第二話「青春のやり直し」
眠気はすっかり吹き飛んでいた。
姿見の横にあるハンガーラックには、俺が高校生の頃、毎日袖を通していた制服がかけられている。
「夢……か?」
ためしに頬をつねってみると、鮮明な痛みを感じた。
それだけじゃない。朝の澄んだ空気や、耳を擽るスズメの鳴き声が、コレが現実だと訴えてくる。
――やり直したい。
意識が途絶える直前、オンボロアパートで俺はたしかにそんなことを願った。
「今は――いつなんだ?」
心臓が早鐘を打っている。
浅い呼吸を繰り返しながら、俺は勉強机に置いてあったスマートフォン――これも高校時代に使っていたものだ――を手に取った。
「今日は西暦何年の何月何日だ?」
問いかけると、無機質な声が応じた。
『2020年4月1日です』
俺はどうやら、十年前にタイムリープしてしまったらしい。
母からの催促がうるさかったので、ひとまず一階のリビングに降りて食卓についた。サンマの塩焼きやみそ汁の匂いが、空っぽの胃袋をしくしく言わせる。
「まったく、春休みだからってのんびりしすぎよ? そろそろ新学期が始まるのに……」
母――八代千恵子は呆れたように言って、俺の茶碗にご飯をよそう。俺はその一挙手一投足から目が離せない。
「……? なに弓弦?」
「いや、若いなと思って……」
「はぁ? バカにしてる?」
気だるげな瞳も、くたびれた眉も記憶と同じだが、頬に刻まれた皺の数はあきらかに少ない。
最後に母に会ったのは、いつだったろうか。
大学を辞めてからは数えるほどしか会っていない。惨めな自分を見られたくなくて、わかりきったお説教を聞きたくなくて、俺のほうで距離を置いていた。
俺は母の期待に応えることも、無償の愛に報いることも、なに一つできなかった。
本当は俺だって、彼女にとって自慢の息子でありたかったのに……。
「じゃ、食べましょうか。――いただきます」
「……いたただきます」
母に続いて、合掌する。
食前の挨拶をするのなんて、何年ぶりだろうか。
もっと言えば、誰かと一緒に食事をするのが久しぶりだった。
なんだかふわふわした気持ちで、みそ汁のお椀を手に取る。
どこか遠慮がちに、啜った。
「……っ!」
口の中で郷愁が弾けた。
そこからは早かった。サンマに箸を伸ばし、白飯をかきこむ。目を丸くする母を置き去りに、俺はものすごい勢いで朝食を平らげていく。
母お手製の朝食は懐かしくて、あたたかくて、美味しくて、涙が出そうだった。
「ゆ、弓弦? どうしたの? なにか悲しいことでもあった?」
俺の顔を心配そうに覗き込む母に向かって、無言で首を振る。
声を出したら震えてしまいそうだったから。
……夢じゃない。夢なわけがない。
俺は今、在りし日を生きてるんだ。
朝食を終え、自室に戻る。
「さて……どうしたもんかな」
ベッドの上に腰かけて、こめかみを揉む。
まずは現状を整理する必要があるだろう。
「これってタイムリープ、だよな」
突拍子もない話だが、俺はおそらく、時間を遡行している。
もちろん、これが幻覚だとか、俺の頭が完全におかしくなってしまったという可能性もあるが……。
俺が元いた時代は2030年。
そして今いる時代は2020年。
なぜこうなったのかはわからないが、十年の時が巻き戻っている。
タイムリープ直前、俺は『やり直したい』と願った。
だけど、願うだけであっさり時空を跳躍できるはずがない。学生時代をやり直したいと思っている人なんて、俺以外にもたくさんいる。
俺はなにか、大事なことを忘れている気がする――。
「ぐっ……!」
激しい耳鳴りとともに、脳にノイズが走る。
俺の思考を阻むかのように。
……とりあえず、原因の究明は後回しにしよう。
なんてったって、俺はこの事象において少しの不利益も被っていないのだから。
元の時代に未練なんてあるわけがない。帰りたいなんて思うわけがない。
むしろ――。
俺の誕生日は10月だから、現時点で俺は16歳。
スマホのカレンダーを見るに、今から五日後の4月6日に始業式を迎え、高校二年生としてスタートを切る。
つまり本当に――やり直せる。
あの空っぽの高校時代を。
そうして、クソみたいな未来を、運命を、変えることができる。
「神様には、感謝しないとな」
俺にこんなチャンスをくれたこと。
体の中心で熱く燃える塊があった。
今度こそ、間違えない。
やりたいことは全部やって、のちのち胸を張って人に話せるような、悔いのない今を過ごしてやる。
やり直すんだ。
もう一度、青春を――。