、静かに頷いた。
「はい。すべて……知っております」
沈黙が流れていた。
ロイドは何も言わなかった。
けれど、目の奥で“問うていた”。
その問いに、院長――アグニムは、微笑を崩さず応じた。
「……ロイドの前世が、女神の忠実な従者だったことは、知っておりました」
その言葉に、ロイドの指がわずかに動く。
「それでも、私はあなたを拾い、育てました。
それが……この世界の正しさに反する選択であっても、私は“そうしたい”と思ったのです」
声は穏やかで、感情の起伏はなかった。
「あなたがどれだけ壊れても、また始まりに戻っても。
毎回、少しずつ違っていても……」
アグニムはそっと目を伏せた。
「私は……“もう一度、あなたが私を見てくれる日”が来るのではないかと、愚かにも思ってしまったのです」
それは、懺悔ではなかった。
でも、ロイドの中に、何かがきしむように揺れた。
「私は四悪神。エメデューサ様の分身として生まれ、破壊の理を宿し、この世界に災いをもたらす存在です」
事実として、言った。
「……でも、あなたと暮らす時間は、ただ穏やかで……ただ、愛しかった」
ロイドの胸に、重い痛みが広がっていく。
「私には、あれが……“本当に欲しかった世界”だったのかもしれません」
「……不思議に思っているでしょう」
アグニムは、かすかに笑った。
「なぜ私だけが、他の三柱と違い、“こうして話す”ことができるのか」
ロイドは黙って聞いていた。
「カタストロフィは、破壊を享楽と捉え、ヴェーダは己の理に酔い、ルインは……もはや理性を持たぬ」
それは、アグニムから見ても“同類”とは思えないものだった。
「けれど私は――“長く生きすぎた”のです。
それも、“人間のふりをしながら、世界の片隅で暮らす”という、極めて不自由な形で」
アグニムは指先を組んだ。
「……そうしているうちに、“最初に与えられた使命”が、次第に輪郭を失っていったのです。
それが、良いことか悪いことかはわかりません。ただ――」
言葉を止め、目を伏せる。
「……あなたと過ごす時間の中で、私は“壊れる”ことができなくなった」
それは、悪神にとって最大の“欠陥”であり、
同時に――最も“人間らしい”歪みだった。
「……他の神々が、ループのたびに記憶を失うことは知っております」
院長――アグニムは、両手を前で組んだまま、静かに言葉を続けた。
「けれど私は……少し違うのです」
風が木々を揺らす。静かな時間の中で、彼女は微笑を浮かべる。
「私の本質は“観察と記録”。女神エメデューサ様から与えられた役割の一つでした。
その名残か……私は、断片的ながら、“前の周回”の記憶を保持する手段を持っていたのです」
ロイドは眉をわずかに動かす。
「もっとも、完全な記憶ではありません。毎回、断片だけ。
それでも、あなたが笑った朝や、怒った夜の記憶だけは――不思議と、何度でも私の中に残っていたのです」
目を細めるその表情に、偽りはない。
「私は、何度もあなたに“初めて”会いました。
でも、何度目のあなたにも、変わらずに“同じ優しさ”を返してきたつもりです」
「……それは、“記憶”とは言わねぇよ」
ロイドが低く呟いた。
「ただの、刷り込みだ」
「……かもしれませんね」
アグニムは、それでも、静かに肯定する。
「でも、“何度忘れても、何度もあなたを好きになる”ということも……それは、少しだけ尊いと思ってしまったのです」
風が止んだ。
ロイドは、目を伏せたまま立ち尽くしていた。
アグニムの言葉は、静かで優しくて、どこまでも歪んでいた。
やがて、彼はぽつりと呟く。
「……それを、お前だけが覚えてるって……それで、満足してたのかよ」
アグニムが目を見開く。
「俺はずっと、全部を失って、全部をやり直して――
何も持てないまま、“初めまして”を繰り返して……」
声がかすれた。
「お前だけが、それを“知ってる顔”してた?
