ピリオドは打たれない
所詮は女の子の平手打ちである。弾けるような音が廊下に鳴り響いただけで、大した痛みはなかった。しかし、女の子に殴られるというのは――あまつさえ、その理由が分からないとなれば、受ける心的ショックは相当に大きかった。怒りを孕んだ璃鈴の視線を受け、清人は呆然とそれを見上げる他にない。
数拍の沈黙が続いた後、説明を求めようとして清人が口を開き掛けたが、その矢先に璃鈴はすっくと立ち上がった。制服に付いている砂を両手で払い出したが、それらは倒れている清人に全て降り注がれてしまう。
「一体、何だっていうんだ。殴るんだったら、殴るだけの理由を説明しろ。いんや、その前に俺を殺そうとした理由を説明しろ」
慌てて起き上がりながら、清人は璃鈴を指差す。鼻先に向けられたそれを、彼女は羽虫のように払い除けた。首飾りの紐を引きちぎり、牙が全てなくなったそれを清人の鼻先に突きつける。
「こういう事態に陥らない為に、前以てあんたを始末する必要があったのよ。お陰でこの様。トーテムとの制約は破綻して、この学校に張り巡らせておいた結界は破壊されたわ」
「……説明になってない!」
どころか、ますます話が見えてこなくなった。聞き慣れない言葉が出てきた上に、それらに対する補足が全くない。清人の語気が荒くなるのも無理はなかったが、璃鈴に説明する気はさらさらないようだった。
「大体……大体、よ。どうしてあんたは私に干渉できるの? 本来なら誰も――私が許可しない限りは、誰も干渉できないのに……近付く気すら起きない筈なのに。私の術は完璧なのに、どうしてあんたは……」
「術って……?」
眉根を寄せる清人に覚えがあるとすれば、璃鈴が所有していた気味の悪い人形くらいである。あれがただの人形でない事は、屋上での一件や理科準備室での一件で、嫌という程に思い知っている。もしも、清人を殺そうとした力が璃鈴の呪いだとしたら――それが彼女の言う「術」だとしたら、
「お前は一体、この学校で何をするつもりなんだ」
他に誰もいない廊下である。その言葉は明らかに璃鈴の耳に届いていた筈だが、しかし彼女は無視して背中を向けてしまった。
「……まあ、こうなってしまった以上、どうでもいいわ」
「俺はよくないんだが?」
「別にあんたがどうなろうと知った事じゃないけど、一応忠告だけはしておくわ」言いながら、璃鈴は肩越しに清人の方を振り返る。「命が惜しかったら、今すぐこの学校から立ち去りなさい。尤も、もう――」
耳を つんざかんばかりの女の子の悲鳴が階下から響き、それに追従して何かが衝突したような、そんな轟音が璃鈴の言葉を完全に遮断する。同時に足元が微かに揺れたのは、轟音を発したそれが相当の質量を伴っているからで――少なくとも、図体がでかい生徒などといった次元ではないのは明らかだった。
「――もう、遅いみたいね」
「な、何が」
下で何が起こっているのか。璃鈴はそれを知っている。悲鳴が聞こえる辺り、決して穏やかな状況ではないだろう。命が惜しかったら逃げろという忠告に嘘はないと信じていいのかもしれない――が、彼女は何の迷いもなしに、今度は徒歩で階段を降りていく。恐らくは、自分で全て対処するつもりなのだろう。
「……どういうつもりよ」
後を追おうとして歩を進める清人に対し、璃鈴の剣幕が鋭さを増す。
「どういうつもり? 何が?」
「何が、じゃないわよ。私の忠告が聞こえなかったの? 怖いもの見たさで下に行こうなら、無駄死にするだけよ。別にあんたが勝手に巻き込まれようが、勝手に殺されようが知った事じゃあないけど、私の邪魔をされるのは不本意なのよ」
「お前の言葉に間違いがないのなら、今この学校によからぬ事態が起こっているんだろう? しかもその原因の一端が俺にあるときている。だったら俺は委員長として……早急に原因の解明と問題の解決に当たらないとな。大切なクラスメイトの為だ、ちょっとやそっとじゃ動じねえ」
