穿たれる穴
投げ放ったペンは宿主の胸部を貫く。
崩れるようにして倒れていく宿主の口から、黒い霧のようなものが出てくるのを見た。その霧は――オルタナの残留思念は、こっちに向かってくるのではないかと璃鈴は危惧したが、身構える彼女を余所に、黒い霧は雨柳清人の口に流れ込んでいった。
オルタナの言葉はにわかに信じ難かった。雨柳に魔術師としての才能があるなど――それは雨柳を誑かす為の虚言に過ぎないと思っていたが、しかしオルタナは新しい宿主として雨柳を選択した。
それが何を意味するのか――想像に難くない。
ひとつ舌打ちしてから、璃鈴は腕を振り抜いて、ボールでも投げるように軽々と椅子を投げ飛ばす。直線に近い放物線を描きながら飛んでいったそれは、背を向けたまま身動きを取る気配のない清人の後頭部に直撃した。通常であれば倒れてもおかしくないが、異常と化した清人は――新たな宿主を得たオルタナは、微動だにしなかった。
徐に璃鈴の方を振り返るオルタナは、およそ清人が浮かべないような気味の悪い笑みを浮かべていた。クツクツという笑い声は次第に勢いを増し、哄笑が教室を蹂躙する。
「いいぞ……こいつはいいぞ璃鈴! 古今東西いろんな人間を喰ってきたが、これほどまでのポテンシャルを秘めた人間は初めてだ! 叩けば力が溢れてくるとでも言おうか」
「……まるで新しい玩具を与えられた子供ね。そんなに馬鹿みたいな大声を上げなくても、聞こえるから」
「もしかして、嫉妬しているのか? 無理もない。君がこいつの身体を利用すれば」オルタナは、手のひらで自身の胸を叩く。「どんなものが出来上がっていたことやら」
「くだらない」
苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる璃鈴は――どうしてもっと早くに気付けなかったのか――少なからず後悔の念に駆られていた。自分が形成した結界を受け付けなかったのは、それだけで清人が特異な存在だと証明しているようなものだった。
――それにさえ気が付いていれば、オルタナなど相手にならなかったというのに。
「さて……今日の僕は非常に満足している。求めていた以上のものが手に入ったからね。この肉体に比べれば、璃鈴が蓄えている魔力など微々たるもの。最早どうでもいいとすら言える」
「そう。なら話は早いわ。さっさとここから消えて。そして二度と私の前に現れないで」
「おいおい、正気かい?」
オルタナは大仰に目を見開いてみせる。
「せっかく手に入れた力だ。使わなければ意味がないだろう。君にとっても……そう、全力を出すいい機会じゃないのかい?」
言いながら、オルタナは自分に投げ付けられて床に倒れている椅子の足を掴む。それを投げ返してくるのかと――身構えた璃鈴は、側にある机が不意にガタガタと音を立てて動き出したのを見、肩を震わせた。無論、触れてなどおらず、目の錯覚でもないというのは――他の机や椅子も同様に動き出したのを見れば明らかだった。
教室中のそれらが勝手に動き出す様は不気味としか言いようがない。まるでホラー映画でありがちな霊的現象――ポルターガイストを見ているようだった。この現象を引き起こしているのがオルタナならば、これ以上野放しにするのは危険すぎる。何か仕掛けられる前に叩くべく駆け出そうとして、
「は――!?」
前後左右から滑るように飛んできた複数の椅子の脚が、璃鈴の足を固定するようにまとわりつく。それらを振り払おうとしている間に周囲の机がオルタナの方へ向かって移動し、磁石に引き寄せられる金属のように、オルタナが持っている椅子にくっついていく。
「全力を出してみろよ。飛鳥璃鈴!」
オルタナが椅子を振り上げた瞬間、それに纏わりついていた机の群れが爆風に煽られたかのように四散する。避けきれないと踏んだ璃鈴は、顔の前で腕を交差させて防御の姿勢を取るが、殺到する机に対するには余りにも心許ない。
