第二十二話(怜奈視点)「揺れる気持ち」
体育祭前日の夜。
あたしは中間テストに備えて、自室で勉強をしていた。机の上に開いたノートに、カリカリとペンを走らせる。
でも、手は動いていても内容はまったく頭に入っていなかった。
「あー、もう! やめやめ!」
あたしはペンを放り投げて、大きく伸びをする。
心がもやもやして、勉強どころじゃなかった。
「お風呂入ろ」
気分転換が必要だった。
お風呂はもう沸かしてある。脱衣所で服を脱ぎ、バスルームに足を踏み入れた。
「明日は体育祭だからね」
洗い場で念入りに体を洗う。
写真を撮られることもあるだろうし、なんだかいつもよりちょっと気合が入ってしまう。
「ふぅ……」
一通り体を清めてから、あたたかい湯舟に漬かる。凝った心までほぐされていくようだった。
「この二週間はいろんなことがあったなぁ……」
極楽気分に浸りながら、お風呂の天井をぼんやりと見上げる。
あいつと初めて会った日のことを思い出した。
「男の子に泣き顔見られたのって、いつぶりだろ」
あの日、あたしはお母さんの形見であるクマのキーホルダーを探していた。
でも、探しても探しても見つからなくて……気づけば、絶対に流すまいと思っていた涙が頬を伝っていた。
花蓮たちといろいろあって、ただでさえヘコんでいたところに、追い打ちをかけるようにあの一件だ。
あたしの心には限界が来ていた。
そんなとき、八代が声をかけてくれたのだ。
「八代のヤツ、最初はしゃんとしてたのに、すぐにしどろもどろになってたっけ……」
名前は知っていた。自己紹介で盛大にコケていた男子生徒だ。
いつも、教室の端っこで西や江口のようなオタクグループとつるんでいる、はっきり言って陰気で冴えないクラスメイト。
そんなイケてない男子に涙を見られてしまったことは、あたしとしてはすごく不名誉な失態だったけど、話してみると、八代は案外まともなヤツだった。あのときツンケンした態度を取ってしまったことを、今では少し後悔している。
八代は探し物の手伝いを申し出てくれて、そして、ちゃんと見つけてくれた。あれは嬉しかったなぁ。
正直、ちょっとカッコよかった。ちょっとだけね。
『いいヤツじゃん』って、そう思った。
次の日から、八代はあたしに話しかけてくるようになった。不自然でコミュ障まるだしだったけど……。
そして印刷室での仕事を、八代が手伝ってくれるようになった。八代のそれは『おせっかい』と呼べる部類のものだったけど、なかなか素直になれないあたしにとっては、ちょうどよかったのかもしれない。
あたしと八代は、少しずつ仲良くなっていった。いつしか、あの印刷室が学校でのあたしの数少ない居場所になっていた。
「……その居場所も、もうなくなっちゃったけど」
お風呂場にあたしの声が寂しげに響く。
体育祭が終われば、あたしと八代が印刷室に集まる理由はなくなる。
「八代が花蓮たちに直談判しに行こうとした事件もあったっけ」
同情なのか、優しさや正義感からなのか、八代は不器用にも、あたしをイジメから助けようとしてくれた。
ただ、やり方があまりにも愚直でヒヤヒヤさせられたっけ。
少しは相談ってものをしてほしいよね……まぁ、八代がコミュ障たる所以ってところかな。
でも、あたしのために熱くなってくれたのは、純粋に嬉しかった。あたしにも味方がいるんだって、そう思えた。
女子グループからハブられて、孤独を感じていたあたしにとっては、あんな『おせっかい』がありがたかった。
「そういえば、あれがきっかけで御川さんとも話せたんだよね」
なぜか八代と仲が良い御川さん。
近寄りがたい印象を持っていたけど、意外と親しみやすかった。
今度、こっちからちょっと声をかけてみようかな。八代をダシにすれば、いくらでも話が弾みそうだし。
「あれから、八代と授業でペアを組んだり、一緒にお昼を食べるようになったりして……」
八代からお昼を誘ってくれたのは驚いたけど、やっぱり嬉しかったな。
卵焼きを褒めてもらって、やっぱりこれも嬉しかった。
また作ってきて、八代におすそ分けしてあげたいけど……。
「もう無理、だよね……」
気持ちが一気に沈んでいく。
「しばらく一緒にお昼食べないほうがいいって、八代に言われちゃったし」
誰が言い出したのか、あたしと八代が付き合っているという噂がクラスに広まっていた。
「困るよ、そういうの。ホント、困る……」
お湯の中に顔を沈め、ぶくぶくと息を吐く。
八代はあくまで友達であって、そういう対象じゃない……し。
それなのに、あんなふうに騒ぎ立てられちゃったら、一緒にいられない。八代のほうから、あたしと距離を置いてしまう。
「八代のヤツ、こんなことで身を引かないでよ」
今までさんざん、無神経にあたしの心を搔き回してきたあんたが、なんでこういうときはあっさり周りに屈しちゃうの?
八つ当たりみたいな感情だけど、そのことが腹立たしかったし、ショックだった。
「あたしと噂されるの、そんなに嫌かな……?」
あれ以来、八代とはぎくしゃくしてしまい、うまく話せなくなってしまった。
彼を前にすると、胸がきゅうと締め付けられ、頭がぐちゃぐちゃになる。
きっと、八代のぎくしゃくが、こっちにも伝染してるんだろう。そうに決まっている。
「はぁ……もう、もとの関係には戻れないのかな」
重いため息をつく。
あの楽しい時間が、恋しかった。
「あたし、どうしたらいいんだろ」
考えれば考えるほど、自分の感情がわからない。頭が過熱して、湯舟の中でのぼせてしまいそうだった。