6.悪夢の再来
じり、じり、と詰め寄ってくる老婆に、僕はなす術がない。
「来るなー!」
そう刃を向けて威嚇をしながら、靴を脱いだ。
「ここは、オラの家だ」
老婆は鉄パイプを引きずって、廊下を傷付けながら歩く。
「よそ者がデカい顔しやがって」
僕は、両方のスニーカーの紐をほどいた。
「出ていけ!」
その紐を包丁の柄に巻き付ける。
僕は、物を化け物に向けて投げつけた。
「なにしやがるッ!」
化け物は目を細めてうめいた。
投げたスニーカーが床に落ちる。
僕はその一瞬の隙をついて、老婆の横を通り過ぎた。
しかし……
「こうなったら親類相談だ!」
化け物の魔の手からは逃れられなかった。
やつが横薙ぎに振った鉄パイプが、僕の右大腿部を切り裂いたのだ。
浅く喰らっただけだが、ジーンズは、血の色で染まった。
「痛ッ!!」
そう足を引きずりながら茶の間へと逃げ込む。
僕は木製扉を勢いよく閉めると、向かい側のドアまで這って進んだ。
血の跡がべったりと畳の上に広がるが、黒く乾けば、それはただのシミにも見えるだろうし、カビが繁殖して黒ずんでいるだけだと判断されるかもしれない。それくらいにその畳も年季の入ったものだった。
僕は包丁に巻き付けた片側の紐を自分の手首にも巻いて、老婆の追撃を待った。
やつは、来るだろうか。
来ないかもしれない。
そうなれば今すぐにでも脱衣所に行って、タオルを探して止血しなければならない。
人間の脚には、静脈だか、動脈だか、そんな面倒な名前はいちいち覚えていないが、とにかくそういう名前の太い血管が通っているらしい。
だから、老婆と止血は、同じくらいの危機なのだった。
一応は立つこともできるが、出血の量を考えれば這って進むのが賢明だろう。
ここは老婆が追ってこないことを祈るしかない。
「ここはオラの家だってのに」
木製の扉越しに声が聞こえてきた。
まずい、来るな。
そう頭の中で声が反響する。
「だれだ、タカシだか?」
ガチャリとノブが回る。
「ただいまも言わねえで!」
僕はもうほとんど条件反射で手にした包丁を投擲した。
それは真っ直ぐ老婆に向かっていく。
「危ねえ。避けろ!」
僕は自分でことをなしておきながら、そんなことをとっさに叫んだ。
靴紐が伸び切る前に、包丁は、老婆の肩を突き刺した。
「っぎゃあああああ!!!!」
耳をつんざく咆哮だった。
僕は念仏のように、「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と謝罪をしながら、手前に紐を引っ張った。罪悪感で胸が押しつぶされそうになるのをぐっとこらえる。
しかし、それは抜けなかった。
包丁のめり込んだ老婆の肉体は、傷口を塞ごうとして、内側へと収縮していた。そのせいで刃物が筋繊維に挟まれてしまい抜けなくなったのだ。
「悪いな、婆さん。でも、これは、正当防衛だよな」
僕は手首に巻いたスニーカーの紐を解いて、キッチンがある方の扉を開けた。
ずりずりと全身を擦って移動していると、ナメクジにでもなった気がした。
そのまま脱衣所の木製扉を開けて、脱衣所の衣装箪笥を開ける。
そこには衣類だけではなく、フェイスタオルやバスタオルまでもが綺麗に収納されていた。
僕は無作為に、縦に長い布を選び取って、出血している部位を縛り付けた。
しかし、気分は良くならなかった。
むしろひどく不快に感じる。
ずきんずきんと痛みを発する傷口。
どくんどくんと脈打つ、気持ち悪い命の鼓動。
色のついたタオルがすぐに赤く染まっていった。
くっそ、僕は泣きたくなった。
なんでこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ。
なんなんだよ、あの婆は!
そう嘆きつつも、やることはやる。
僕は念のために、衣装箪笥や洗濯カゴや洗濯機。
それからロール状になっている浴槽のふたを開けて、中を覗き込んだ。
ない。玄関のカギが見当たらない。