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*****




 静まりかえった刑場に、かすれた声が波紋を刻む。

 高貴な血が流される。その期待に駆られ刑場に集まった王都の民たちは、眼前で繰り広げられた血の赤とそれに酔える心地を邪魔するふたりに、失望を隠せなかった。

 かすれて小さな声は、なにを言っているのかなどわからなかったが。

 振りかぶられた斧がまさにその首を捉えようとした時どこからともなく降って湧いた若者に、失望をするなという方が無理であったのだ。

 過たず一同が息を呑んだ刹那だった。

 期待に満ちた視線がその首に据えられた刹那であったのだ。

 やつれてさえも遠目に秀麗とわかる高貴な男性が流すであろう血を、吹き出すであろう血の、その刹那を見損ねた失望は、若者に向かう。

 高貴な、それでいて公開処刑をされるほどの罪人の首を掻き抱き泣く。そんな若者にこみ上げてくるのは、苛立ち以外のなにものでもない。

 膨らんでゆく見物人たちの不満を苛立ちを掻き毟るかのように、王と王太子とともにその場にいた女性が若者に近づき糾弾の声をあげた。  大きく甲高い声であっても、はっきりと聞き取ることは不可能ではあった。が、若者がその罪人となんらかの関係があるものだということは拾いとることができた。

 ざわりざわりと、一同の心に芽生えてゆくのは、この満たされない欲望を叶えてくれという思いだった。

 その残虐な欲求が膨らんでゆく。

 処刑が良いか悪いか、残虐かそうではないかではなく、一同の期待を満たすことは当然だという、ただそれだけ。老若男女民衆の一番手軽な娯楽といえば、処刑見物であったからだ。高貴な人物の処刑といえば、その中でも最高の見せ物だったからだ。

 失望が苛立ちが、負の感情が、若者に向かってゆくのも道理であったのかもしれない。

 もっともそれは彼らにとっての道理であったのだが。

 しかし当然のことながら、その道理が若者--トオル--に通じることはない。

 どちらにしたところで、トオルにとっての大切な存在が殺されたことに変わりはないのだから。

 アヴィシャは死んだのだ。

 応---と。

 諾---と。

 傲然と諾なっておきながら間に合わせることができなかったあの存在に腹を立てながら。

 助けることができなかった己に、腹を立てながら。

 自分を執拗に糾弾してくるアヴィシャの娘の声を近くに聞きながら、しかし、トオルは、己の中に、誰にも見えなかった胸の穴に、あの刺のついた触手が潜り込んでくるのを感じていた。

