第二十六話「大切な友達」
『大切な友達』ときて、真っ先に思い浮かんだのは茅ヶ崎だった。
(でも……今は声をかけられるような状態じゃない)
こんな衆人環視の中、茅ヶ崎の手を引けばどうなることか。俺が躊躇するのはもちろん、茅ヶ崎だって嫌がるだろう。なにより彼女は今、メンタル的にかなり参ってしまっている。
(となると、西と江口だな)
クラスでできた、初めての友達。
茅ヶ崎より一緒に過ごした時間は長いし、仲だって良い。妥当なところだろう。むしろ、ここで茅ヶ崎を選んでは彼らに対して不義理にあたるというものだ。
(そう……だよな。俺は間違ってない)
言い聞かせて、応援席に走る。
西と江口の名前を呼ぼうとしたところで、吸い寄せられるような瞳が俺の声を奪った。
(茅ヶ崎――)
応援席に座る茅ヶ崎は、おそれずにまっすぐ俺の目を捉えていた。膝の上に置いた拳をきゅっと握り、口を小さく動かす。
『がんばれ八代』
周りには他にたくさんの生徒がいるのに――茅ヶ崎はやっぱりぽつんと孤立していて。
(ああ、くそ……)
目頭が熱くなる。
あんなことがあって、自分の痛みに耐えるので精一杯のはずの茅ヶ崎が、こんな不甲斐ない俺のことを応援してくれている。
(どうしてお前は、いつも人のことばっかりなんだよ……!)
俺が茅ヶ崎のことを心の中でずっと応援していたように、茅ヶ崎もまた、俺のことをずっと見ていてくれたのだろう。
(なにやってんだ、俺)
目が醒めたような気持ちだった。
俺は、こんな臆病な俺が嫌いだ。
結局のところ自分が大事で、なにかと言い訳をつけて目の前のことから逃げ出してしまう。
でも――
(――そんな自分は、全部あの安アパートに置いてきただろ!)
俺は見ている周りの生徒がドン引きするくらいの勢いで、自らの頬を両手で強く張った。
女の子一人救えないで、なにが悔いのない青春だよ?
(そりゃ西と江口は、大切な友達だ。だけど今、助けなきゃいけない友達は……!)
俺は応援席に乗り込み、その手を取った。
「茅ヶ崎! 来てくれ!」
「えっ? ……ええっ!?」
ほとんど強引に引っ立てる形で、茅ヶ崎を連れ出す。繋いだ手の柔らかさは、今は気にならなかった。
「おっと~!?」
「ひゅうひゅう~アツイね~!」
思った通り、波瀬や胡桃沢など一部のクラスメイトが囃し立ててくる。恥ずかしそうに顔を伏せる茅ヶ崎に、俺はやはり罪悪感を覚える。
「ごめん。ああやってからかわれるの、嫌だよな?」
ゴールを目指して走りながら訊くと、意外な答えが返ってきた。
「う、ううん。そりゃ、ちょっとは恥ずかしいけど……八代に迷惑かけちゃうのが、嫌なだけ」
「俺に……?」
そんなこと、一度も思ったことがない。
「むしろ、俺が茅ヶ崎に迷惑をかけてるんじゃないかって……」
「迷惑……? なんで……?」
それはもちろん、『八代みたいな陰キャと付き合っている』という噂は茅ヶ崎の評判を貶めることに繋がるからだ。だけど茅ヶ崎のきょとんとした表情を見るに、そんなことは微塵も気にしていなかったらしい。
「……もしかして八代、あたしのためを思って距離を置こうとしてたの?」
茅ヶ崎が詰問するような口調で訊いてくる。
「そ、そうだけど……」
「…………はぁ~」
心底呆れたようにため息をつく。
「バッカじゃないの?」
「な、なんだよ。お互い様だろ!?」
「べつに誰になんと思われようとあたしは気にしないし! あんたも堂々としてなさいよ!」
自分のことは棚にあげて、まくしたてる茅ヶ崎。むっとして思わず言い返そうとしたとき、視界が急転回した。
「うぐっ……!」
口論に気を取られていたせいだろう。ゴール直前で、俺は足をもつれさせてグラウンドに倒れ込んでいた。全身に鈍い痛みがじぃんと広がる。
「や、八代……」
俺が転ぶ直前に手を離していた茅ヶ崎は、そんな俺の無様な姿を見下ろして、
「――ぷっ、あははははっ!」
あろうことか、笑いだしやがった。
俺は尻もちをついたまま、しばらく呆然としていたが、
「……くっ、ははっ」
やがてじわじわと笑いが込み上げてきた。
なんだか、つまらないボタンの掛け違いで悩んでいたことが、すべて馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「八代だっさ!」
「うるせーよ」
右足――どうやら捻ったらしい――をかばいながらよろよろと立ち上がり、もう一度茅ヶ崎の手を取る。
借り物競走の他の出場者たちはすでにゴールを通過している。あとは俺たちだけだ。
「行こう」
「うん」
応援席からは一層やかましい冷やかしが飛んできていたが、もう気にならない。
俺と茅ヶ崎は並んでゴールを果たした。