正面から飛来する机の板を腕で受ける。表情を微かに歪めた直後に、別の机の脚が璃鈴の腹部――包帯が巻かれている負傷箇所に食い込んだ。強引に出血を止めただけの傷口から全身に拡散される激痛が、彼女の目を見開かせる。
「かあ……」
呻吟しながら――それでも堪えようとするが、僅かに体勢が崩れたその瞬間を狙うようにして机が一斉に押し寄せる。ついには片足が床から離れ、両足が浮き、後方へ流される身体が窓ガラスを突き破り、衰える所を知らない雨風が容赦なく肌を弄った。
雷雨に細めた目に映る暗雲を見、舌打ちする。
璃鈴の身体に纏わりつく机や椅子の軍勢は、窓を突き破った時点でオルタナの制御下から解放されたらしい。中空に放り出されたそれらが宙を浮いていられる道理はなく、重力に従って璃鈴と共に落下の一途を辿る。
二階からの落下だ。即死に至らないが、少なくとも重傷は免れられないだろう。しかし璃鈴は――頭から落下しているにも関わらず、表情に焦りは全く見受けられなかった。足に引っ掛かっている椅子を蹴り飛ばすように振り払うと、猫のように中空で身を捩り、地面に衝突して泥を巻き上げていく机や椅子の中で静かに着地した、
「っ……!」ように見えたが、直後に璃鈴は表情を歪め、その場で片膝を付く。微かに血が滲んでいる腹部の包帯を抑えて、自分が落下してきた二階教室の窓を見上げた。
――肉体の強化は問題ない。身体は軽いし、自由に動く。でも……この怪我だけは、どうにも……。
応急処置として使用した蛆はストックがない。他の応急処置を行うにしても、諸々の道具は教室に置き去りとなってしまっている。尤も、このまま教室に戻った所で手当する余裕などないだろうし、そもそもオルタナは教室に戻ろうとするのを許さないだろう。
「うううぅぅぅ、いえええぇぇぇあ!」
奇声にも等しい大音声を張り上げながら、オルタナもまた窓から身を投げ出す。続け様に振り上げられた椅子が璃鈴目掛けて投げ飛ばされるが、彼女の掌底がそれを弾き飛ばした。
「まだまだァ!」落下しながらオルタナは両の手を振り上げるが、しかしその手に握られているものは何もない。
先の攻撃は、今までの――泥人形のようなものとは、明らかに毛色が違った。ならばその行動は何らかの予備動作で間違いないという璃鈴の読みは、外れてはいない。
オルタナが腕を振り下ろした直後――降りしきる豪雨の中に紛れて、それ以外の何かが飛来してくるのを確認した。その何かが他でもない、雨だと確認するよりも早く、璃鈴は背後に飛び退く。常人では視認できない加速度を得て落下する雨粒の群れは、さながら弾丸のように地面を穿ち、机や椅子の板を貫通した。後退しないでいたらどうなっていたかと思うと、ぞっとしない。
オルタナが着地するよりも早く、璃鈴は手近に転がっている椅子の脚を両手で掴む。それを振り上げると同時に掴んでいる脚は泡を吹きながら膨張し、その長さを四倍、五倍にしていく。槌と化した椅子を頭上に振り下ろされ、着地した直後のオルタナは回避できずに頭部への直撃を受けた。
椅子の根本から折れ、ただの鉄の棒と化したそれを中段に構えながら、璃鈴は泥に顔面を突っ込んで倒れたオルタナに向かって駆けていく。しかし、棒を振り上げる動作に連動したかのように顔を上げ――両手を地面に突いてから跳ねるようにして起き上がったオルタナは、頭部から血を滴らせながら後方へ飛び退いた。
舌打ちしながら追撃しようとして――足元で見覚えのある直線的な文字が光を放つのを見、璃鈴は足を止めた。文字を飲み込むようにして盛り上がる地面は雨を含みながら瞬く間にせり上がっていき――人型を形成していくそれは、先刻に見たものよりも更に巨大な、ゆうに三メートルは越す泥人形と化していく。
「私の目の前で堂々と――!」
完成される前に破壊すべく鉄の棒を叩き付けるが、糠に釘とはまさにこの事で、全く手応えがなかった――どころか、せり上がる泥は鉄の棒を飲み込み、手放さざるをえなくなってしまった。
