となりの呪術少女
頭をがくりを垂れた璃鈴は、胴体を貫通して地面に突き刺さっている鉄の棒に支えられるような形となった。微動だにしないそれは雨風に晒されるのみの肉塊と化し、胸部から鮮血を滴らせていく。
飛鳥璃鈴は死亡した。
状況だけ見れば、そう判断できる。彼女が呪術によって得た身体的な強化は、あくまでも筋力を増長させるだけのものであり、防御の面では何も変わっていない。鉄の棒で心臓を貫かれて、生きていられる道理はない。
しかし、オルタナの表情は晴れない。勝利の余韻に浸るでもなければ、自由となった状況に安堵するでもない。未だ勢いを衰えるところを知らない空模様のように、曇り続けている。寧ろ、璃鈴が生きていた時の方が晴れやかだったとすらいえる。
「おい――」
雷雨に掻き消えそうなくらいに小さな声が璃鈴に向けられるが、彼女が反応する筈もない。もう一度――今度ははっきりと通る声で「おい」と、半ば怒鳴るような調子で言ってから、続ける。
「どうしたんだい、璃鈴。死んだ振りというのは些か芸がないと思うよ。僕を消滅させる方法はあるだの、僕とは背負っている覚悟が違うだのと――さんざん息巻いておいて、もう終わりかい? それとも、勢いで嘘を吐いてしまって、収拾がつかなくなってしまったのかい?」
オルタナは鼻で笑ってから、かぶりを振る。
「そんな筈はないだろう。君が後先考えずに行動するような人間じゃあない事を知っているくらいには、長い付き合いなんだ。布石を打っているのなら――いい加減に黙っているのをやめたらどうだい。それでも死んだ振りを貫くというのなら――」
一歩前に踏み出した――瞬間、璃鈴の指がぴくりと動いたのを、オルタナは見逃さなかった。次いでおもむろに面を上げた璃鈴の表情を見、二歩目を進もうとした足が止まる。鼻と口から血を滴らせている顔には一切の生気を失っており、対峙するオルタナを見据える双眸には光が宿っていない。死体が動きだしたような気味の悪さが、否応なしに嫌悪感を抱かせる。
「……璃鈴じゃないな?」
言いながら、オルタナは泥まみれのジャージのポケットから、折り畳み式のナイフを取り出した。一振りで展開された刃は、間髪入れずに気泡が浮き立ち――数倍の長さに達した刀身が刀のようになる。
「…………」
何事か璃鈴の口から発せられたが、口から出てくるのは鮮血のみであり、言葉らしい言葉はひとつとしてなかった。そうしてから自身を支えていた棒を、前屈するようにして勢い任せに地面から引き抜き、体勢を立て直す。胸を貫通している棒を両手で掴み、獣のような唸りを発しながらそれを抜いた。傷口から溢れ出す夥しい量の鮮血を意に介する様子は、ない。
奇怪なは虫類のように規則性のない動きをしていた焦点の合わない両の目が、不意にオルタナを結んだ――その瞬間に、璃鈴の口の端に薄気味の悪い笑みが浮かんだ。その口は次第に大きく開かれていき、哄笑を上げながら地面を蹴った。
致命的な傷を受けているとは思えない動きは先刻よりも更に勢いを増しており、オルタナが反応した時には眼前に迫っていた。泥人形に投げ、不意打ちという形で戻ってきた鉄の棒を上段から振り下ろし――オルタナの刀がそれを受け止める。甲高い金属音が鳴り響き、鍔迫り合いの状況となってから間もなくして、璃鈴が笑みを浮かべている口を開いた。
「どうしたオルタナ。璃鈴から逃げようとするなんざ、全くらしくもないな。俺を喰らった時の威勢はどこへ消えた? 家族を皆殺しにしてくれた怪物は、安定した力を得た途端に保身に走るようなヘタレじゃなかった筈だがな!」
璃鈴の態度は、オルタナが清人の身体を支配してそうしているように、違う人格が乗り移っているように見受けられた。否、それ以外に疑う余地はなかった。璃鈴の人格は既に失われている今、彼女の身体を支配しているのは、オルタナを知っている何者かの人格になる。
