こうして桃太郎のお婆さんは桃が嫌いになりました。
1
昔々、あるところに、お爺さんとお婆さんがありました。
ある日、いつものように、お爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯へ出掛けました。
お婆さんが川でせっせと洗濯をしていると──
「ドンブラコッコ、スッコンコン。 ドンブラコッコ、スッコンコン」
と、それはそれは大きな桃が上流から転がって来ました。
ですがお婆さんは洗濯に夢中で、桃に気づけませんでした。
気づかれなかった桃は、更に川を下っていきます。
「ドンブラコッコ、スッコンコン。ドンブラコッコ、スッコンコン」
そして、だんだん見えなくなって行きました。
お婆さんは洗濯を続けました。
5分後。
また桃が上流から転がって来ました。
「ドンブラコッコ、スッコンコン。ドンブラコッコ、スッコンコン」
今度はさっきよりもお婆さんの近くに来ました。
桃によって発生した不自然な波が、お婆さんにその存在を教えます。
お婆さんは顔を上げると、目の前にあった大きな桃に驚きます。
「こりゃたまげた」
それもそのはず、桃が流れてくるとは思っておらず、更にそれは洗濯のために屈んでいるお婆さんより大きかったのです。
お婆さんはそれが気になったので立ち上がって触ろうとしました。
ですがお婆さんは背が低かったので、手は桃に届きませんでした。
川の流れで、桃は下流へと流れていきます。
残念そうなお婆さんを尻目に、桃は流れてついに見えなくなりました。
また5分後。
大きな桃が上流から転がって来ました。
「ドンブラコッコ、スッコンコン。ドンブラコッコ、スッコンコン」
「あらま」
先ほどと全く同じ見た目の桃が転がって来たものですから、お婆さんは驚きました。
そしてもう一度大きな桃を取ろうと立ち上がります。
しかしどこか桃の様子が変です。
それに気づいたお婆さんが少し様子を見ていると、なんと桃がお婆さんめがけて転がってくるのです。
お婆さんは慌てて逃げ出すと、桃も追尾して追いかけてきます。
お婆さんが右へ行けば桃も同じく右へ。左へ行けば桃も左へ。
段々とお婆さんと桃の距離は近くなって行きます。
そして遂に、
「ドーン」
と派手な音を立ててお婆さんと桃はぶつかってしまいました。
以来お婆さんは桃が嫌いになり、川にも近寄らなくなったのでした。
そして本来出てくるはずだった桃太郎という存在は架空のものになり、鬼たちは平和に暮らしましたとさ。
【お仕舞い】
と終わるはずもなく。
お婆さんが川へ近づけなくなってしまったため、お爺さんが川で洗濯をしていますと、今度はアボカドが流れてきました。
「お? どうして鰐梨が流れて来たんじゃ?」
そのアボカドは別に特別大きいというわけでなく、そして特別美味しそうというわけでもなく、ただの、何の変哲もないアボカドでした。
お爺さんはそのアボカドを不思議に思い、取りに行きました。
「本当に鰐梨なんじゃな」
お爺さんがアボカドを手に取るとアボカドは縦に割れて、中から茶色い球形の種が出てきました。
「……育てよ、ということかの?」
そう思ったお爺さんはひとまず洗濯を終わらせて、アボカドの中から出てきた種とともに家へ帰って行きました。
2
お爺さんはアボカドの育て方を知りませんでしたが、鉢植えに入れて毎日水をあげていたら芽が出てきました。
その後もアボカドはすくすくと育ち、立派な樹に――――なるはずでした。
しかしどういうわけだか樹は人の形に成長し、やがて人間の男と大して変わらない姿になりました。
肌は生糸のように白く、髪は濃い緑色で、凛々しい顔立ちの屈強な姿の樹は、自我を持ち始め、会話や歩行もできるようになりました。
以前より子供を欲しがっていた夫婦は、彼を楠太郎と名付け、可愛がりました。
ある日、楠太郎はとある噂を聞きました。
「鬼ヶ島というところにある鬼たちが悪行を働いているらしい」
楠太郎は正義感が強かったので、その噂は彼を怒らせました。
「鬼、悪、ならば私が成敗してくれる!」
ということで楠太郎は鬼ヶ島へ行き鬼退治をすることに決めまして、その件をお爺さんとお婆さんに話しました。