 それは、間に合わせろと言わなかったと、ただアヴィシャのところにと言っただけでは無いかと、融を詰るかのように苛立たしげに触手を伸ばしてくる。

 間に合わせろとは、確かに言いはしなかった。言わなかったが、それでもあの状況ならば問わず語りに理解してくれるのでは無いのかというのは、こちら側の驕りなのだろうか。

 からだには、痛みも不快も何もなかった。

 ただ直接心に、痛みと不快とが響くのだ。

 間に合わなかった後悔が、腕の中のやさしい男の頭部が、少しずつ冷えてゆく優しい男の頭と血潮の熱が、深い痛みとなった。

 ぞろりと、ぎしりと、姿を消した混沌の神がねじ込むようにしてトオルのからだに入り込む。

 無理やり溶け込むかのように、刺がぬるりとほぐれ解けたような気配があった。

 アヴィシャであったものの頭部を掻き抱き、抱きしめ、その気味の悪さを堪えていた。

 溢れ出す汗が、まるで涙のように、アヴィシャをしとどに濡らす。

 「あああ」と、空気が、声帯を震わせる。

 どれほどの質量が全身に溶け込むのを受け入れれば良いのか、朦朧となる。

 血の色と朦朧と霞む視界に、見物人たちを掻き分け駆けつけようとするアディルとファリスのふたりを映していた。




*****




 突然姿を消したトオルに、狼狽たアディルとファリスは、彼がアヴィシャの頭を抱え込むようすを茫然と見やった。

 しわがれた悲鳴が、悲痛に響く。

 声量が徐々に大きなものへと移り変わり、あのトオルさまがと、ふたりにとっては信じられないほどの絶叫を迸らせた。

 しかし。

 それらは、周囲には関係のないことだった。

 周囲にとって、トオルは、ただの邪魔者でしかなかったからだ。

 日々の不満を解消する、血湧き肉躍る、滅多にない尊い身分の者の処刑。

 それを、邪魔した、もの。

 民衆の顔つきが、目つきが、凶暴なものへと変わってゆく。

 このままでは、トオルさままでもが害されてしまう。

 ふたりが一歩踏み出そうとした時だった。



「捕えよ」

 腹の底から絞り出したような声が、慣れたさまで、一声命じる。

 それに、王族らを守っていた近衛らが動く。それにつれて、周囲の警戒に当たっていた騎士らがトオルへと近づこうとした。


 しかし。


 その光景をどう表現すればいいのか。

 仰け反ったまま慟哭の叫びに喉を震わせていたトオルが不意と姿勢を正した。

「我に刃を向けるか」

 その声音を、何に例えればいいのか。

 まごうことなき若者の声。しかし、その響きの涼やかさに、糾弾の響きであるというのに耳を傾けたいとそう願う。

 その場に会する者たち全てが、違うことなくそう思い、動きを止めた。


 風が吹いた。


 トオルの髪を、風が煽る。

 煽られた髪が、見る見る伸びてゆく。

 黒い髪が風に煽られるたびに伸び、たびに、色を失ってゆく。

 そうして、やがて、滝に似た白銀の長い髪へと変貌を遂げた。

 瞬くたびに、目の色が、不思議な光を宿してゆく。

 そうして、やがて、黒い蛋白石(マブロオパル)のような緑や青を帯びた虹彩へと変化を遂げた。

 基本はトオルのまま色が変わっただけだというその容姿の不均衡さに、息を飲んだのは誰だったのか。

 嚥下の音が、その場の空気を砕いた。

「何をしている、捕えよ!」

 ヴァイスの声に、再び騎士たちが動いた。

「慮外な」

 ヴァイスと対極にある声音が一声響いた途端、騎士たちの動きが止まる。

「何をやっている」

 癇癪を起こしたかのような怒気に塗れた声で喚かれても、騎士たちも思いもよらぬことだけに、脂汗を滲ませるばかりである。

 業を煮やしたヴァイスが足取りさえも荒々しくトオルに近づいた。

「お前は、一体なんだ」

 ヴァイスはトオルのことなど記憶に留めてもいない。ただいったいこの邪魔者はどこから来たのだという、苛立たしさだけで行動をしたのにすぎない。髪も目も、魔法を使っただけだろうと、安直に考える。