頭部に浮かぶ二つの水色の光が璃鈴を睨め付けた――瞬間、巨大な泥の塊である拳が璃鈴の体躯を襲った。それは殴ったというよりも衝突に近く、相当の質量を受けた璃鈴の身体は容赦なく吹き飛ばされ、数メートルほど滞空してからぬかるんだ地面を転がっていった。
「立てよ璃鈴! その程度でくたばるような奴じゃないのは知ってるんだよ! そう、君のしぶとさはゴキブリにも匹敵するからな!」
倒れて動かない璃鈴に対し、オルタナの声が飛び掛かる。
「……だったら、あんたのしつこさもゴキブリ並ね」
言われたから起き上がるのではない、そうしなければ、オルタナを始末できない。口の中に入った泥を唾と共に吐き捨て、泥人形の傍らに佇むオルタナに剣幕を向ける。
自分をゴキブリ呼ばわりされた事がそんなに面白かったのか、オルタナは空を仰ぎながら哄笑した。
「僕も君もゴキブリか! 似たもの同士は惹かれ合うって? そうだよね、そうでなければ、僕は執拗に君を追いかけたりなんかしないもんね。君も案外、僕に追いかけられるのを望んでいるんじゃあないのかい? 学校から学校に渡り歩くなんて、わざわざ僕に捜しやすくしているようなもんじゃないか」
何が楽しいのか、オルタナは更に大きな笑い声を上げる。
「気持ち悪い。その下衆な笑い声を二度と上げられないようにしてあげるわ」
「いやいや……悪く思わないでくれ。僕は宿主の性格を少なからず反映しちゃうからね。意識しないと、つい、キャラがブレる。尤も、人間だった頃の僕がどんなキャラだったかなんて、もう覚えちゃいないけどね!」
「……そいつは、そんな品のない笑い方をするような人間じゃなかったけど」
尤も、清人と交わした言葉など数えるくらい程度しかなく――それで相手の人間性を知ったつもりになるのは浅はかというものだろう。そもそも、璃鈴に清人を擁護するつもりなど微塵もない。
「そりゃあ……そうだね。この雨柳清人、相当な猫被りのようだ。こいつはなかなか面白いぞ?」
言いながら、オルタナは清人のこめかみの辺りに拳を立ててグリグリと回す。そうする事によって、宿主の記憶を掘り起こしているのだろうか。
「この学校に通う前――中学時代は、相当にやんちゃをしていたみたいだね。度合いで言えば、璃鈴、君に勝るとも劣らない。具体的に何をしていたのかは……まあ、中学生という立場でなかったら、まず許されないとだけ言っておこうかな? 越えちゃいけないラインくらいは弁えているからね」
他人の身体を乗っ取っておいて何を弁える必要があるのかと、心中で璃鈴は吐き捨てる。
「そんなんだから、雨柳清人の周りには誰もいなかった。いや、たった一人だけ友人がいたみたいだけど、それだけだ。
自業自得とはいえ、後悔したらしいよ。だから、せめて高校では、同じ轍を踏みたくなかったんだ。皆から尊敬される――慕われる存在になりたかった。その為に、俺はこの学校の頂点を目指していた……なのに!」
芝居掛かった風に、大仰に両腕を広げてみせてから、オルタナは璃鈴を指さす。代弁でもしているのか、その口調は徐々に清人のそれに似通ってきている。
「飛鳥璃鈴、お前がこの学校に来てから全てが狂いだした。何もかもが順調だったというのに、何もかもがおかしくなってしまった。挙げ句の果てに、これだ。俺はこれからどうなるんだ? 死ぬのか? 俺はお前に殺されるのか? ふざけるのも大概にしてくれ!」
「……大概にしてほしいのはこっちよ。あんたが余計な事さえしなければ、そもそもこんなに面倒な事態には陥らなかったというのに」
オルタナは破顔する。
「それを僕に言っても仕方ないだろう?」
「……そうね」
ぽつりと呟いてから――一歩、そして二歩と前進し、歩みの速度は駆け足となってぬかるんだ地面を巻き上げる。劇的に広がる歩幅は跳躍の域に達し、さながら疾風の如く草原を駆け抜けるチーターのように、オルタナとの距離を詰めていった。
それを看過しない泥人形が巨大な腕を振り上げるが、巨大な質量を有していれば、それだけ動きが緩慢になる。最初の一撃こそ不意を突かれて直撃を受けたが、高速で動く的には当たりようがない。上から落ちてくる拳の下を潜り、璃鈴は眼前に迫るオルタナに向けて拳を振り上げた。