「あんたは……」璃鈴の手を押し返し、オルタナは飛ぶようにして後退する。追撃される前に左の腕を薙払うように振るい、手に触れた雨粒を魔力によって蒸発――凝固させた。そうする事によって発生した濃霧が二人の視界を遮断し、オルタナは更に距離を取る。
「璃鈴は嘘を吐いていなかったという事だね」
余裕を取り戻してきたのか、それとも虚勢を張っているのか。微かに引き吊った笑みを浮かべながら、オルタナは霧の向こうにいるであろう璃鈴に向かって声を張る。そうしながら刀の切っ先で地面に直線的な記号を刻んでいき、先刻と同様、手首に刃を走らせた。
「お兄さんか? それともお父さんか――まあ、どっちでも構わないけどね。璃鈴の意識が失われるというトリガーで、降霊術が発動するように仕掛けていた……大方、そんな所だろう。何の警戒もなしに璃鈴に取り憑いていたら、果たしてどうなっていたかな」
傷口から流れ出る血液を受け、光を放つ文字を飲み込んだ地面が隆起し――三体目となる泥人形が形成されていく。それが人の形を象っていくよりも早くオルタナは更に地面に記号を刻み、泥人形を生成する。
「当たらずと雖も遠からず!」
「うご――」
霧の中を突き抜けてオルタナの眼前に迫る璃鈴は、怒声と共に鉄の棒を中段に振るう。その一撃はオルタナの横腹を歪ませるだけに留まらず、上段へ振り上げられる勢いに乗って身体が中空へ吹き飛んだ。
――速すぎるだろう!?
遠ざかる地面からこちらを見上げている璃鈴を睨め付ける。一帯に立ち込める霧はオルタナの姿を隠すが、しかし三メートルを越す巨体は霧を突き抜けており、相手から見れば居場所が筒抜けになっているも同然だった。それを理解していない訳ではない――寧ろ、それを逆手に取って陥れてやろうと踏んでいたというのに、その為の準備すらできなかった。
「宿主を失ったお前が璃鈴に取り付く――璃鈴の意識が失われた瞬間に俺が降りて、お前の人格ごと二度と人様の前に出られない場所にこの肉体を封じ込めようというのが、最善のプランだったよ」
滞空した後に落下していくオルタナに追撃を加えるべく、璃鈴は駆け出そうとするが――形成された泥人形が璃鈴を敵と認識して拳を振り下ろす。
「鬱陶しい!」
吐き捨てながら振るわれた鉄の棒が気泡に包まれた――瞬間、それは璃鈴の等身と肩幅に等しい大剣に変化し、泥人形の拳を手首から切り落とす。沈むように地面に落下したそれを踏み台にして大きく跳躍し、泥人形の頭頂部から縦に両断した。
その間に形成されたもう一体の泥人形が両手を叩きつけるようにし――その間をすり抜けた璃鈴は、横に薙払った大剣で胴体を両断する。璃鈴に対抗する為に生成したニ体の泥人形は、宙を舞うオルタナが無事に着地するまでの時間を稼ぐ事しか出来なかった。
「無茶苦茶だ……!」
呻くように吐き捨てながら、オルタナは霧を発生させつつ璃鈴から距離を取ろうとするが――遮られる視界の向こうから聞こえてくる相手の声は、明らかに接近してきていた。
「だが、璃鈴は甘かったようだ。宿主を殺さずしてお前を引っ張り出す方法など、らしくもない事を考えていたが故に致命傷を受けてしまった。まあ――結果としては同じだ」
霧を突き抜けて眼前に迫る璃鈴が振り抜いた拳がオルタナの顔面を歪ませる。間髪入れずにもう片方の拳が腹部に叩き込まれ、血の混じった吐瀉物が口から漏れた。宿主と五感は共有していない。痛みは全く伴わないが――しかし、このままでは宿主の命に関わる。
何かしら対策を講じなければならないと思う一方で、璃鈴の猛攻は衰える所を知らない。続けざまに放たれる回し蹴りを、間一髪の所で両腕を上げて顔面への直撃を回避するが、その衝撃はオルタナを吹き飛ばすには充分すぎた。
「さっきお前は言っていたな。宿主がいなければお前は消滅すると。その宿主が死ねば、お前は当然――璃鈴を狙うだろう。だがお生憎だ、こいつの身体はもう保たない。治そうと思えば治せない傷ではないが、璃鈴はお前を消滅させると覚悟を決めたんだ。その意志を無下にはできないだろう?」
