De diis watershed
「本作を読んで北欧神話を読んでみようと思いました」という人が増えてくれると歓喜します。
一方で北欧神話を読んでみたら全然別物じゃねぇか!と突っ込まれるんじゃないかと恐れを抱いております。ミ^ΦェΦ^ミ
屋根を銀で覆われた大きな館に一人の青年が訪れた。
美しい金の髪を持ち、整った顔立ちをしているが美青年というよりは気ままでいたずら好きな、どこかねこのような愛くるしさを感じさせる不思議な男であった。
普段であれば。
この日に限って言えば眉間に皺を寄せて表情全体もどこか険しい。
雑草一つ、ごみ一つなく色とりどりの庭は美しいが、それさえ青年の心を一切慰める様子はなかった。
勝手知ったる我が家のごとく、荘厳なエントランスを通り抜け、
歩みを進めていくと巨大な扉が視界を埋め尽くしていた。
屋根とは違い、派手さはなかったが、染み一つない白い扉はこの館に恥じることのない荘厳さをもって周囲を威圧していた。
門番としては荷が余るであろう、一人の女性がその前に立っていた。
美しく品格が感じられる佇まいであったが、表情にはどこか影が差しており、彼女の魅力を減じていた。
青年が視界に入ると、表情がわずかにこわばったのを彼女は意識した。
「義兄上はいらっしゃるか」
青年の一言で今度ははっきりと表情が歪む。
但しそれは憎しみからと言った理由からではない。
この男が館の主をそう呼ぶのをこれまでに聞いたことが無かったが故の困惑からであった。
「"我らが父"は瞑想中であり、終わるまで誰も入れるなとの仰せです」
会話の最中としてはわずかに長い沈黙を挟んで、彼女の発した返答は
"我らが父"に力が籠もった拒絶である。
一方の青年はといえば、相手の沈黙の間に、この程度の言いように動揺しすぎだというべきか、わずかの動揺で済ませたと感心するべきか思考を専有したのはわずかのことで、結局それもどうでもいいことだとあっさりと意識から手放した。
二人の言い分を素直に受け取るならば、叔父ということになるのだろうか、しかし二人の言葉には親密さは全く感じられなかった。
そして実際に青年は彼女の肩を押しやって強引に扉に手をかけると止めようとする彼女を無視して押し入った。
「何事だ、騒々しいぞ」
そこは広間だった。
扉同様に飾り気は最低限しかなかったが、高座から低い声が響くと、
声と同時に威厳が広間に放たれる。
それだけで広間もまた厳かな雰囲気で満たされるのだ。
高座に座っていたのは老人であった。
真っ白な髪と髭を蓄えていたが、その身は頑強なようであり、椅子ーーー玉座というのが正しいかーーーに座り目を瞑っていた。
手元で槍を弄んでいるのが違和感がなく、目の前の老人が未だに現役の戦士であることを、一目みれば疑うものはいないだろう。
玉座の背もたれの両端には2羽のカラスが留まり、老戦士の足下には2匹の狼が寝そべっている。
2羽と2匹はどれもただの動物でないことがその目を見れば明らかだ。
最も彼らの前に立つことができるのが前提であるが。
「義兄上」
青年は老戦士に声をかける。
見た目だけをみれば親子いや、祖父と孫といったほうが正しいだろう。
最も義理の兄弟であればありえないとはいいきれないのだろうが。
ともかく、自らの呼び方に興味を抱いたのか、閉じていた目を開く。
ーーー片方だけだが。
その程度しか惹かれなかったのか、と言えばそうではなかった。
老戦士は片目しかなかったのだ。
しかし、残された右目が開かれれば、周囲に放たれる威圧感はさらに増し、何一つ見逃さぬ、とばかりの視線の鋭さは物理的に対象を貫きそうだ。
しかし、青年はそれさえ意に介さぬように老戦士に言葉を続ける。
「義兄上にとって人間とはなんだ」
続けられた言葉に一瞬だけ老戦士は目を丸くし、青年の言葉に興味を失ったように、視線の鋭さと威圧感が緩んだ。
「そのような下らぬことを聞くために私の瞑想を妨げたのか?」
返答には呆れの響きを含んでいた。
「死すべき運命になかった多くの者たちが国同士の戦争に巻き込まれ死んだ。勇敢な者の魂を集めるために両国に諍いの火種を焚きつけたな?義兄上にとって人間たちは都合のいい玩具というわけか」
青年がそう返すと、わずかな間を置いて老戦士の怒声が広間に、広間を抜けて館中に、そして館を越えて響きわたった。
「言葉が過ぎるぞ。太古の昔、私と兄弟が天地を創り、その後に2種類の流木に生命を宿させ体を形作り、考え、自由に動けるようにし、見聞きなど周囲の物事を取り入れられるようにし、言葉を与えて協力しあうことができるように計らったのだ。いわば我ら兄弟の集大成を私が私専しているというのか」
「だが、運命のより糸を弄んでいるのを否定させはしないぞ」
青年は怖じ気付くことなく言い返した。
日頃の様子とは打って変わった有様に老戦士は違和感を感じ取る。
「・・・・・・一族の存続・繁栄はすべてにおいて優先される。」
老戦士はこのとき初めて威厳を無くし、苦々しげに返答の言葉をひねり出した。
「それが、それが本心かっオーディン!」
しかし、それ以上は沈黙以外に返ってくることはなく、青年はオーディン呼んだ老人に背を向けた。
「待て、ロキ」
止めようとする声もロキと呼ばれた男の足を弛めることはなかった。
神々の滅亡は変えられぬ運命であるという。
その運命が定まったのはロキが世に生み出された時か、オーディンがロキと義兄弟の血の杯を交わしたときか、それとも別の要因であったのかは定かではない。
しかし、世界が滅亡へと急速に進んでいく分水嶺となったのはロキとオーディンの二人の道が分かたれたこのときであっただろう。