防御が間に合わなかったのか、それとも端から身を守るつもりがないのか――拳の一撃を顔面に受けたオルタナは、鼻の穴から鮮血を撒き散らしながら後方に吹き飛ばされ、先の璃鈴と同じように地面を転がっていった。
起き上がろうとするよりも早く追撃を加えようと構えるが、泥人形が足払いを掛けるように蹴りを放ってくる。巨体から放たれるそれは、璃鈴からしてみれば泥の壁が迫っているようで――大きく跳躍して回避する他になかった。
足が速くなった所で、滞空時間に変化はない。
足払いの勢いで巨体を回転させた泥人形の裏拳が、滞空している璃鈴の身体を打つ。微かに呻いた彼女の身体が中空を舞うが、地面に向かって落下する前に身を捩って着地した。
「……璃鈴。どうして僕が、今まで呪術を用いようとしなかったか」
ゆっくりと身を起こしていくオルタナを見、璃鈴は僅かに表情を歪ませる。頭部や鼻から流れている鮮血は明らかに妙な方向に線が延びており――猫の髭のようになっているそれは、璃鈴が顔に施しているものと相違なかった。
「意志の力が作用するからだ。まじないにしろ、呪いにしろ、それを成功させようという強い意志があればある程、働く力は強大なものになる。だからこそ、呪術は民間伝承として広まりやすい。誰でも使えるという点に於いて、まさに呪術は魔術界のファーストフードだね」
「手軽だから。そうね」
璃鈴は否定しない。
「僕は強い意志というものを持った事がない。それがよく分からないとでも言うべきかな。僕は餌を求めて渡り歩くだけだから――そうしないと、一瞬で勝手に消滅するからね――それ以外の欲求なんて、あってないようなものだった。でもね、ちょっと分かってきたよ。人間の欲求とか、願いとか……そういうものがさ」
おもむろに 歩を進めるオルタナは、泥人形の足元で歩みを止める。
「どうだろう璃鈴。長い因縁だったけど、そろそろ終止符を打つというのも悪くないんじゃないのかい?」
「私を付け狙うのをやめてくれるのかしら」
璃鈴としては、面白くもない冗談のつもりで言ったのだが――しかし、オルタナは首肯する。「そうだね。そうしよう」という言葉は、にわかに信じ難かった。
「僕の願いは叶えられた。湯水のように膨大な力が手中にある今、これ以上に僕が望むものは何もない。そうなると、君の存在が厄介なんだ――分かるかい? この身体を失いたくないからね。誰彼構わず宿主を殺そうとする璃鈴が、現状で最も危険な存在だ。
悪い話ではないだろう? 君がひとつ頷いてくれれば、十数年に渡る君と僕の因果はその瞬間に断ち切られる。そうすれば、もうどこにも逃げ回る必要はない。人並みの生活を送る事ができる。それは、君がどんなに望んでも手に入れる事のできない大切なものの筈だ。それでも君が首を縦に振らないのなら致し方ない。実力を行使させてもらう」
何か言葉を返すよりも早く、璃鈴は駆け出す。
「それが君の答えか」
溜め息と共に言葉を吐き出し、オルタナは泥人形の左足に手を当てる。「魔力の解放」という呟きと同時に、泥人形の足の表面に気泡が浮き立った。それは左足だけに留まらず、胴から右足と両腕、そして頭部にまで拡散していき――気泡が消えた箇所が、泥から岩塊と化していくのを見、璃鈴は舌打ちする。
泥人形から岩人形に段階が上がったそれが動き出す前に振り抜かれた璃鈴の拳は、しかし顔面に到達する既の所でオルタナの左手が受け止める。均衡するパワーバランスは、互いの視線をかち合わせる間を与えた。
「あんたは――ひとつ、勘違いしてる」
オルタナが何か言おうとして口を開き掛けるが、直後に上空から振り下ろされてくる岩の拳が二人を隔てる。岩塊が地を打つ衝撃はこれまでの比ではなく、咄嗟に後方へ跳ねた璃鈴は地面を伝う衝撃に足元を掬われかけた。
地面から浮き上がる岩塊の向こうに佇んでいるオルタナは相も変わらず涼しい表情を湛えている。