仰向けに倒れているオルタナの首を掴み、人形でも扱っているかのように軽々と持ち上げられる。宿主の身体は相当に消耗しているようで、意志に反して両手も両足も満足に動かせそうになかった。
「じゃあな」呟いてから、璃鈴は首を掴んでいない方の手を振り上げる。「なに、璃鈴もすぐにお前の後を追うさ。あの世で宜しくやってくれ」
「ち――」こうなれば、絶命寸前でも構わない。一時的に璃鈴の肉体を支配し、攻撃を阻止しようと――そう判断した瞬間に、璃鈴の手が掴んでいる首を放した。呆気に取られる間もなく倒れるオルタナを追うようにして、璃鈴もその場に崩れ落ちてしまった。開かれたままの そうぼうは虚空を見つめるのみで、動く気配がない。
それが何を意味するのか――考えるまでもなかった。
「……無駄口が過ぎたようだね、璃鈴。残念ながら、僕の一人勝ちだ」
時間を掛けて身じろぎし、俯せになる。後は朽ちて果てるだけとなる璃鈴の亡骸を横目で見遣り、血と泥にまみれた顔に引き吊った笑みを浮かべる。校内で二人が遭遇した際のオルタナが壁に刻んでいた――自身を治癒する記号を、指で這うようにして地面に再現していく。
思うように動いてくれない身体に少しばかり苛立ちを覚えながら、最後の一文字を刻もうとしていた手が――不意に動かなくなる。
「…………?」
宿主の身体が機能を完全に停止させたのかと思ったが――オルタナの意志を反映して、宿主の眉間には皺が寄る。何が起こったのか、よく分からない。分からないが、四肢の自由だけ利かない状態となっているのは明らかで、自分の身体の一部ではないような、気味の悪い感覚を覚えた。
「そりゃあ、お前の身体じゃあないんだからよ。当然だろう」
オルタナの口から出た言葉に、オルタナは表情を更に険しくする。それは確かに自分の声音だったが――しかし、自分の意志から発せられた言葉ではなかった。自身の意志が、明らかに反映されていない。
「……おかしいね。宿主が出張ってこれるようなシステムじゃない筈なんだけど」
「さあ、俺にも分からないな」オルタナの言葉に対し、宿主である――雨柳清人の返事が同じ口から発せられる。端から見れば一人で会話をしているように見えるが、見咎める者は誰もいない。
「だが、お前の知識から推察するに、俺の魔法的なエネルギーが増長しすぎて……お前の手に負えないレベルになってきている。違うか?」
「…………」
答えるまでもない。既に身体の制御を失い、あまつさえ無意識下で意識を共有しているというのであれば、オルタナの思考は清人に筒抜けになってしまっている。
形勢が完全に逆転していた。清人の身体を支配したというのに、いつの間にか支配される側になっている。清人が許可しない限り喋る事が出来ず――身動きを取るなど以ての外で、宿主の身体から抜け出す事も叶わない。詰め込まれる空気が許容量を越えて破裂する風船のように、何も出来ない。
「俺がもう少し早くオルタナを押さえ込む事ができていれば」
雨に打たれている璃鈴を見、清人は口を強く結ぶ。僅かに表情が歪んだのは、オルタナが笑おうとしたからだった。
「そうだ、僕が殺したんだ。即ちそれは――君が殺したという事でもある。殺人を犯したんだ。残念ながら、君はもう平穏な人生を歩む事は許されない。
なら……どうだい? いっその事、自由気ままに放浪してみるのも一興だろう。君が抱えている無尽蔵の魔力と――僕の知識さえあれば、刃向かえる奴なんて誰もいない。その気にさえなれば、世界をひっくり返す事だって――」
「図に乗るなよ」今度こそ、清人の表情に笑みが浮かんだ。
「お前みたいな下衆野郎を身体の中に抱えたまま、生きてたまるか。胸糞悪いんだよ。ああ……でも、ひとつだけ感謝してやる」
「感謝……」
「お前と知識を共有したお陰で、色々と勉強させてもらったよ。呪術は勿論、世界中に存在するありとあらゆる魔法の事とか――お前を消滅させる方法とか、な」
――まさか?
