第五話「たった一つの武器」
授業終了のチャイムが鳴る。
後は帰るだけだったが、俺は机に突っ伏したまま動けないでいた。
(やっちまった……)
結論から言うと、自己紹介はうまくいかなかった。
出だしが御川の二番煎じだったうえに(しかも吃ったし)、当たり障りのないことをたどたどしく話すだけで終わってしまった。
二度目だというのに――二十七歳にもなるというのに、また過去と同じような失敗を繰り返してしまった。
(なにやってんだ俺は……!)
ぎゅっと握りしめた拳で、己の腿を叩く。
つくづく、自分には積み重ねてきたものがなにもないのだということを思い知らされる。
俺にとって年齢というアドバンテージは、あってなきようなもの。
だって俺は、この二十七年間、自分を磨くための努力をなにもやって来なかったのだから。
事ここにいたって、俺はようやく真の意味で実感した。
俺は年齢的には大人で、少しは成熟した物の見方ができるのかもしれないけど……人間的な経験値という点では、ここにいるおおかたの高校生たちより、ともすれば劣るのだと。
正直、しょせん高校生と甘く見ていたのかもしれない。労せずいわゆる『無双』ができるものだと思っていたのかもしれない。
でも、現実はそんな甘っちょろくない。
俺にチート武器は用意されていない。
もし、俺に武器と呼べるものがあるのだとしたら、それは――。
「ねえ」
思考を断ち切るように、声が割って入ってきた。
はっと顔をあげると、例の少女――御川が俺を見下ろしていた。
「……お、俺?」
「そう、あなた。八代くん」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
ただでさえ異性と話すのは慣れていないのに、御川は綺麗な女の子だ。うんと年下とはいえドギマギしてしまう。
それに彼女は、俺にとって重要な観察対象だ。いずれこっちからアクションを起こすつもりだったが、向こうから来るとは……。
「あなた、さっきはなにを言いかけたの?」
「さ、さっき?」
「私に一目惚れしたあなたが、まぁ言い訳としてでしょうけど、『ち、違う! そういうのじゃない! ただ……』って口を濁したじゃない。どんなふうに誤魔化そうとしたのか、気になるのだけど」
……俺の声を真似て再現してきやがった。
ちょっとうまいのが腹立つ。
それにしても、これはどうやって返答すべきだろうか。当然、真実を話すわけにはいかない。
「……ずいぶん自分の容姿に自信があるんだな。俺はお前に一目惚れしたつもりはないぞ」
あえて強く出ることで、論点をそらすことにした。
こんな俺でもプライドがある。やはり年上として、毅然とした態度を取りたい。
「嘘おっしゃい。いつも私のこと、じっと見てるわよね? 授業中も気色悪い視線を後ろから感じるわ」
「い、いや、それは……」
『気色悪い』とはっきり言われ、たちまち強気な姿勢が崩れる。
……あれだけ見てれば、そりゃバレるか。
「私に劣情を抱いているのでなければ、どういう理由で見ていたのか教えてほしいわ」
たじろぐ俺に、御川は追い打ちをかけてくる。
な、なんて高慢な女なんだ……水島さんとは似ても似つかない。
俺、こいつのこと苦手かもしれん。
「いや、そ、その……どこかで会ったことがある気がして」
苦し紛れにそんな言い訳を口にする。
もちろん、そんな記憶は一切ない。
だが、俺の嘘に御川は一瞬、驚いたように目を丸くした……ような気がした。
「あら、ナンパ? やっぱり私のこと狙ってるんじゃない」
「違うっての。じろじろ見てたのは謝るけど……お前ちょっと自意識過剰だぞ?」
呆れて思わず言い返してしまう。
女の子にこんな口をきいたのは初めてだが、こいつくらい不遜な相手なら許されるはずだ。
「まぁ、いいわ。どうでも。――それじゃあね、八代くん」
「えっ、あ……」
御川は俺に対する興味を急に失ったらしく、すたすたと歩き出してしまう。別れの挨拶を返す暇もなかった。
「変なヤツ……」
嵐のような女だ。
なぜか、俺がぽつんと置き去りにされたような気持ちになってしまう。
「御川灯里、か」
こうして話してみても、謎は深まるばかりだった。
* * *
帰宅後。
俺はベッドに寝転がり、今日のことを思い出していた。
「今日だけでいろんなことがあったなぁ……」
どっと疲れが押し寄せてくる。
だが、それは決して不快なものではなく、むしろ心地よい気怠さだった。
「これが初めの一歩だ」
今日一日、いいことばかりではなかった。
初恋の人はいなかったし、自己紹介では失敗した。
でも、俺の高校生活はまだ始まったばかりだ。
――もし、俺に武器と呼べるものがあるのだとしたら。
それは、未来のクズみたいな自分を知っていること。
青春という時間の価値を、痛いほど知っていること。
この先も、俺は数えきれないほど失敗するだろう。
落ち込むこともあるだろう。死にたいと思う日もあるだろう。
だけど、そのたびに立ち上がってみせる。
もう二度と後悔しないために。
「それに今日は……いちおう女の子と話せたしなっ」
ばっとベッドから身を起こし、電気の紐をボクシングの要領で叩く。
御川は変わったヤツだが、容姿の可愛さでいえばクラスでもトップレベル。
女子とあんなふうに話すことすら俺の人生にはほとんどなかったわけで、正直な話、高揚が隠せない。
思ったよりうまく話せたし……。
「うおおおおおお」
――これからもっと、いろんなことに挑戦していこう。
年齢を忘れ、鼻息荒く電気の紐を叩きながら、そう決意した。