肯定的なお爺さんたちの姿勢。しかし現実的な夫婦は次々と問題を指摘します。
「鬼ヶ島がどこにあるのか知っているのか」「どのように移動するのか」「勝算はあるのか」「そもそもその噂は本当なのか」エトセトラ……
楠太郎自身、それらに関して全く考えていませんでしたから答えに詰まり、そして同時に冷静になれました。
「儂は別に行くなと言っているわけではないのじゃ。ただ、行くならそれなりの覚悟が必要になると言っておるのじゃ」
「その考えは素晴らしいと思うの。だからこそ心配なのよ」
それから楠太郎は考えました。
噂についても確証を得、鬼との戦闘における戦術を考えに考え最適化し、いつ鬼と出会っても問題ない程に体を鍛え、そして最初に鬼退治を提案した日から数日後、もう一度楠太郎はお爺さんとお婆さんを説得しました。
すると今度は、
「行ってくるといい」
「でも、無理はするんじゃないよ」
と、笑顔で送り出してくれました。
楠太郎はあくまで植物なので食料は必要ありません。
その代わりにお婆さんは肥料を溶かした水を渡しました。
「気を付けて、行くんだよ」
「ああ。わかってる」
斯くて楠太郎は鬼ヶ島へと旅立ちました。
3
暫く楠太郎が進んで行くと、どこからか声が聞こえました。
「楠太郎さん、楠太郎さん」
声の主はそこに生えていた一本の鳳仙花でした。
その鳳仙花は見るからに弱っていました。
「何をなさっておられるのです?」
「鬼ヶ島というところへ、鬼退治に向かっているのだ」
「そうなのですか。では、腰に提げている水を私に掛けてくだされば、私もお供致しましょう」
仲間が増えるのはいいに越したことがないと思った楠太郎は、鳳仙花に水を掛けてやることにしました。
すると鳳仙花は楠太郎のように人の形に進化し、土から出て楠太郎に並びました。
楠太郎に比べると小さいですが、それでもしっかりと人の形で両足で地面に立っています。
「よし、行こう」
二人は鬼ヶ島へと進んで行きます。
二時間ほど歩いていると、浜辺に出ました。
快晴の下の澄み切った青い海、そして白い砂浜。その景色はとても美しいものでしたが……
「き、気持ち悪い、です……」
植物である楠太郎と鳳仙花には潮風は毒でしかありません。
長時間これに当たるのは避けたいのですが、残念ながら鬼ヶ島は海の向こう。
この海を渡って行かなければなりません。
「ああ。だが目的地は海の向こうなのだ」
「そこまでは何を使っていくのですか?」
「それが思いつかなかったのだよ。ずっと」
楠太郎の意外な無計画性に、鳳仙花は思わず「え?」と声を漏らしました。
そんな鳳仙花を尻目に、楠太郎はどうやって行くか悩んでいると、海岸には一隻のボートが置いてありました。
とても頑丈な作りで、原動機まで付いているそのボートを見た楠太郎は即決しました。
「よし、あれを使おう」
「ですが、どう考えても人の物ですよね。あれ」
真面なことを言う鳳仙花に楠太郎は言葉を詰まらせ、屁理屈で自分を正当化し始めました。
「この砂浜には誰もいなかった、乃ちあれは不法投棄された物である。故にあれは誰の物でもなく、鬼退治という正当な理由で一時的に使用することは全くもって問題ない。Q.E.D.」
「……もう何でもいいです」
顔を引き攣らせながらあのボートを使用できることを証明した楠太郎に鳳仙花はジト目で応えました。
二人はボートに乗り込み、ボートのエンジンをかけて鬼ヶ島に向けて進み始めます。
4
鬼ヶ島は案外遠く、とうとう日は地平線の下に潜ってしまいました。
空には膨らんだ上弦の月が昇っています。
「楠太郎さん?」
「うん?」
「冷静になってみれば、変な状況ですよね。今日会ったばかりの人と、同じボートの上で夜を過ごしているのですから」
「確かにそうだな」
落ち着いた声で、そう言った鳳仙花を、楠太郎は急にそんなことを言い出した鳳仙花のほうが変だろうと思いながら頬をかるく上げて返しました。
「そういえば、まだ私、名乗ってませんでしたね」
そう言われて初めて、楠太郎は鳳仙花の名前を知らなかったことを思い出しました。
「私、鳳火って言います」
楠太郎はボートを運転しているので、鳳仙花――鳳火の顔を確認することは出来ませんが、その声から顔を綻ばせていることが推測できました。