「魔術師など間に合っておるわ」

 騎士らが動けないのならと、トオルの腕を掴み引き倒そうと伸ばした手が、軽い静電気を帯びたような反発を受けて、弾かれた。

「阿呆よな」

「何をっ」

 思わぬ言葉に頬を怒りに染める。

「何も知らぬのか。この者が、これまでの我の贄が、どれほどの思いをしてきたのかを。その原因が王族のせいであるということを」

 この者の唯一の安らぎであったものを奪い、無惨に踏みにじったことを、少しも、知りはしないのか。

「王族にその言葉遣いはなんだっ! 何を世迷言を言っている! いったい、お前は、何者だ」

 癇癪を起こしたヴァイスに、

「何も教えられておらぬのだな」

 呟き、その黒い蛋白石の瞳を未だ簡易な玉座に座したままの王へと向ける。

 兄に似た鳶色の瞳が青ざめた顔の中で大きく見開かれ、食い入るようにトオルを見ていた。

 肘掛を砕かんばかりに握り締めた両手を初め、全身が小刻みに震えている。

 それは、不敬な態度に対する怒りからではない。王の表情から読み取ることができるのは、まぎれもない恐怖だった。

「まさか………」

 呟かれつづけるそのことばに、いっそ悪戯そうな笑いに口角を歪め、

「そのまさかよ」

 戯れに言ってのけたそのひとことに、

 ひっ---とばかりに短く叫んだ王は、玉座から転がり落ちた。

 己の醜態すら気づかぬふうに四つん這いに平伏した王に、周囲が驚愕に引き連れる。

「何卒………………なにとぞお許しを」

「遅いわ」

 しかし、額付く王に吐き捨てるかのように告げられることばは、無情だった。

「我が憑坐となるは、代々王族の役目であったよな」

 忘れたとは言わせまい。

 そこな愚物に教えもせなんだとは思わなんだわ。

 神子と呼ぼうが贄と呼ぼうが勝手ではあるが、我が求めるは憑坐。王族であればこそ、短命とはならずに済むものを。

 ---今代の依代は、そなたの息子であるはずであったのになぁ。

 その小柄で貧相な男がそう言って、小さく笑いをこぼした。

 ゾクリと、ヴァイスの後ろ髪がそそけだってゆく。

 これは誰なのだ---と、動くもならずその場に立ち尽くすヴァイスが青ざめ、堪えようのない痙攣が湧き上がる。

 これ、は。

 この語りを受け入れるなら、これは、神なのだ。

 贄として与えたものどもを蹂躙し尽くす、混沌の神。

 そうして、これの言わんとすることは、本当ならば己こそが神子の名の下に贄として与えられるはずであったのだということなのだ。

 あの惨たらしい日々を己が過ごすはずであったのだということを理解した途端、安堵を覚えた。

 己の身代わりとなった贄の神子たちという存在に対する謝意のかけらも覚えることはなかった。

 ---神殿もなぁ。

 喉を震わせる小鳥のような笑いに滲むのは、隠し切るつもりもないのだろう、残酷なまでの悪意だった。

「この憑坐が尤なるものであればこそ、時は必要ではあったがこうして憑くことが(かの)うた」

 でなければそなたらは、不快な思いをせねばならなんだの。

 我が見目をそなたらは殊に厭うゆえ。

 もはや、首を横に振るのが一同にできる唯一のことであった。

 全身をしとどに濡らす脂汗が体温を奪い、滝裏の温度とも相まって、全身が寒さに震えた。

 ---否定など要らぬわ。

 冷ややかな笑いだった。

「しゃ、謝罪を」

 どうか。

 泣き叫ぶように口にする王に、

「謝罪のぅ」

 そこ意地悪そうに、その黒い蛋白石のような眼差しで、王を見下ろす。

「どうか、どうか謝罪をお受け取りくださいますよう」

 身も蓋もなく無様に蹲ったままで縋る王に、

「------なれば、のぅ。ひとつ、この憑坐の願いを叶えてはくれぬか」

 そこに込められた滴らんばかりの毒に気づいた者がその場にいたのかどうか。

 考えることもせず、王は、ただ、承諾したのだ。

 この憑坐が、何を考えているのか、何を望んでいるのか、そんなことはどうでもよかったのだ。

 ただ、今、目の前にいる混沌の神の怒りを鎮めることさえできれば。

 それで。

「そうか。叶えてくれるか」

 トオルよ、これで、少しは慰めとなるか。

 王が最期に聞いたのは、これまでのものとは違う神の悲哀のこもった声だった。

 ポンとばかりに、あまりにも呆気なくそれが落ちた。

 次いで、わずかの時差ののちに、赤黒い液体が、吹き出した。

「父上っ」

 ヴァイスの悲鳴が、ミケイラの悲鳴が、近衛の、騎士の、その場に集うものたちの悲鳴が、空白のひとときを経てこだました。





*****




 空気が震える。

 空気を震わせるのは、その場に集ったものたちの感情だった。

 本能的な、恐怖。

 目の前で起きたことに対する。

 張りあげられた声ではないものの、この場の隅々にまで伝わった言葉の意味するもの。

 血を吹き上げながら、いまだ立ち尽くす王であったもの。

 その手に大公の頭をいだきながら端然と立つ、神の憑坐。

 いつまでもいつまでも終わりがないような血の噴水に、処刑の場は黒い赤に染まってゆく。

 止んだ風に、血臭は流れ行くことがなく、その場を塗りこめてゆく。その吐き気を促す鉄味を帯びた生臭さ。

 処刑の場と界を隔てたかのように、瞬きひとつ、咳ひとつさえも忘れてただ立ち尽くす一堂の次の行動の契機となったのは、アディルとファリスのふたりだった。

 ごくりと喉を鳴らし、彼らは、舞台へと駆けた。

 人波をひとかきするたびに、我を取り戻した者共が悲鳴を上げてそびらを返す。それは、その場に波紋を生じさせた。

 逃げ出すものたち。

 それに逆らうのは、アディルとファリスだけである。

 この場で殉ずるべきだとは思った。

 最初からそのつもりだった。

 殿さまは助かるつもりは豪ほども考えてはおられなかった。その彼の望みを叶えるためだけに、残る生はあるのだと、ふたりは思っていた。

 しかし、あの場にトオルさまが行ってしまわれた。そうなっては、救い出すことなど叶うまい。彼には微塵も感じられなかった魔力を思えば、あの不思議な力の発露は最初で最後の奇跡に違いない。そうなれば、彼には助かる術などありはしないのだ。

