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呪術師と代替品

 体温を含む鮮血が生暖かい。おぶっている璃鈴の腹部から伝わってくるそれが清人の青いジャージを紫色に染め、ジャージの下の体操着を赤く染め、体操着の下の肌を湿らせる。その不快な感覚は階段を上る清人の表情を歪ませるが、文句など言える筈がなかった。

「教室に戻って」

 清人の耳元で、璃鈴は消え入りそうな声でそれだけ言いった。

 ――何だって俺は、自分を殺しに掛かってきた奴を助けようとしているんだ。

少女が雄弁を振るっている間に逃走を試みるのは得策だった。そのタイミングを逃せば、後にも先にも逃走する好機はなかったに違いない。どうしてだか全く動かなくなってしまった泥人形を目の当たりにしなければ、行動に移そうなどと、まず思わなかっただろう。

 ――いや、どうだろう。俺なら、もしかしたら。

 そこまで考えて、思考を一端振り払う。女の子とはいえ、決して軽くないそれを負ぶって階段を上っているのだ、逃げ出した事がいつバレるのか分からない以上、余計な思考は行動の邪魔になるだけだ。

 階段を登り切り、二階の廊下に戻る。距離にして僅か数メートル、僅か数段の階段を上っただけだというのに、清人は微かに息を切らしていた。遅かれ早かれ追われるという重圧が、心身共に負担を掛けているのかもしれない。ちらと背後を見遣り、少女が追ってこないのを確認してから教室を目指す。

 ――しかし、教室に戻ってどうなるというんだ。

 言われるままに教室を目指そうとしているが、璃鈴が最も行くべき場所は病院の筈だ。そもそも、具体的に逃げる場所を考えていた訳ではないのだが――だからといって、教室という選択肢が正解とは思えない。それとも、もう助からないと――諦めているのだろうか。

 本人に真意の程を確かめたいが、喋れるような状態でないのは明らかであり――喋ろうとするのであれば、清人はそれを止めるつもりでいた。結局は無言で足早に移動する他なく、誰も居ない教室に戻る。これからどうするつもりなのか、皆目見当がつかないが、とりあえず璃鈴の席まで戻った。

「下ろして」言われるままその場に屈むが、清人の背から降りた璃鈴は半ば崩れるように倒れ込んだ。大丈夫かと――声を掛ける清人を余所に、璃鈴は机の脇に提げている自分の鞄に手を伸ばす。

「…………?」

 そこから取り出された小さめの瓶を見、清人は眉間に皺を寄せた。ジャムを入れるのに丁度いいサイズのそれには、明らかにジャムではないものが詰まっているが――部屋が暗いせいで、それが何なのか分からない。あまりいい予感がしないという事くらいしか、分からない。

「……開けてやるよ」

 覚束ない手つきで瓶の蓋を開けようとしている璃鈴を見兼ね、半ば引ったくるようにして瓶を受け取る。大方、手当の為の薬か何かが入っているのだろうと、そう思って瓶の中身を――絶え間なく蠢いている蛆虫のような、気味の悪い黒いものを見、

「うっ……!」反射的に瓶を放り投げようとしてしまった。古今東西、こんなものを鞄に入れている人間がいるという話は、今まで聞いた事がない。

「……はやく、しなさいよ」

 開けたくない――というか、これ以上は触れていたくない。人差し指と親指で瓶の蓋を摘むようにして持っているが、しかし自分が開けると言い出してしまった以上は致し方ない。璃鈴に開けさせて――余計な力を入れて出血が酷くなるという本末転倒な事態だけは、避けなければならない。

 息をひとつ飲んでから、なるべく瓶を見ないようにして蓋を捻り――それを素早く璃鈴に手渡す。こんなものを鞄に忍ばせている意味がわからないが、それ以上に、それをどうすのか全く分からない。いや、この状況を鑑みれば、彼女がやる事には何となく予想が付くが、出来るだけ考えたくなかった。