そして鳳火は少し頬を赤く染めながら、小さな声でこう続けました。
「鳳仙花の花言葉は『私に触れないで』ですが、楠太郎さんなら、いいですよ」
波を切る音で聞こえなかったせいか、それとも予想外の言葉に戸惑ったせいか、楠太郎は「え?」と訊き返しましたが、鳳火は「何でもありません」と笑って誤魔化しました。
「あ!」
そしてとうとう、楠太郎の目にも鬼ヶ島が見え始めました。
楠太郎はボートのスピードを速めます。
まるでそこだけが異空間のように禍々しく赤い光を放つ鬼ヶ島。
大分近づくと、まだ夜だというのに鬼たちが騒ぐ声が聞こえてきました。
こっそりと楠太郎たちは島に上陸し、盗まれたという宝を取り返すため、探そうとしました。
しかし運悪く、鳳火が落ちていた木の枝を踏んでしまい、さっきまであんなに騒いでいたというのに鬼たちはこちらに気づき、静かになりました。
冷や汗を流す楠太郎と鳳火。
そこへ鬼の一人がやってきて言いました。
「おい、こんなところで何してるわけ?」
いかにもガラの悪そうな口調。
楠太郎たちがそれにビビっていると、奥からぞろぞろと鬼たちがやってきました。
「ここは俺たちのテリトリーだ」
「誰だか知らねえが、とりあえずやっちまうか」
下卑た笑みを浮かべる鬼たち。
楠太郎は内心冷や汗をだらだらと掻きながら、表面上は冷静に言いました。
「盗まれた宝を返してもらいに来た。場所を教えろ」
「タカラ、ねえ。セキュリティが薄すぎて、どーでもいいのかと思ってたわガハハハハ」
「本当本当!ガハハハハ」
鬼たちは楠太郎の言葉に笑い出しました。
しかしその笑い声のお陰で、楠太郎にスイッチが入りました。
優しそうな緑色の目は赤く強そうになり、全身に力が湧いてきます。
さっきまでの怯えた態度はそこになく、あったのは、冷静に獲物を睨むハンターの雰囲気。
「鳳火、やむを得ない、力ずくで行く。援護を頼む」
「了解しました」
そして楠太郎が殴りにかかろうと走り始めると、同じように鬼たちも楠太郎を殴りに走り出しました。
勝負は圧倒的でした。
楠太郎が鬼を次々に蹴散らしていき、最早どちらが鬼だかわからなくなっていました。
鳳火も後ろから種を飛ばして鬼の目を潰しました。
残された最後の一匹の鬼が宝の場所を教えました。が、楠太郎はあくまで自分たちで返して来いとだけ残して島を出て行きました。
一ヶ月以内にすべて返還しないとまた殴りに来ると付け加えると、鬼たちは急いで宝を返しに行きました。
そして、楠太郎の鬼退治は終わりました。
5
「ただいま」
「おお、帰ったか」
「おや、随分と早かったねえ」
楠太郎は家に帰ってきました。
無事に鬼退治に成功した旨をお爺さんたちに伝えると、とても嬉しがっていました。
「よくやったなあ。さすが楠太郎だ」
「自慢の息子ね」
お爺さんたちに褒めてもらい、楠太郎は照れてしまいました。
そんなところで、ふとお婆さんは楠太郎の後ろにいた二人の影に気づきました。
「ところで、そこの後ろの二人は?」
「私は、鳳火と申します。元は鳳仙花で、楠太郎さんの持っていた水を掛けられたことで、人の形になりました」
「ぼ、僕は桃三郎といいます」
鳳火と一緒にいる、桃三郎について説明しましょう。
鬼たちが集めていた宝のところに、大きな桃が置いてありました。
不思議に思った楠太郎はそれを持ち帰ることにしました。
帰りの途中、ボートの上で桃は自然と割れ、中から出てきたのが桃三郎、というわけです。
もちろん、その大きな桃は、冒頭に出てきたお婆さんを襲った桃でした。
なんとあの桃は、お婆さんが洗濯していた川はから鬼ヶ島まで流されていたのです。
「お婆さんに謝りに来ました。僕がお婆さんにぶつかったせいで、お婆さんが桃に対してトラウマを抱えたと聞きました。あの時僕は――」
そこまで言いかけた桃三郎を、お婆さんは「いいの」と言って受け入れました。
「あなたにも事情があったのでしょう? もう気にしてないわ」
こうして、お婆さんは桃が嫌いではなくなり、みんな仲良く、平和に暮らしましたとさ。
【お仕舞い】
アボカドの和名:鰐梨
アボカド:クスノキ科→楠太郎