オルタナの言葉は口から発する事が許されず、清人の頭の中に反響する。
「最初はお前や璃鈴が何をやっているのかさっぱり分からなかったが――呪術のひとつとして、物に潜在している魔力を解放する法というのがあるらしいな。これを物以外にやったら……果たして、どうなる?」
おもむろに 自身の腹部に手を当てようとする清人の右手が、ピクリと震えて止まる。
「ば――」怒声を張ろうとした口はすぐに閉ざされ、オルタナの言葉は清人の頭の中で続けられる。
――馬鹿を言うな! 無意味すぎる。そんな事をして、君に一体何のメリットがある? 未だ底を知らない無尽蔵の魔力を手放すなど、考えられない。目の前にある大金を捨てる人間がどこにいる、そうだろう。
「いらねえよ……いるもんか。こんな訳の分からん力のお陰で、とんでもない面倒事に巻き込まれたんだ。璃鈴の計画が狂うわ、オルタナなんてよく分からん奴が出てくるわ……もういい加減にうんざりだ」
――よく考えろ! 魔力の解放は物質を変化させる法だ。自分自身にそんな事をして、ただで済むと思っているのか? 僕ですら試した事がないというのに。そんな事をするなら……せめて、僕を解放してからにするんだ!
清人が浮かべる笑みは――しかし非常に弱々しく、苦笑のようなものになる。璃鈴が散々痛ぶってくれたお陰で――オルタナが肉体を散々酷使してくれたお陰で、どこの筋肉も僅かに動かすだけで痛みが走ってくれる。
「あんだけ飄々としていたお前がそんなに取り乱す様を見れた――いや、見てはいないか――聞けただけでも、満足だ」
――じゃあ、もういいだろう。さっさと解放してくれないか。もう二度と君には関わらないと誓おう。だから、
「ああ、俺も二度と関わりたくない」
頷いて、右手の平を腹部に押し当てた。
「じゃあな。あの世で璃鈴に詫びろ。俺の分も含めて、な」
――雨柳清人!!
オルタナの叫声は落雷の轟音にかき消され――、
蝉の喧しい鳴き声が遠巻きに聞こえる。
徐々に覚醒していく意識の中で、清人は自分の身体が揺られているような感覚を実感とした。
電車の中だろうかと――最初はそう思ったが、そんな筈はない。意識を取り戻す以前の記憶が曖昧だが、少なくとも電車に乗った記憶はない。
誰かと戦って、死に掛けていた気がする。
もしかしたら、救急車で病院に搬送されているのだろうか。手術室に運ばれようとしているのかもしれない。意識を失う以前は、瀕死に近い重傷を負っていたのだから。
――さっきから何を言っているんだい、君は。状況をよく確認したらどうかな。
思考を割って入るように頭の中で響いた知らない声は、清人の意識を明瞭なものにさせた。跳び起きようとしたが――しかし、どうやら狭い空間に居いるらしい。いや、居るというよりは、閉じこめられているのかもしれない。緑色の壁が、すぐ正面と左右に展開されている。どうしようもない閉塞感が、焦燥感を募らせる。
「一体ここはど――」どこかに出口はないものかと、伸ばした自分の手を見――清人は言葉を失った。それは確かに自分の意志でもって動かしたものだが、どこをどう見ても、人の手ではない。