「――――!」

 手の平の上でひっくり返される瓶を見、清人は完全に言葉を失う。山盛りの蛆虫(に似た黒い何か)が手の平で蠢いている様は、それだけで戦慄したが――あろうことか、璃鈴はそれを自身の腹部に――出血が治まらないその傷口に押し当てた。

「お前……おまっ……!」

 お前、何をしているんだ――と、そう声を上げようとしたが、胃の中がこみ上げてくる感覚に襲われて口を塞いだ。

 戦時中など、医療環境が整っていない場合に、傷の手当てに蛆虫が用いられるという話を聞いた事はあるが――しかしこれは、いくらなんでも度を超している。その上、璃鈴が使っているのは蛆虫なのかよく分からない謎の生物で――腹部に押し当てられたそれらは、まるで吸い込まれるように凄まじい勢いで傷口に侵入していき、消えてしまった。

 苦痛に表情を歪め、口から言葉にしづらい呻き声を漏らしていた璃鈴は暫しその場にうずくまっていたが、やがて机に寄り掛かりながらゆっくりと立ち上がろうとする。どういう訳か、あれほど酷かった出血は完璧に止まっていた。傷口がどうなっているのかは――見えないので想像の域を出ないが、蛆虫で塞がれている様を想像してしまうと、間違いなく吐きそうなので、清人はそれ以上は考えないようにした。それよりも、

「おい、無理するなよ……」

 慌てて自分の席の椅子を引き、璃鈴の前に置く。出血が止まった所で、流れた血は戻ってこない。状況が状況なだけに、悠長に構えている場合ではないのは分かるが、しかし今は少しでも安静にするべきである。

 その配慮を素直に受けたか、それとも単に立ち上がるのが辛かったのか、璃鈴は何も言わずに椅子に腰掛けた――というよりは、倒れ込んだと表現するべきだろう。

 予断など許される訳がないが、とりあえず一段落。そう思って嘆息をひとつ吐いた清人は、はっとして教室の入口を見遣る。ここに逃げ込む際には何も考えていなかった――考える余裕すらなかったが、教室の扉は完全に開け放たれている。机の角に身体をぶつかりながら教室前方の入口へ駆け、廊下に誰もいない事を確認してから慎重に扉を閉めた。あの少女が全ての教室を見て回りはじめたらそれまでだが、少なくとも開け放たれているよりはいい。

「で……だ。飛鳥」

 璃鈴の近くに戻るのは億劫だった為、清人は教壇の近くの机に乗る。名前を呼ばれても、彼女はうなだれたままで反応を示さない。

「ここまで巻き込まれたんだ。説明のひとつやふたつくらい……いや、それだけじゃ足りないが、とにかく俺を納得させてくれないと、困る」

「……自分から首を突っ込んでおいて、よく言うわ」

 雷雨の轟音に消え入りそうな、か細い声が返ってくる。

「返す言葉がないな」

 何もしなければ、恐らくはこのような事態には陥らなかった。だが所詮は結果論である。起こった事に対して延々と口論を交わすつもりは、清人にはない。

「あの女は、一体誰なんだ」

 無関係な筈がない。どう考えても少女は璃鈴をよく知っているような口振りだった。だが、璃鈴の返答は清人の期待を裏切る。

「知らないわよ」

「……は?」

 この期に及んでしらを切られては、いくら相手が怪我人といえど、その心中は穏やかではなくなる。自然、清人の表情に険しさが浮かび上がったが、璃鈴の態度は変わらなかった。

「あんな女なんか、知らない。私が知ってるのは……あの女を支配している、人格くらいよ」

「……言ってる意味がよく分からないな。それじゃあ、まるで、あの女は自分の意志で動いていないみたいな言い方じゃないか」

 全く面白くない冗談のつもりで言ったのだが、璃鈴は「その通りよ」と、小さく頷いた。清人の冗談に乗るような茶目っ気のある人間ではないのは考えるまでもないとしたら、返事を面倒に思って適当な言を寄越されたのか。