どうあっても璃鈴に詳細を説明する気がないというのなら、自ら動く他ない。それは義務でもなければ使命でもなく、責任でもない。正義感などまるでない。ただ単純に――もっと単純に、自分の為にそうしたいと思っているだけである。
株を上げられる好機があるのなら、それを逃す手はない。「だから……!」という璃鈴の制止を無視して階段を掛け降りた清人は、踊り場から廊下の一階を見――表情を引き吊らせた。璃鈴を相手に息巻いていたにも関わらず、一階を目指していた足はそれ以上の前進を許さなかった。
「なんだ……ありゃあ……」
何者かは分からないが、とにかく部外者が来ているだろうという、その読みは間違っていなかった――どうしてかずぶ濡れになっている女の子が、階下からこちらを見上げていた――が、人間ではない「何か」もいるとは思いもしなかった。
廊下を塞ぎかねない巨体を誇るその「何か」を、校舎に流れ込んできた土砂だと勘違いした。この学校の近辺の土地では土砂災害など起きようもない事くらいは承知していたが、それは泥以外の何物でもなかった。
――人を象った巨大な泥の塊が、こちらを見上げている……の、だろうか。二つの青い光は、目と判断していいのだろうか。それ以前に、こいつは何なんだ? 生き物なのか?
薄闇の中で徐々に鮮明になるシルエットは清人に正確な情報を与えるが、分かった所で更に分からない事が増えただけである。更に分からないのは、
「……二度ある事は三度あるとは、よく言ったもんだな。何だってお前が、ここにいるんだよ」
問いかけではない。泥の塊の傍らにいる、ずぶ濡れの少女は――顔をちゃんと見るのは今回が初めてだが、その背格好に見間違えはなかった。今朝がたに曲がり角で衝突し――休み時間に屋上にいたのを監視していた少女が、どうしてかこの学校にいる。
どうしてか――などという言葉は余計だろう。こうして三回も姿を見せているのだ。清人が目的なのは火を見るより明らかである。しかし、清人の何が目的なのか。本当にストーカーなのだとしたら、いよいよ本格的に動き出したのか。
「ああ、よかった」
階上にいる清人の姿を認め、少女は口を開いた。うっすらと笑みを浮かべているその表情は、微かに苦しそうに見える。よくよく見てみると、彼女は手首に怪我を負っているようで――結構な量の鮮血が手を赤く染め、滴る血が床に赤い点を打っていく。保健室に連れていった方がいいのでは、いや、救急車を呼ぶレベルだろう――等と、清人が場違いな事を考える程度には、深刻な状態といえた。
だが、少女はまるで意に介した様子を見せずに、当惑する清人を見上げながら続ける。
「もう会えないかと思ってたんだよ。まあ、会えなかったら会えなかったで構わなかったんだけど、こうして会えたからにはきちんとお礼を言っておこうと思って」
「……お礼?」
一日一善、とまではいかないが、清人は積極的に善行を積むようにしている。もしかしたら、どこかで彼女を助けたのだろうかと思ったが――どんなに記憶を掘り起こしても思い当たる節がない。少しでも関わっているのであれば、何となく顔は覚えるものだが、彼女に関しては全くない。
「そう、君のお陰で――」言い掛けた少女は、貧血を起こしているのか、不意に足元をふらつかせ――階段手前の壁にもたれ掛かる。声を掛けようと思ったが、スカートのポケットから取り出された折り畳み式のナイフが清人の口を閉ざす。
今しがた自分が凭れていた壁に刃を立てると、少女はそこに傷でも付けるように短い線を刻み始めた。矢継ぎ早に刻まれていくそれは何かの文字のように見受けられたが、少なくも清人は初めて見るもので――当然、何を意味しているのか全く分からなかった。なので、その様子を傍観する他になかったのだが、
「ちょっと、何を呆けてるのよ!」と、璃鈴が慌てたように清人の前に出るが、どうも手遅れらしかった。血の付いた少女の手が壁に刻まれた文字に触れた――瞬間、文字が微かに発光し、その光は少女の身体を頭からつま先まで包み込む。目がおかしくなったのだろうかと、そう思って清人が目を擦った時には、既に光は消えていた。