艶やかな短い黒い毛に覆われており、先端に淡いピンク色の肉球が人の手を模すように付いているそれは、紛うことなき動物の手――猫の前足だった。
「なん……なんだよこれは――」
清人の悲鳴は、突然に大きくなった振動によって遮断される。次いで後方から聞こえてきた「静かにしなさい」という女の子の声には、聞き覚えがあった。しかし――果たしてその声の主が、清人の思っている通りの人物なのだろうか。記憶に違いがなければ、彼女は既に亡きものとなっている筈だった。
背後を振り向くと、白い格子の向こうからこちらを覗いている声の主――飛鳥璃鈴と視線がかち合った。
「璃鈴……?」
目の前で死んだ筈の人間が、どうしてそこに存在しているのかという疑問よりも――ここは一体どこなのかという疑問よりも何よりも、清人は璃鈴の身体が途方もなく巨大化している事に驚いた。格子越しでは顔しか確認できないが、それでも通常の比ではないのは疑いの余地がない。
――いやいや、璃鈴はどこもかしこも、一ミリたりとも大きくなっていやしないよ。自分の身体をよく見てみなって。
聞き覚えのない声が再び頭の中で反響する。その声の招待を考えるよりも先に、言われるままに首をぐるりと巡らしてみて――そうしなくとも薄々感づいてはいたが、自分の身体が人間ではない事を再認識した。
黒い猫になっている。
清人はかぶりを振った。これは夢に違いない。そうでないとおかしい。璃鈴が生きている道理もなければ、自分が猫になっている意味も分からない。これが夢ならば、全て辻褄が合う。猫が人語を喋れる訳がない。
知らない声が、それを否定する。
――おいおい。今時自分にとって都合の悪い事を全て夢だと思って処理する人間なんていないよ。酷だけどね、残念ながら君が見ているものは現実だ。僕みたいに潔く諦めてしまえば楽になるというものだよ。
「……オルタナ、なのか?」
男のようでもあり、女のようでもある中性的な声質こそまるで別人だが、その喋り方と――何よりも意志とは関係なしに頭の中に響いてくる声があるとしたら、それはオルタナ以外には考えられなかった。
――ようやく気付いたかい? まあ、君は僕を完全に消したと思っていたのだろうから、無理もないだろうねえ。だけど……残念ながらこの様だ。
揺れが止まる。格子の方を見遣ると、璃鈴の顔は既にそこにはなく、昼間の外の風景が伺えた。最後に見た雷雨が嘘のように思える快晴だが――しかし、清人には全く見覚えのない場所だった。果たして、ここはどこなのか。どこへ向かおうとしているのか。
「後にも先にも、人体に向かって――あまつさえ、自分の魔力を全て解放しようとしたのはあんたが初めてでしょうね。その結果が、その身体よ」
格子の外から璃鈴の声が聞こえる。どうやらこの狭い空間は、動物を入れる為のキャリーらしい。清人は猫になってしまったのだから。
「お陰で――解放された膨大な魔力の余波を受けたのがきっかけで、私は息を吹き返したんだけど、あんたが考えていたように事は運ばなかったわ。もう分かっているとは思うけど、オルタナはあんたに縛られたまま」
魔力を得られなければ、オルタナはやがて消滅の一途を辿ると――自分でそう説明していた。にも関わらず、こうして清人の意識下に潜在している。どうして?