「あんまり余裕はないんだ。知ってるんなら、もったいぶらずにさっさと教えてくれ」

「知って、どうするつもり」

 清人の返事を待たずに、璃鈴は背後を振り向いて、自分の鞄を掴む。膝の上に乗せたそれから取り出された包帯で、彼女は自分の腹部を巻いていく。

「俺がどうにかする」

 璃鈴が微かに鼻で笑った――ような気がした。

「馬鹿ね。さっきのあれを見て……それでもどうにかするって? 勇気と蛮勇を履き違えてるわ。どう足掻いた所で、犬死にするのが関の山よ」

「死に掛けてるお前が言うと説得力があるな」

 包帯を巻き終えた璃鈴は、三度鞄に手を突っ込み――小物入れのような、小さめのケースを取り出した。更に取り出された折り畳み式のスタンドミラーを机に置き、そうしてから眼鏡を外す。まさかこれから、この状況下で、化粧でもしようというのだろうか。

 ――可愛さとは全く無縁の飛鳥璃鈴が、一体全体、何の為に? セルフ死化粧か?

 脳裏に横切る推測はどれもこれも余計で――清人はかぶりを振る。非常に気になる事項ではあるが、そんな事にかまけている場合ではない。どうにかして、あの女の情報を聞き出さなければ。

 敵を知り、己を知らば、百戦危うからず。

 孫武が後世に及ぼした影響は計り知れない。

「俺は学級委員だ」

「だから、何」

「今は学級委員だが……俺は現状に満足するつもりはない。目指しているのはもっと上だ。みんなの上――みんなに手が届く場所が、俺の最終地点だ。もっと汚い言い方をしてやろうか。俺はみんなに尊敬されたい。みんなの憧れになりたい。その為には、あんな訳の分からない女に学校を――って、聞いてるのか!?」

 何食わぬ顔でケースからあれやこれやと小物を取り出していく璃鈴を指差す。ちらと清人の方を見遣ったのも一瞬、止めていた手を再び動かしはじめた。おい、と声を上げようとした矢先、璃鈴が口を開いた。

「あんな訳の分からない女に学校を滅茶苦茶にされるのは、まっぴら御免だと?」

「……そうだよ」言葉を先取りされたのは癪だった。

「俺がどうにかする事に意義がある。お前が何も言わないというのなら、それでも構わない。あの女の狙いが飛鳥璃鈴、お前だけだというのなら、俺は被害を最小限に抑える為に、今すぐにでもお前の居場所をあいつに教えてやる。ただ……それは俺の本意ではない。

 お前もこの学校の生徒で……俺のクラスメイトなんだ。嫌な奴だからといって切り捨てる程、俺の器は小さくないんだ。救ってやるよ。いや、救わせろ」

 清人に向けていた目線を落とし、璃鈴は微かに嘆息を漏らす。耳を傾けるだけ馬鹿だったと――そう言いたげな彼女は、ケースから取り出した棒状の物のキャップを外す。化粧道具に疎い清人は、大方それはアイラインでも引く為の物だろうと推測するが、しかしキャップの下から姿を覗かせたのは、絵画で用いるような先の広い筆だった。それでアイラインを引こうものなら、パンダになりかねない。

「いいわよ」

 行動を静観していた清人に対し、璃鈴は筆を持つ手を止めてから口を開く。

「え?」

「そこまで知りたいのなら、いくらでも教えてあげるわよ。あんたが犬死にしようが無駄死にしようが、私の知ったことじゃないし、準備している間にぎゃあぎゃあ騒がれても、困るだけだから」

 言いながら、璃鈴はケースから円形の小物を取り出し、蓋を外す。その中に入っている液状のようなものに筆を付けると、粘度の高いそれを頬に付け――耳の方へ向かって、焦げ茶色の太い線を引いた。それがメイクなのだとしたら、斬新すぎる。