何が起こったのか。目を瞬いた清人が少女の変化に気付くまでに、一拍の間を要した。今にも失血死しそうだった夥しい量の出血が止まっている。それだけに留まらず、びしょ濡れとなっていた服や髪などが乾いており、心なしか顔色がよくなっているように窺えた。
ふぅ――と、ひとつ息を吐いてから、少女は再び清人を見上げる。
「どうにも、痛みを伴わないと危機感というものを覚えないね。で……どこまで話したっけ。そうそう、お礼を言いたかったんだ。君のお陰で、僕はこの学校に入る事ができたから」
「……はぁ」
そこまで言われても、全く心当たりがない。しかも、一人称が「僕」ときている。一般的に男が使用されるそれを女の子が使うのは――マンガやアニメなら珍しくもないが、現実でやられると非常に痛々しい。怪訝な表情を浮かべて首を捻る清人を余所に、少女は璃鈴に視線を向ける。
「久しぶり、だね。毎回毎回、捜すのに苦労するんだよね。君は潜伏場所を学校しか選ばないから、そういった意味では特定しやすいんだけどさ」
嬉しそうな笑みを浮かべる少女とは対照的に、璃鈴の表情は見る見る内に険しさを増していく。その様子と、少女の言葉から察するに、どうやら用があるのは清人ではなく――璃鈴らしい。
「おい……何なんだ、あいつは。知ってるのか?」
訊くまでもない質問を無視し、璃鈴はネクタイに手を掛ける。乱暴に解かれるそれを見、こんな所で何を脱ぎだすのかと――清人の心臓が跳ね上がったが、どうやらネクタイを解いただけに終わったらしい。
無駄に安堵しかけた矢先、清人はぎょっとして目を見張った。ただでさえ目を疑いたくなる光景が広がっているというのに、璃鈴が手に持っている赤いネクタイが不意に――熱された水のように、気泡らしきものがボコボコと浮き立ち、伸縮と膨張を繰り返しながら細長い紐状の物に変形していく。変化が無くなったそれは、対象を打つ為の道具――まさに鞭そのものだった。
「何だお前……そりゃあ、何の手品だ……?」
またしても清人の問いを無視し、璃鈴はネクタイだった鞭を振るう。それが床を勢いよく打つと、思わず目を閉じたくなるような音が廊下に響いた。ヒュー、と、少女が口笛を吹く。
「いきなり臨戦態勢って訳かい。まあ、僕も散々しびれを切らしていて……暴れたくて仕方がなかったんだけどね。でも、今はやめておいた方がいいよ? 僕としては構わないけど、君にとっては面白くなくなるかもしれない」
璃鈴の鞭が、再び床を打つ。
「御託はいいわ。最初から面白くもなんともないわよ。そっちから来ないのなら、こっちから仕掛ける」
かぶりを振ってから、少女は傍らの泥人形を見上げる。
「折角だから、僕から仕掛けさせてもらおうか……ええと? そういえば、まだお前に名前を付けてなかったな。しかし、如何せん僕にはネーミングセンスというものがないからなあ……。あ、じゃあそこの君」
少女が指で指し示した対象が清人だったと――本人が気付くのに、一拍の間を要した。
「俺?」
「そう、君。せっかくだから、こいつの――」言いながら、少女は隣の泥人形に触れようとしたらしいが、その手は既の所で止まり――降ろされた。その人形が泥で構成されているのであれば、触れれば手が汚れるのは免れられないだろう。
「――こいつの、名付け親になってみない? せっかくこの世に誕生したんだから、名前がないのは可哀想だろう」
なってみないかと言われても。可哀想だろうと言われても、困るのが正直な所で――そしてその返答が清人の口から出てくる事はなかった。そっちから来ないのなら、こっちから仕掛けるという言葉通りに、璃鈴は階段を降りながら鞭を降り上げた。空を裂くそれは、しかし少女を打つ直前で動きだした泥人形の手が壁となって塞がれる。乾燥していない泥が幾分か飛散し、泥を投げたような汚れが壁や階段を侵食した。