――どうしてだろうね。君が意識を失っている間は、僕がこの身体を好きにできるんだけど、抜け出す事だけはどうしたって叶わない。君に残っている魔力は微塵もないし、そうなれば何もできないし、全く参ったよ。
歩行者用の信号が赤から青に切り替わり、璃鈴は再び歩きだしたらしい。キャリーが揺れだした。
「璃鈴、ここはどこなんだ」
「さあ。分からないわ。少なくとも、あんたが住んでいた街じゃない」
「おい――待て、冗談じゃない」
格子に前足を伸ばすが、しかし爪がそれを引っ掻くだけで、開く気配などまるでない。中にいる動物が簡単に抜け出せない構造になっているのだから、当然だ。
「どに行くつもりなんだ。帰らせてくれ。俺には自分の家が……」
「戻るというの? その身体で」
「…………」
「人間だった頃のあんたは、もうこの世には存在していないわ。行方不明者として扱われて――いつかは死亡した人間として処理されるだけ。その姿から人間に戻れる方法があれば話は別だけど、残念ね。私もオルタナも、猫になった人間を元に戻す法は知らないわ」
返す言葉が見付からなかった。
自分は生きている。
間違いなく生きているというのに、世間的には死んでいる。
意識を失う直前まで、自分には自分の生活があった筈なのに――家族がいたというのに、学校があったというのに、友人やクラスメイトがいたというのに。残ったのは猫の肉体のみで、他は全て失ってしまった。人として生きられなければ、猫としての生き方も分からない。ならば清人は、
「……俺は、どうすればいいんだよ」
今更のように押し寄せてくる絶望感が、清人にその言葉を吐き出させる。
「知らないわよ。あんたが自分で招いた結果なんだから。自分で考えなさい」
それはあんまりだと――そう思った直後に、「でも」と、璃鈴は言葉を紡ぐ。
「まあ……面倒くらいなら、見てあげなくもないわよ。そうなった原因の一端は私にもある訳だし――一応は、私の命を救ってくれたのだからね。オルタナが一緒にいるのは、気にいらないけど」
信用していいのだろうかと、疑るのも無理はない。かつては自分を殺そうとしていた相手に生かされるなど、にわかに信じがたい。
尤も、疑った所で何の意味もないのは事実。嘘ではないと――動物用のキャリーを用意する程度には、嘘ではないのだろう。そう信じたい。裏切られたところで、どうせ失うものなど何もない。
――そういう訳だ。だからさ、君の意志で僕を解放してくれないかい? 人間として生きられないんだ、もうどうでもいい事だろう? 君だって、僕がいつまでも君の中にいるのは快くない筈なんだからさ。
一拍の間を置いてから、清人は溜め息をひとつ漏らした。猫でも溜め息が溜め息が吐けるものなのかと――場違いな事を思う。
「お前の口車に乗る程、俺は自暴自棄になっちゃいねえよ。追い出したその瞬間に璃鈴を乗っ取られたら、今度こそ俺はどうすればいいのか分からなくなる。どうしても出たいのなら、元に戻れる方法でも考えろ」
ちぇ、というオルタナの舌打ちは、聞かなかった事にした。
「これからどうするんだ?」
「さあ」と、璃鈴はかぶりを振る。
「オルタナから逃げる必要はなくなったけど、だからといって、私には帰る場所はないから。とりあえずは……」
「とりあえずは?」
「お腹が空いたわ」
言われて、清人も空腹感を覚える。思えば、意識を失った日は朝から何も口に入れていないのだ。空腹で当然だろう。
「そうだな。俺も……何だろう、特に魚が食べたい」
猫としての本能がそうさせているのか、それとも猫に関する自身の知識がそう思わせるのか。言ってから、些か単純すぎると後悔する。
「魚、ね。どうすればいいとか言っておきながら、猫として生きるつもりが充分にあるんじゃないの」
「言ってろ」
――僕もそのうち身も心も猫になっちゃうんじゃないかと思うと、全く怖いね。いや、身はないんだけどね。心もないのか……?
「……言ってろ」
璃鈴はともかく、嘲笑してくるオルタナを追い出したいと――つい先刻の決意を撤回する衝動に駆られたが、今後もこのような応酬が続くのは想像に難くないのであれば、これくらいでいちいち腹を立てている場合ではない。
清人は人として生きる事を諦めてはいない。璃鈴やオルタナは知らないだけで、元に戻る手段は残されている可能性はあるかもしれない。否定できない内は、まだ望みはある筈である。果たしてそれが見付かるのがいつのか分からないが――見付からないまま、猫として生涯を終えてしまうかもしれないが、
それまでは、璃鈴の旅に付き合おう。
魔女に従える猫を演じるのも――そう悪いものではないのかもしれない。
となりの呪術少女は、見知らぬ街を進む――。