「オルタナと、あいつは名乗ってた」

 二本目の線を、今度は反対側の頬に引いていく。そのペイントが何を意味しているのか気に掛かって仕方がないが、今は触れてはいけない。

「あの女が?」

「さっきも言ったでしょう。あんな女なんか、知らない」

 残留思念よ――と、璃鈴は呟くように言う。

「物心ついた時から私は――私の家系は、あいつに狙われてたわ。肉体を伴わないあいつは人から人へ乗り移り、宿主の生命が尽きるまで私を追い続ける。母も、父も、兄も、妹も、みんな喰われたわ」

「喰われた……って」

「言葉の通りよ」最初に引いた線の上から、今度はこめかみの方に向かって線を引いていく。「五体を引きちぎり、皮を剥いで、肉を断ち、贓物を引きずり出し、骨の髄までしゃぶり尽くす。最後に残った絞りカスみたいなそれを抱きしめて、私は逃げ続けた」

「……何の、為に」

 想像したくなくとも強制的に浮かび上がってしまうビジョンが、治まり掛けた吐き気を再び催そうとする。口元を手で押さえながら――思考を早く切り替えたいが為に、清人は先を促す。

「魔力を貪りたいだけの獣よ、あいつは」

 魔力。その言葉を、ついさっきも聞いた覚えがある。そう、あの女――璃鈴が言う「オルタナ」も、そのワードを口にしていた。清人には、魔術師になる素質がある、云々。

 オルタナと、璃鈴の言葉から察するに、璃鈴もその魔力というものを有しているのだろう。魔法的なエネルギーの事を示しているのかは分からないが、つまり、

「お前は……魔術師とか、魔法使いとか、そういう類のやつなのか」

 そう推測するには充分たる証拠がある。昼間に幾度となく見掛けた気味の悪い人形然り、先のネクタイが鞭に変形する現象然り。璃鈴が普通の人間でない事に、疑いはない。魔法には見えなかったが。

 だが、璃鈴は筆を動かす手を止め――ゆるゆるとかぶりを振る。

「呪術師、よ」

「じゅ、じゅじゅちゅし」

 重要な局面で、噛んだ。

 射るような璃鈴の剣幕が清人に突き刺さる。決して、意図して噛んだ訳ではない。滅多に聞かなければ、全く口にもせず、そもそも発音しづらい言葉だが――その小馬鹿にしたような響きは、反感を買って当然かもしれない。

 しかし、呪術師という素性を聞かされても、ピンとこないのが正直な所だった。呪いの術と書くのだから、理科準備室で清人に仕掛けられたのは、呪いの藁人形のそれに近いものだと分かるが――それくらいである。ネクタイと呪いを結び付けて考えるのは、無理がある。

 釈然としない表情を浮かべる清人を見、反対側の頬にも同様に斜線を引きながら璃鈴は口を開く。

「呪いで相手を殺すとか、それくらいしか思い浮かばないでしょうね」

「すまんが、勉強不足でな」

「相手を呪いで殺すというのは、確かにあるけど――あんたにやった事だけど、それは呪術のひとつのカテゴリに過ぎないわ。

 雨乞いを始めとする天候の操作から、病の発に治癒、傷の悪化に傷の治療なんかは基本で……。霊的な力を憑依させるのも呪術。誓約の代償として能力を得たり、物体に潜在している力を引き出したり、潜在している力を身体に取り込むのも、呪術よ。

 先祖から代々受け継がれ続けて、父と母から受け継いだこの術を……私は、それらに独自のアレンジを加えて――現代呪術と、そう称してるわ」

 淡々とした調子で言葉を紡ぎながら、今度は頬から耳の下の方へ向かって斜線が引かれる。左右対称に六本の太い線が引かれると、璃鈴に猫の髭が生えたような、間の抜けたフェイスペイントが完成した。このような状況でなければ間違いなく笑っていただろうが、呪術の――現代呪術とやらの何たるかを聞いた今なら、恐らくは呪術の一種なのだろうと、察する事ができる。