 そうふたりは思ったのだ。

 どちらをも助けることが叶わなかった、情けのない身である。

 しかし。

 まだ、トオルさまはそこにいるのだ。

 そう。

 神が()りついたとはいえ、あれは、まだ、殿さまが「守れ」と命じられた少年なのだ。

 せめても---と。

 何も出来はしないに違いない情けのない身ではあるが、それでもせめて---と。

 結末によっては、間違いなく殉ずることを秘めながら、ふたりはその場へと急いだ。


 そうして。


「健気なものよな」

 ちらりとマブロオパルの眼差しをふたりへと投げかけ、トオルに憑りついたものはうっすらと笑う。

 血生臭い光景は未だ終わらない。

 腰を抜かした王太子とその許嫁を見下ろしながら、どうするかと考える。

 憑りつくことができなかった女とその血を継いだ少年。そのふたりが狂いながらも求めたものが、この頭の持ち主だとわかる。

 ひとのからだを借りればこそ、人間の心の機微というものを理解することが叶う。

 そうして、かつて己を受け入れ損ねた数多の贄達の心もまた。

 数百を下ることのない王族や平民達。神である身にその違いはさしてありはしない。あるとすれば、かつて古の約定により、王族の血を引くものをこそ憑坐として捧げるとあったということ、それに、その約定により、王族であるという矜持を持つものであればこそ彼を間違いなく受け入れることができるということだけだった。

 この頭の持ち主もまた、王族と呼ばれるものではあったが。トオルの前の少年もまた王族の血を引くものではあったが。

 約定は、血の噴水と化した王により狂わされたのだ。

 いや。

 思い返せば、それ以前、随分と前の王の時代より、この身はただひたすらに厭悪され存在をあやふやなものとされ続けた。

 故に、この在り方もまた、あやふやなものへと変貌を遂げたのだ。

 混沌の神と、狂乱の神と呼ばれ、王から王へと口伝としてのみ繋がれてきた。

 神の座から引き摺り下ろされ、無機質な岩の座に閉ざされて幾星霜。

 時折訪れる神子と呼ばれる贄は、このみてくれに怯えた。

 この身にいつしか生えた無数の刺が、怯えに拍車をかけたのだろう。

 怯えたもの達の恐怖が、心を狂わせた。

 それは怒りであったのかも知れず、悲哀であったのかも知れず、諦観であったのかもしれない。

 己を受け入れないのであれば引き裂いてやろうと、ただひたすらに贄どもの恐怖により全てが狂ったのだ。

 初めは、我が子に対する愛情ゆえであったのか、それとも、単に己を神として畏怖していなかっただけなのか。

 苦笑する。

 己のひとがましい反応のひとつひとつが、頓に新鮮なものと感じられた。

 それは決して不快なものではありはしなかった。

 頼りない細さの指を握りしめてみる。

 久方ぶりのひとのからだは、新鮮だった。

 トオルといったこの異世界から呼び出された少年を何度殺したことだろう。

 異世界の少年であるというのに、これまでの贄と何ら変わらないというのに、不思議と狂った心を癒してくれた。

 だからこそ、トオルにはそれ相応の報いを与えようと、考える。

 岩の座から解き放たれるきっかけとなってくれた少年である。

 少年だけではない。

 すべてに、報いを。

 背筋が逆毛だってゆく。

 これが自由だと。

 己の恣に振る舞うことができる素晴らしさに、混沌の神が高笑う。

 その禍々しいまでの響きに、王太子と許嫁が弾かれたように立ち上がる。

 似合いの一対だと、それを見ながら、混沌の神は思った。

 傲慢と無礼、強欲と嫉妬が絡まりあった、似合いの一対だ---と。

 意識せず、混沌の神は、舌舐めずりをしていた。

 それだけで、兵達が逃げ出す。

 一歩遅れて、王太子と許嫁が。

 逃げ出したところで、一向に構いはしない。

 混沌の神は、その名の通り、神であるのだから。

 そう。

 この国など、己の指先ほどのものに過ぎない。

 だけに、その小さなものに閉ざされていた屈辱と憤怒がいかばかりか。


 戻ってこい---と。


 ここへ---と。


 創生と終焉の神の声が脳裏に響く。

 そのようなことになど囚われず、戻ってくるのだと。

 厚い岩盤を素通りして、空高くまだ白い二つの月を見上げた。

 そのはるか向こう側に輝く灼熱の輝きこそが---本来の己であるのだと、本性を思い出す。


 いますこし---と。


 混沌の神は、かけらほどの己を解放した。


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