第一話「タイムリープ」
こんなはずじゃなかったのに――。
そんな思いが、いつからか胸を占めている。
古びた木造アパートの一室には、重く濁った空気が沈殿していた。
窓の外では爽やかな秋晴れが広がっているはずだが、カーテンを閉め切った室内に光が届くことはない。
冷たい床に背を預け、俺はなにをするでもなくぼんやりと宙を眺めていた。
「この先どうするかな」
知らずため息がこぼれる。
未来が見えなかった。
二十歳のときに大学を中退してから、七年間、近所のコンビニでアルバイトを続けてきたが、それも先月で辞めてしまった。
なにもやる気が起きない。
このままでは生活が立ち行かないのはわかっていたが、体に力が入らなかった。
「どうしてこうなったんだろうなぁ……」
楽しかったのは小学生までだったと思う。
あの頃の俺は、明るく、活発で、未来に希望を持っていた。
でも、中学生のとき、ひどいイジメに遭って。
すっかり人と接するのが怖くなってしまった俺は、それから先、肩身を狭くして学校生活を送ってきた。
高校でも大学でも、とにかく目立たないように、人と関わらないように……。
その末路がコレだ。
精神的に打たれ弱く、なにか嫌なことがあるとすぐに逃げ出して、己の殻に閉じこもってしまう。
長年、追いかけ続けてきた夢もいつしか失ってしまい、後に残ったのは年齢という負債だけ。
同い年のヤツらはとっくに就職して、自らの足で歩き始めているというのに、俺はいまだにこの場所で、無為な時間を積み重ね続けていた。
「くそっ……」
まとわりつく黒い靄を振り払うように、勢いをつけて身を起こす。
連日の引きこもり生活で冷蔵庫の中は空っぽだ。いいかげん買い出しに行かなければならない。
こんな人生、続けていてもいいことはないが、かといって、ビルの屋上から飛び降りるような勇気はなかった。
なんの希望も、目標もない人生。
恋人はもちろん、仲のいい友人だってろくにいない。
誰の役にも立てず、誰からも必要とされず。
俺はいったい、なんのために生きてるんだろう……。
一通りの買い出しを終えて、築40年のオンボロアパートに戻る。
陽に当たって少しは気分が晴れたが、根本的な問題はなに一つ解決していない。
何日かぶりにドアポストから郵便物を回収すると、チラシの隙間からひらりと一通、見慣れない白い封筒が滑り落ちた。
「なんだこれ?」
表書きに『八代弓弦 様』とある。俺宛で間違いないらしい。
部屋にあがってから封を切ると、二つ折りの便箋が出てきた。
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皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます
私たちは9月2日に入籍し
このたび結婚式を挙げることになりました
つきましては親しい皆様の末永いお力添えをいただきたく
ささやかですが小宴をもうけました
おいそがしい中と存じますが
ご出席くださいますよう ご案内申し上げます
加藤直哉
真帆(旧姓 水島)
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「結婚式の招待状……?」
どうやら、実家のほうから転送されてきたらしい。
どうして俺にこんなものが――と思ったが、新婦の名前に覚えがあった。
「水島、さん……?」
気づいた瞬間、心がすうっと冷えていった。
水島真帆。
忘れもしない、初恋の人。
高校二年生から卒業まで一緒のクラスだったけど、俺が想いを告げることはついぞなかった。
明るく社交的だった彼女はクラスの人気者で、ありていに言って『高嶺の花』ってやつで。
俺のような日陰者には、ただただ眩しい存在だった。
彼女は俺の知らないところで、俺の知らない男と幸せになったらしい。
「――っ」
胸が張り裂けそうだった。
好きだった人が他の男と結婚したことは――もちろんショックはあるが――まぁいい。
それ以上に堪えたのは、あのとき俺と同じ場所で同じ空気を吸っていた人が、真っ当な幸せを手に入れていることだ。その事実はたまらなく俺の劣等感を刺激した。
「……俺はどこで間違ったんだろうな」
たとえば高校時代、勇気を出して水島さんに告白していたら、なにか変わっていただろうか。
少しでも彼女に好かれるために、外見を磨き、内面を磨き、効果的なアプローチを考え……。
結果として袖にされるにしろ、俺は成長できたはずだ。
大事な思い出に……財産になったはずだ。
世界に怯えて、自分が傷つくことをおそれて、なにもできなかった俺には、これっぽっちの思い出もない。
楽しい思い出も、悲しい思い出も。
なにかを始めるのに年齢は関係ない、っていうけど、そんなの嘘っぱちだ。
絶対に取り返しがつかないことは、山のようにある。
どんなに望んだって、俺は青春をやり直すことはできない。
なにもかも手遅れになってしまった今になってみて、強く思う。
もっと、みんなと同じようにすればよかった。ありふれた青春を楽しむ努力を、してみればよかった。
友達と一緒に、放課後寄り道をしたり。
恋人と手を繋いだり。
部活動に打ち込んでみたり……。
そんな当たり前を、やってみたかったんだ。
どんなに後悔しても、時は戻らない。
俺の願いが叶うことはない。
「やり直したい――」
思わず漏れ出た、みっともない言葉。
ますます惨めな気持ちになったところで、脳にザザッというノイズが走った。
「え――?」
視界がぐにゃりと歪む。
全身が浮遊感に包まれる。
なにが起きたのかわからないまま、俺の意識は闇に落ちた。
※ ※ ※
瞼の裏側で、眩しさを感じた。
薄膜の向こうから、誰かが俺を呼んでいる。
「弓弦~! 朝よ、起きなさ~い!」
「ん……」
耳慣れた声に、ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。
「母さん……?」
寝ぼけ眼をこすりながら、俺はもそもそとベッドから起き上がる。
「弓弦~! 起きてるの~!?」
「……お、起きてるってば!」
部屋の外からしつこく飛んでくる声に、思わず怒鳴り返す。
恒例のやり取り。
「朝ごはんできてるわよ~!」
「わかったよ、うるさいなぁ……」
ぼさぼさの髪の毛を掻き回しながら、ぼそりと反抗の呟きを漏らしたところで、気がついた。
――なんで母さんがいるんだ?
はっと周囲を見回す。
ここはたしかに俺の部屋……だけど、今の俺の部屋じゃない。
「どうなってるんだ……?」
ここは俺が高校を卒業するまで暮らしていた実家だ。
しかも、部屋のレイアウトや調度品は当時のまま。
懐かしい香りが、俺を包み込んでいた。
「まさか……」
信じられない思いでベッドから降り、姿見の前に立つ。
そこにはまだ十代半ばの、若々しい自分の姿があった。
初投稿です。よろしくお願いします!