「……意外とまあ、何でもありなんだな。呪いって」

 様々な言葉が思い浮かぶ中で、清人が感想として取捨選択されたのは無難なものだった。

 一度聞いただけで全てを飲み込むのは困難を極める。そもそも、呪術という言葉に反して、呪いとは関係のない内容が多すぎる。治療や治癒など、まるで正反対だ。

「呪術の呪は……まじない、よ。呪うだけが芸じゃないわ」

 なるほど、まじないね――と、清人は得心する。漢字で表記すれば「呪い」となるそれは、確かに使いようによっては人を救う力になり得る。「呪」というその一文字だけで、どうしてもマイナスなイメージを連想してしまう。

「ま、あんたにどれだけ噛み砕いて説明した所で、私の徒労に終わるだけだから、これ以上は話したくないわ。重要なのは、私の素性なんかじゃない」

「そんだけ教えてもらえれば、充分だ」

 その割には、随分と色々な事を喋った気がしないでもないが。お陰で、図らずとも璃鈴の素性についてある程度の話を聞けたのだから、清人にとっては御の字である。

「……という事は、オルタナって奴も、呪術、師、なのか」

 不自然なまでにゆっくり発音する事で、辛うじて噛むのを回避できたが――それでも彼女のお気に召さなかったらしい。鋭い剣幕が再び襲い掛かる。こればっかりは、何度か練習しないと正確に発音できそうにない。

「さあね」フェイスペイントは終わったものだと思っていたのだが、璃鈴の筆は止まらなかった。鼻の頭から、鼻筋に沿って眉間まで太い線が引かれる。猫の髭のペイントだけなら、辛うじて可愛げがあったというのに、いよいよもって完全に間抜けだ。

「古今東西、大なり小なり魔力を有している人間を無差別に襲っているのだから、知識として呪術の法を知っていてもおかしくないかもね」

「あの馬鹿デカい泥人形は?」

 璃鈴はかぶりを振る。どうやら、今度こそフェイスペイントは終了したようで、筆や鏡などを片付けだした。

「呪術でないのは確かね。私も呪術以外の知識は殆どないし……呪術の底を知っている訳じゃあないから、断言はできないけど」

 清人に背を向け、璃鈴はケースをしまうのと入れ替わりに、鞄から包帯のような物を二束取り出した。まだ出血が止まらないのだろうかと思ったが、腹部に巻かれてある包帯に血が滲んでいる様子は見受けられず、かといって他に負傷している箇所もない。

「それじゃあつまり、オルタナに関する情報は殆どないも同然じゃないか。そんなんで、あいつを倒せるのか? いや、残留思念だっていうのなら、乗っ取られている身体を傷付けずに……オルタナだけを倒す方法なんて、あるのか?」

「ないわ」

 璃鈴の即答は、清人の思考を束の間停止させる。

 ――ない、と申したか?

「残留思念だけを消滅させる方法なんて、ないわ。空気中の二酸化炭素を握り潰そうとしているようなものよ。それ自体は実体を伴わないのだから、手の打ちようがあって?」

 ご丁寧に分かりやすく説明しなおしてくれた璃鈴は――事態の深刻さとは裏腹に、全く動じている様子がない。どころか、至極落ち着き払った手つきで、取り出した包帯を手首から手のひらに掛けて巻いていく。オルタナを何度も相手取っているのだとしたら、それは当然の言動だともいえるが、しかし清人は気が気でない。

 璃鈴が巻いているそれは、よくよく見てみると、どうやら包帯ではなく――何かの動物の皮のように見受けられたが、それを気にしている場合ではなかった。

「じゃあ……それじゃあ、どうしろっていうんだ。というか、お前はどうするつもりなんだ」

「宿主を再起不能にする。肉体が使い物にならなければ、あいつは次の宿主を探さざるを得ないだろうから、その隙に私は逃げるわ」

「再起不能、って」

「無理なら、殺すわ」

 両腕に何かを巻き終えると、これから何かの格闘技にでも挑むかのような格好が出来上がる。ただし、それは腕だけを見た場合で、全体を見てしまうと変質者もいいところだ。

 その変質者――呪術師であるところの璃鈴は、「殺す」という言葉を口にした。額面通りに受け取るのであれば、間違いなく相手の命を奪おうと、犯罪を犯そうと考えており、そこには一切の躊躇いがない。