「僕が勘違いをしているって? ああ……君が僕に好意を抱いているという勘違いなら、それはただの冗談だよ。いちいち真に受けられると、僕が困ってしまう」
「的外れもいいところね」
泥沼を巻き上げながら猪突してくる岩人形を仰ぎながら呟くような調子で言い、再び地を蹴る。振り下ろされた拳を避けようとして、それは身体を掠めて地面に叩きつけられた。
「あんたがどれだけ許しを乞おうと、私の家族を亡きものにしたあんたを、私は絶対に許さないわ。ここで野放しにした挙げ句に犠牲者が増えるのなら、死んでもあんたを食い止める。それよりも何よりも、私が受け継いできた術を何の苦労もなしに使われるのが――気に入らない!」
璃鈴を鷲掴みにしようと横合いから飛んでくる石の拳を跳躍によって回避し、着地と同時に岩人形の股下を潜り抜ける。
そのまま正面のオルタナに向かおうとしたが、しかし岩人形の反応速度は璃鈴の予想を凌駕しており――質量を無視した動きで振り返る巨体はそれだけで驚異であり、振り向き様に地面に叩きつけられる拳は璃鈴の進路を塞ぐ壁となった。
頭上のそれを見上げ――それから後方から飛んでくる蹴りを見、璃鈴は舌打ちする。岩に蹴飛ばされる小さな体躯は石ころのように中空を舞、オルタナの脇を通過した後に地面を転がっていった。
「今の今まで散々僕から逃げ回っていた君が、よく言うよ」
ぐったりと横たわる璃鈴の姿を見、オルタナは鼻で笑う。
「どんなに息巻いた所で、君には僕を消滅させる術がない、そうだろう? この場で宿主を完全に殺せば、次に僕が狙うのは他でもない、璃鈴――君だ。それを分かっているからこそ、君は逃げ回る他ないんだ」
「……違うわ」雷雨に消え入りそうな程にか細くなった声を漏らしながら、璃鈴は両手を地について上体を起こす。そうしてから血反吐を吐くと、その後に続く言葉には幾分か本来の勢いが戻っていた。
「私には……覚悟が足りなかっただけで――あんたをすぐにでも消滅させる方法そのものは、ある」
「面白い冗談だね。何の覚悟が足りない? 罪のない人間を殺す覚悟か。恐怖に立ち向かう覚悟か。命を投げ捨てる覚悟か。例えその覚悟があったとして……それで僕を消せるというのなら、今すぐこの状況を覆してみせてよ!」
立ち上がろうする璃鈴の足元は覚束ず――それは岩人形から受けた一撃の威力を十二分に物語っている。それで相手の攻撃の手が緩む道理はない。ともすれば、地震と勘違いしそうな地響きを起こしながら猛進する岩人形が、僅か数歩で璃鈴との間合いを詰めた。
「受け継いできた意志を自分で破壊する覚悟が――」
璃鈴の口から出たオルタナへの返答は、眼前に迫る岩塊によって遮られる。負傷している身体が反応速度に追い付かず――それでも既の所で回避するが、傍らを通過する岩塊が左腕を不自然な方向へへし曲げた。
「――自分ひとりの命すら背負えないあんたとは、覚悟の重みが違う!」
左腕から全身へ拡散しようとする激痛など、まるで意に介さない怒号が璃鈴の口から放たれると――同時に、彼女の右手が傍らを通過した岩人形の身体に触れ、五指が岩に五つの穴を穿った。
もう片方の腕を振り上げた岩人形の動きが停止する。四肢の間接部分から砂が流れ出、振り上げられていた腕が根本からへし折れ――落下する。それを皮切りに、胴体から穴の空いた水風船のように砂が噴出していき、崩れ落ちる四肢が砂の山と化し、雨水を含んで泥となっていく。
肩で深く呼吸する璃鈴は、崩壊する岩人形の胴から、砂ではない「何が」が飛び出たのを見――自分の方へ向かってくるそれが何なのか、判別するよりも先に回避すべく動こうとしたが、しかし岩人形の攻撃すら避けられなかった彼女にそれはできなかった。
「――――?」
飛来する「何か」が、鈍い音と共に璃鈴の胸部に突き刺さる。
背を貫通して、地面に突き刺り停止したそれを――璃鈴が武器として使用し、泥人形の身体に取り込まれてしまった椅子の足を、漠然とした後悔の中でただただ呆然と眺めてる事しかできなかった。