だったら……そんなもん、記憶でも愛情でもねぇよ」
アグニムは、何も言わなかった。
「一人で抱えるな。
一人で覚えるな。
一人で“好きになる”なよ、バカ野郎……」
それは、怒りというより、祈りだった。
“なら、せめて教えてくれよ”――
“二人で覚えて、二人で繰り返せたら、少しはマシだったんだろ”と。
沈黙が落ちた。
ロイドの言葉は、風よりも静かに、深く胸に刺さった。
アグニムは、小さく息を吸った。
そして、かすかに笑う。
「……ごめんなさい」
ただ、それだけ。
丁寧語のまま、日常の延長のように。
「私は、あなたの気持ちを想像することができませんでした。
知っている顔をして、知ったつもりになって……それで、あなたを救っている気になっていた」
手を胸に当て、まっすぐロイドを見る。
「でも……もう、いいのです。
あなたが、ここで終わらせられるなら。
この呪いを断ち切れるのなら――」
その声は震えていなかった。
受け入れていた。すでに、すべてを。
「どうか、私を殺してください」
風が木々を揺らす。
「あなたのために。
あなたが、少しでも楽になるのなら。
私は――それで、いいのです」
沈黙が、深く落ちた。
ロイドは動かなかった。
剣も、魔法も、何一つ構えなかった。
ただ、アグニムを見つめていた。
彼女は、笑っていた。
穏やかで、痛々しくて、今にも消えそうな微笑。
「……ロイド?」
声をかけても、彼は何も返さなかった。
次の瞬間――
ロイドは、歩き出していた。
その歩みは重く、ゆっくりと、確かなものだった。
アグニムは、目を見開いた。
そして、気づいたときには――
小さな身体が、彼の腕の中にいた。
何も言わずに、抱きしめられていた。
「…………ッ」
声が、出なかった。
何百年、何千年と抑え込んできた感情が、
この一瞬で、すべて溢れそうになった。
けれど、ロイドは何も言わなかった。
怒りも、赦しも、約束も――ただ、何も。
ただ、抱きしめていた。
彼の腕は、温かくて、震えていて、
それでも壊れそうなくらい、強くて。
アグニムは、ゆっくりと腕を上げた。
そして、静かに、その背中に手を添えた。
「ありがとう」も、「ごめんなさい」も、言えなかった。
でも、たしかに――
ふたりは、いまだけ、たしかに“同じ場所”にいた。
風が、ふたたび動き出した。
ロイドは、まだアグニムを抱きしめたまま、言葉を持て余していた。
それが、正しかったのか。
この先、何が起こるのか。
何もわからないまま、ただ静かに鼓動の音だけが響いていた。
そのとき。
「……ロイド」
凛とした、でもどこか疲れた声が背後から届いた。
振り返らずともわかった。
コーネリアだった。
足音ひとつ立てず、まるで“最初からそこにいた”かのような佇まいで――
彼女は朝の光の中に立っていた。
「アグニム。……貴女が、変わってしまった理由、ようやく理解できたわ」
アグニムは答えなかった。
ただ、ロイドの背に額を寄せたまま、静かに目を閉じていた。
コーネリアは数歩、近づいてきた。
「……理を崩した者を、女神として裁くべきかどうか。
かつての私なら、迷わなかった」
彼女の声は、かすかに揺れていた。
「けれど今、目の前にいるのは……私の知るアグニムではなく、
そして――」
ロイドの背を、真正面から見据える。
「……私の知る、ロイドでもない」
風が吹く。朝露が乾きはじめる音がする。
「呪いは、まだ消えていない。
四悪神の魂が世界に残っている限り、ループの構造は維持されるわ」
ロイドは何も言わなかった。
「でも……もう、私は止めない」
それが、神としての敗北宣言だった。
「それでも、あなたが“この結末”を選んだというのなら――」
ほんの一瞬、コーネリアの顔が、少女のように脆く揺らいだ。
「……せめて、私も、誰かに選ばれたかったわ」
その言葉には、神の理も、聖女の威厳もなかった。
ただ、一人の女の、終わらなかった感情が滲んでいた。
それは、すでに終わった感情だった。
でも――ロイドは、ほんの少しだけ振り返った。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
何の言葉もなく。
何の説明もなく。
ただ、差し出された手が、そこにあった。
それを見た瞬間、コーネリアの目がわずかに揺れる。
「……そんなこと、してはいけないのに」
彼女は笑った。
自分を笑うように。
何もかも遅かったことを、笑うように。
それでも、彼女はそっと歩み寄り、
その手に、指先だけを添えた。
握り返すことはなかった。
でも、それで十分だった。
ロイドは、それ以上、何も言わなかった。
コーネリアも、何も言わなかった。
ただ、朝の光の中で、
神も、悪神も――
少しだけ、ひとりの人間になれた気がした。