 彼女が負傷し、教室に逃げ込んでからは普通に会話を交わしていたが為に――完全に失念していた。原因は不明のまま未遂に終わっているが、飛鳥璃鈴は清人を殺そうとしていた。それも、私の為に死んでほしいという――あまりにも身勝手極まる理由で、だ。そのような残虐性を持ち合わせている人間を、自分の物差しで測れる訳がない。

 言葉を失っている清人に対し、璃鈴は小馬鹿にしたような調子で微かに鼻を鳴らした。

「仮にこのまま時間を稼いだ所で――どの道、あの宿主は死ぬわ。あいつにとって、宿主は自分が活動する為の、使い捨ての媒介以外の何者でもない。あんたも見たでしょう? 宿主の身体がどんなに傷付こうが、あいつは全く痛みを伴わない。使うだけ使って、使い物にならなくなったら捨てるだけよ」

 時間にして十数分前。オルタナが泥人形を引き連れて二人に姿を現した際――どうしてだか、手首から大量に出血していた。少しでも危機感を抱いていれば、決して放置できるような傷ではないのは明らかであり、宿主を道具として扱っている証拠となる。

 今ままでに何人の人間が犠牲になったのかと思うと――ぞっとしない。

「どれだけ相手をしようと――どれだけ宿主を始末しようと、あいつは憑依する先を代えるだけ。だから私は相手にするのを避けてきたわ。あいつから逃げ回りながら、あいつが近寄れないように結界を張ってきた。後は単純な知恵比べよ。結界を突破されたら、次の逃げ場所を探す」

「じゃあ……この学校に転校してきたのは、オルタナから逃げる為、か」

 ――飛鳥さんは小学生の頃から頻繁に転校を繰り返しているそうですよ。家庭の事情なのかと思いましたけど、あの人は行く先々で何らかのトラブルを巻き起こしているという、黒い噂があるとか、ないとか。

 屋代真琴の話が思い起こされる。小学生の頃から、璃鈴はオルタナから逃げ続けていたのだろうか。逃走を強いられる人生とは、一体どういうものなのか。

「だけど、転校初日で台無しにされたのは初めてよ」

 言いながら、自分の首元に手を当てる。そこにあった首飾りは、今はない。

「この学校内において、他の人間と接触しないという制約で結界を結んだわ。その上で他人が近付けなくするという二重の結界を結んだのに、それなのにあんたは……」

 その後に続く言葉は、深い溜め息となって消えた。制約とは一体全体どういう事なのか説明してほしかったが、そうした所で意味がないと、悟ったのかもしれなかった。

「……俺が階段で、お前を助けたからか」

 璃鈴が激昂したのは――明らかに状況がおかしくなったのは、階段で転倒した彼女を助けてからだった。他の人間と接触しない制約が、詰まるところ他の人間と接触すると結界とやらが消えてしまうという意味だとしたら、全ての元凶は清人という事になってしまう。

 だが、あの場面で――女の子が階段から転がり落ちようとしている場面で、助けずに見て見ぬ振りを決め込む事が、どうしてできようか?

「あんたは私にどうするつもりなのかと、そう聞いたわね。なら、あんたはどうするつもりだったの」

「どう、って……」

 視線をさまよわせながら、清人は返答に言葉を詰まらせる。彼女は鞄から別の首飾りらしき物を取り出して、首に掛けた。元々身に付けていた物と同様に、何か牙のような物が数珠繋ぎになっている。

「どうにかする、ね。言うだけなら簡単だけど、格好よくもなんともないわ。もう充分に分かったでしょう? あんたがいた所で、何の役にも立たないわ」

 璃鈴の言葉を否定しようとして口を開き掛けた矢先、

「そんな事はない!」

 割って入ってきた別の声は――奇しくも清人が言おうとしていたのと全く同じ言葉は、教室の扉の向こうから飛んできた。はっとなって二人が立ち上がるよりも早く開け放たれた扉の先にいたのは、考えるまでもない。話題の人、オルタナだった。