「容赦ないな、飛鳥璃鈴!」
後退しながら、少女は哄笑する。泥人形が前衛に回ると、後に残るのは笑い声のみで、少女の姿は巨体に隠れて見えなくなった。
「威勢がいいのは悪くない。そうでなければ僕が追い求めている意味がない。だけど璃鈴」
「名前を気安く呼ぶな!」
泥の壁に向かって怒声を張り上げながら振るわれた鞭が、無防備の泥人形を打つ。だが――先程もそうだったが、鞭の一撃がどんなに重くとも、それは泥を僅かに弾き飛ばすだけで、全くといっていいほど手応えがない。同じ事を何十か、それとも何百か繰り返せば、あるいは泥人形を無力化できるかもしれないが、現状では暖簾に腕押し、糠に釘、である。
もしくは、泥人形に痛覚があるのなら、まだ話は変わってくるのだろうが――一撃を受けても微動だにせず、腕を振り上げてくるそれを見るに、期待はできなかった。
「あぶない!」と、清人が声を荒げる前に、璃鈴は後方へ跳び退いた。空振った人形の拳が階段を殴り、衝撃で飛散した泥が自分の足に付着したのを見、璃鈴は舌打ちする。
「冷静沈着に振る舞っているようで、自分に都合の悪い展開になると途端に豹変する。典型的な小物のパターンだ」
泥の壁の向こうから聞こえてくる声に対する返事として、璃鈴の鞭が床を打つ。それは肯定なのか、それとも否定なのか。
「だけど、り――おっと、名前は呼んでほしくなかったか。君は、今ひとりではないという事を忘れてはいけない」
璃鈴は肩越しにちらと清人を見遣り、すぐに前方へ視線を戻す。敵対している筈などないというのに、こちらに向けられる彼女の目は僅かばかり血走っており――清人は背筋に悪寒が走るのを実感とした。
「こいつが私の弱点になると思っているのなら、それはとんだ勘違いね。今この場で八つ裂きにしてやっても、構わないわ」
「おい」
半ば反射的に声を上げてしまったが、よくよく考えてみれば、璃鈴は清人を本気で殺そうとしているのだ。彼女の言葉に嘘はないのだろう――とは、あまり思いたくないが。
「随分と酷い事を言う。彼からとっておきの贈り物があるというのに」
「――は?」
何を言っているのか全く理解できない――できる筈がなかった。見に覚えのない事を把握している人間がいるとすれば、それは人知を超越した能力を持つ証明で――凡人たる清人は、少女が指を鳴らしたと思われる音を耳にしても、それが何を意味しているのか、皆目見当も付かなかった。
「う――!?」
後頭部で何かが動いているような感覚を覚え、清人は戦慄と共に呻き声を漏らす。頭に何か付いているのかと、手を上げた――瞬間、自分の頭から「何か」が飛び出ていくのを見、目で追うのが困難な速度のそれは、気が付いた時には璃鈴の横腹を貫いていた。そうしてもなお勢いの死なない「何か」は、泥人形の胸部を貫通して、視界から姿を消す。
「――――?」
鮮血を滴らせながら、璃鈴は声もなく倒れそうになる。下手をせずともそれは致命傷になり得るが、彼女は壁に手を付きながら腰を落とし、膝で立つことでどうにか倒れずに済んだ。肩越しに清人を見遣る目には、強い困惑の色が浮かんでいる。
――そんな目で、俺を見るな。
自分は何もやってない。思考がもつれて口から出てこない言葉の代わりとして首を横に振るが、果たして璃鈴に微塵でも伝わったのか分からない。目尻をひくつかせながら――何か言いたそうに口を開き掛けたが、璃鈴は無言で前方に視線を戻す。
はっとなって、清人は璃鈴の視線を追う。璃鈴と泥人形、両者のパワーバランスは均衡を保っていたように見えていたが、この深手を追っている現状では――例え相手が子供であっても、勝機はない。このままでは、璃鈴は確実に殺される。殺されなくとも、死ぬ。
「僕はパラサイトと名付けている。といっても、虫ではないんだけどね」
泥の壁の向こうから聞こえる言葉の意味する所が分からない。