「そんな事はない」もう一度、今度は押さえ目の声量で同じ言を繰り返しながら、オルタナは教室の中へ一歩踏み出す。不敵な笑みを浮かべている彼女の気味の悪さに気圧され、清人は無意識に後退してしまう。

「どうやら璃鈴は気が付いていないらしい。僕の言葉を忘れたかい? それとも、端から聞いてなかったか……」

 ちらと璃鈴の様子を見遣り、息を飲む。オルタナに向けている目は、清人に向けていたそれとは比にならない険しさを帯びている。ともすればその剣幕だけで刺し殺せそうな表情は、家族の仇を目の前にしているからこそ浮かべられるものなのか。恐ろしくて、直視するのも憚られる――が、

 璃鈴よりも更に恐ろしいのは、明らかに殺意を向けられていても涼しい表情を崩さないオルタナである事に疑いはない。彼か――それとも彼女が、一人で璃鈴の家族を皆殺しにしているのだとしたら。殺された家族が璃鈴と同様に呪術師だとしたら、それだけで実力の程が伺える。

 しかし、オルタナの言葉の意味する所が分からない。僕の言葉を忘れたとは言うが、果たして何か言っていただろうか。記憶を思い返す清人を大仰に指で差し示し、オルタナは言葉を紡ぐ。

「君には魔術師としての資質があると言ったのを――忘れたかい?」

 そんな事を、言っていた――気がする。

 ――だけど、どういう意味だ。

「自覚していないのは罪だ。まあ、潜在している能力に気付くという方に無理があるというもの。罪はあれど、罰は下ら――」

 言い終わらない内に、清人の視界に何かが映り込み――その「何か」は、何であるかを認識するよりも早く、オルタナの左肩に突き刺さった。それは一見すると、先刻まで璃鈴がフェイスペイントの道具として使用していた筆に見えるが、しかし矢のように長くはなかった。ましてや、筆の持ち手の先端は、人体に刺さるような危険な形状をしてはいない。しかしそれを放ったのは間違いなく璃鈴である以上、どこからか出したのだろう。

 オルタナは僅かによろめいたが――それだけで、表情には微塵も変化が見受けられなかった。宿主の身体が受けるダメージは、オルタナには全く伝わらない。宿主の肉体が朽ちると分かれば、別の人間に鞍替えするだけ。

 暖簾に腕押し。糠に釘。立て板に水。余りにも性質が悪すぎる。璃鈴が相手をしたくないのも、もっともだろう。

「相変わらず気が短い」先端が矢のように尖っている筆を引き抜きながら、オルタナは呆れた調子で言う。傷口から鮮血か滴っているが、まるで意に介する様子もない。

「急がなくても、ちゃんと君の相手をしてあげるよ。それよりも」血が付いている矢先を清人に向ける。「君だ」

 ふん、と璃鈴が鼻を鳴らし――オルタナの方へ一歩踏み出す。そのまま何か仕掛けるのかと思ったが、彼女は口を開いただけだった。

「潜在能力ですって? 仮にこいつに、あんたが求めている魔力があったとして――それでどうするつもり? それとも、こいつを差し出せば見逃してくれるとでも言うのかしら」

 何を馬鹿な――と、清人が声を荒げるよりも早く、オルタナはかぶりを振る。

「いんや。僕が欲しいのは璃鈴、君だけだ」

「気持ち悪い」という璃鈴の言葉には、概ね賛成する。

「だから君……僕の目標を達成する為に、協力するつもりはないかい?」

「何を……」

 突拍子がないにも程がある。どうなったら、オルタナが協力を求めようとするのか。それが理解できない清人は唖然とする他なかった。

「君の力が必要、という訳ではない。たとえ璃鈴が二人いても――三人いても、僕が本気を出せば相手にはならない。実力の差は問題じゃないんだ。危惧すべきは、ここが学校という場所である事。君にとって大切な学び舎は、しかし璃鈴にとっては単なる避難場所だ。役に立たなくなったと判断した以上、ここがどうなろうと彼女には何の関係もない。……学校を破壊する事だって、他の生徒を巻き込む事だって躊躇わない。僕から逃げる為に、今までに何回そうしてきたかな?」

 それは本当なのかと――清人は疑いの目を璃鈴に向けるが、彼女は面白くなさそうに眉間に縦皺を刻んでいるのみで、何も答えない。せめて否定してくれという願いは一向に届く気配がなく、無言の肯定を突き付けられる。

「本当にこの学校の為を思うのであれば、君にとって本当の敵は璃鈴だ。今にも君を盾にして、逃げ出すかもしれない。僕は自分の行いを正当化するつもりなんてさらさらないけどね、でも、どっちが君とっての正義で、どっちが君のとっての悪か。それは難しい問題ではないと思うよ」

 オルタナの狙いはあくまでも璃鈴であり、この学校は興味の対象ではない。可能な限り事を穏便に済ませるのであれば、清人はオルタナの邪魔をするべきではない。

 数拍の沈黙が教室を漂う。雷雨は弱まる所を知らず、稲光が暗闇に包まれつつある教室を照らす。笑みを絶やさないオルタナと、笑みが浮かぶ余地のない璃鈴の表情を交互に見――清人は意を決したように息をひとつ飲んでから、オルタナの方へ一歩踏み出した。

「……そうだな。飛鳥がこの学校をどうとも思っていないのは、今日一日でよく分かった。俺だって、飛鳥の身勝手な理由で殺されそうになったんだ。そうまでされて、味方でいる理由なんて、ないよな」

「なっ――」豪雨に掻き消えそうなくらいに小さい驚嘆が璃鈴の口から漏れ出る。先刻とまるで逆の事を言ったのだ、無理もないだろう。

 清人の意志は最初から一貫して変わらない。璃鈴がこの学校の生徒であり、オルタナが璃鈴の命を脅かす存在である以上は、清人の意志は変わらない。

 しかし――どうすればいいのか分からなかった。オルタナが璃鈴を殺しに掛かっているからといって、オルタナが何の関係もない人間に取り付いている以上は、殺していい理由にはならない。そもそも、殺す意味がない。どうにかして、残留思念だけを消滅させる方法を探らなければならない。そんな方法はない、と璃鈴は断言していたが、その方法を見出さなければ勝機がない。

 付け入る隙が欲しかった。幸いな事に、アルカナは清人を敵視していない――どころか、気に入っている節すらある。味方をすると言えば、拒みはしないだろう。

 その目論見通り、清人の言葉を受けたオルタナは、浮かべている笑みを更に大きなものにした。だが――その代償として、璃鈴の機嫌を大きく損ねてしまったのは間違いない。恐る恐る彼女の方を見、清人に対する怒りを孕んだ視線を真っ向に受けて視線を反らす。

 咄嗟に思い浮かんだ事だ。事前に打ち合わせができてさえいればと――考えた所で仕方がなく、アイコンタクトだけで意思の疎通ができる程に互いの事を分かり合っていない。もしかしたら、完全に敵視されている危険すらある。下手をすれば、殺されてもおかしくない。

 ――俺には、魔術師としての素質があると言っていた。

 オルタナの言葉を思い返す。この言葉が嘘でなければ、清人も璃鈴やオルタナと同じ様な力を得られるかもしれない。学校に迫ってきている驚異に対して、全くの無力なのが許せなかった。

「教えてくれ、オルタナ。俺は……お前みたいになれるのか」

「そいつから離れなさい!」

 オルタナの返答を遮るように、璃鈴の怒声が割って入る。ちらと彼女の方を見遣り――槍のように長大化しているペンを振りかぶっている姿に、ぎょっとして目を見開いた。

「大丈夫。君が気にする事じゃあない」

「へ――」オルタナの言葉がよく聞き取れなかった清人は、間の抜けた声を上げながら声の主の方を振り向いて――、

 視界が暗転した。

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