「璃鈴。君が張り巡らす結界に僕は侵入するが出来ない。僕が侵入できなければ、僕の創作物も侵入出来ない。それで毎回手を焼いている訳だったんだけど、画期的な方法を閃いたんだ」
「…………」
呼気を荒くするのみで、璃鈴は何も答えない。その状態を知ってか知らずか、少女の雄弁は続く。
「ある程度の魔力を有する全ての者を遮断する君の結界の盲点は、微少な魔力であれば通り抜けられる所にある筈だと。そうでなければ、僅かにでも魔力を有している人間がいる可能性がある以上、誰もこの学校に入れなくなるからね。尤も、君はそれでもよかったのかもしれないけど。
その為の、パラサイトだった。僕が創ったパラサイトの卵を、学校の生徒に手当たり次第に付けていくだけで準備は完了。まあ、あれは手当たりというよりは、頭当たりだった訳だが……。少年、君には心当たりがあるだろう」
「……まさか、今朝方の」
どう見ても同年代の女の子に少年呼ばわりされるのはあまりいい気がしなかったが、少女の言葉に違いはなかった。曲がり角での衝突事故――清人の他にも、多くの生徒が同一人物と思われる女の子とぶつかったという不可解な現象は、璃鈴に接近する為の布石だった、とでも言うのか。
「ご明察。相手に魔力がほんの僅かでもあれば、パラサイトはそれを吸い上げて少しずつ成長する。少年はまさに当たりだった――つまり、君には魔術師としての資質があるかもしれないよ」
あるかもしれないと言われても――困る。
「尤も、結界を破壊したトリガーは、もっと別の所にあるみたいだったけどね。パラサイトにそれを成し遂げてもらおうという僕の算段は、結果的には失敗に終わった訳だ。璃鈴に一撃を加えるのは、事のついでの筈だったんだけど」
清人の中で何かが思い浮かび上がり掛けたが――せき込みながら頭を垂れる璃鈴の姿が、思考を遮断させた。慌てて駆け寄りながら「大丈夫か」と声を掛けようとして、彼女の口から滴る血を見、言葉を失う。血の気が失せている顔に生気は微塵もなく、それは恐怖すら感じさせる程度には気味が悪かった。
――このままでは……。
「……その様子だと? 相当に深刻なダメージを受けたみたいだね。不意打ちがとどめになるのは……まあドラマや映画ではそう珍しくないけど、実際にやっちゃうと呆気ないなあ。僕と璃鈴の因縁に決着を着ける一撃としては、相応しくない――ま、自分でやっておいてそう言うのも難だけどね。だから、せめて……」
そこで少女は不意に言葉を切り、考えるように唸る。
「マッドゴーレム――また凡庸なネーミングになっちゃったけど……この子の一撃で璃鈴の人生にピリオドを打とう。恐れる事はない、君は死すとも、僕の中で生き続けるよ」
恐らくは攻撃の合図だろう、先刻と同様に指を鳴らす音が廊下に反響し、それを受けた泥人形、もといマッドゴーレムと命名された巨体が徐に動き出し――崩れた。人の形を象っていたそれの両足が圧壊し、両腕がもぎ取れ、土砂崩れのように胴体が倒壊した。
「……あらまあ」
拍子抜けしたような声が、少女の口から漏れ出る。泥の壁が崩壊した向こう側――階段を上った先にいた筈の二人、飛鳥璃鈴と雨柳清人が姿を消していれば、拍子が抜けもした。璃鈴が振るっていた鞭のみが、階段に放り出されている。
「前が見えないというのも考え物だよね。少年……璃鈴を見捨てて逃げると思っていたけど、しかし」
掲げている左手の人差し指に留まっている虫のような物体を見、少女は嘆息をひとつ漏らす。蠅が一回り大きくなったような気味の悪いそれは暫しその場で羽ばたいていたが――パン、と、不意に小さな音を音を立てて破裂した。
その様子を事も無げに見ていた少女は、指に息を吹き掛けてから前方に視線を戻す。階段に残されている璃鈴の血痕を見、口の端を微かに釣り上げた。
「どうやら、一筋縄ではいかないみたいだね」
その方が、面白い。
そう呟いて、少女は倒壊した泥の壁に足を踏み入れ――泥に足を捕らわれて転倒した。