終わりの始まり
「い――ったあ……!」
耳朶を打つ雷鳴が先か、首に走る激痛が先か。
どちらが原因で目を覚ましたのか定かではないが、痛みが清人の意識を覚醒させたのは違いなかった。微かに開かれた瞳が映し出したのは、白い球体の――、
「うあっ――がっ!?」眼前に転がっていた骨格標本と目が合い、文字通り飛び起きながら後ろに退がろうとして――すぐ背後の壁に思い切り頭を強打し、追い打ちのようにやってきた首の痛みも相俟って、意識を取り戻した直後だというのに悶絶しそうになった。
食い縛った歯の隙間から呻き声を漏らしながら、ずるずるとその場に座り込む――筈だったが、何か固い感触の物が尻に触れ、清人の身体が再び宙を舞った。座る予定だった場所に転がっている人体模型の臓物を見、こんな物に驚いていたのかと、しかめっ面で舌打ちする。
「気を失ってたのか……? だろうな……」
この狭い室内で起こった寸劇の断片が、パラパラ漫画のように脳裏を横切る。璃鈴の手紙でここに呼び出され、扉の隙間から彼女が覗き込んでいて、気味の悪い謎の人形の首を捻ったと思ったら、いつの間にか気を失っていた。自身の首に走る痛みに覚えがあるとしたら――それはあまりにも非現実的で、オカルトじみていて、認めたくないが――璃鈴が持っていた奇怪な人形だろう。
雨柳清人の名が刻まれていた、奇怪な人形。
「さしずめ、呪いのストラップ……いや、あんまり上手くねえし……」
面白くもない。馬鹿馬鹿しい。
「あいつは――飛鳥は」
案の定とでもいうべきか。痛む首をさすりながら室内を見回してみるも、全ての元凶である飛鳥璃鈴の姿はなかった。一応、隣の理科室も覗いてみたが、結果は言わずもがなである。
自分の記憶よりも、室内はだいぶ暗闇に満ちていた。電気を点けなければ作業に支障をきたす程度には暗く、特にカーテンが締め切られている準備室は真っ暗と言っても過言ではなかった。厚手のカーテンを開けてみれば、雷を伴う大雨が窓を打ち、閃光を走らせる暗雲が空を埋め尽くしている。
ふと、中庭を挟んだ向こう側――教室棟の窓を見た清人は、何かがおかしいと怪訝に思って目を細める。どの教室にも、生徒の姿が殆ど見受けられなかった。そもそも、電気が点いている教室が殆どない。まさかと思って理科室の壁に掛かっている時計を確認し、思考と身体が硬直する。
「五時……五時――って、夕方の……」
直視したくない現実から目を逸らすように、頭を抱えて俯く。そうした所で事実は改竄されず、過ぎた時間が巻き戻る事もない。それを理解しているから、沸き上がってくる怒りが頭を掻き毟らせた。
六時間近くも意識を失っていた事になる。日付が分からないので、もしかしたらそれ以上――一日以上という可能性もあるが、時間などこの際どうでもよかった。気を失っていた事が原因で授業を欠席してしまったという事実が問題だった。
「俺の無遅刻……いや、無遅刻は俺のミスで台無しになったから、せめて無欠席は死守したかったのに……あいつが……」
――飛鳥璃鈴が。何を企んでいるのか全く分からない彼女が余計な事さえしなければ。あの女がこの学校に転校さえしてこなければ、全てが順調に進んでいた筈なのに。
「ふ――」
ふざけんな、と怒鳴ろうとした口から出てきたのは最初の一文字のみで、後に続いたのは深い溜め息のみだった。頭を抱えている手をだらりと下ろし、重い足取りで理科室を後にした。案の定、扉は施錠されているので内側から鍵を開けたが、もちろん清人はここの鍵を持っていない。職員室で鍵を借りて、きちんと戸締まりをした方がいいだろうかと――そう思ったのはほんの一瞬で、どうでもよくなった。そのような余裕は、ない。
もう少し早く目が覚めていれば、あるいは璃鈴を捕まえて恨み言のひとつでも吐いたかもしれない。だが、この時間まで彼女が学校に残っている理由は、まずないだろう。どこかの部活動に参加するつもりなら話は別だが、彼女が部活に精を出す人間だとは到底思えなかった。怒った所で、虚しいだけである。
それを悟ったとしても怒りが収まる訳でもなく、やり場のない感情を潰すように両の拳を握り締める。
「しかしあいつ……何て言ってたっけ……」
二階の連絡通路から教室棟に向かいながら、朧気な記憶を辿る。声だけなら決して印象は悪くなかった璃鈴は、清人が意識を失う直前に何事か頼んできた。
――私の為に死んで。
「何だよありゃあ……愛の告白……な、訳ないだろうが」
昨今の流行のひとつ――ヤンデレだというのであれば、洒落にならない。好かれている相手に殺されそうになって、何の得があるのか。しかも、彼女は本気で清人を殺しに掛かっていた。首を捻ったのは、つまりそういう事なのだろう。
だが、清人は殺されなかった。悪運が強かったのか、璃鈴の詰めが甘かったのか――とにかく、こうして存命している。命を狙われる覚えが全くない清人にしてみれば安堵する理由もない、ただ釈然としないまま事実を受け入れるのみだが、彼女にとってはとんだ誤算だろう。何せ、殺そうとしていた相手が生きていたのだから。
「もしかしたら、素直に殺されていた方がよかったんじゃ……いや、それはないけどな……」
だが、清人が生きていると知ったら、璃鈴はどうするだろう。今度こそ、確実に息の根を止めようとするかもしれない。何の躊躇もなしに殺しに掛かってきたのだから、それくらいしてきて当然だろう。
だとしたら、自分はどうするべきか。警察に通報する? いや、呪いの人形がどうこう言った所で、まともに取り合ってくれないだろう。教師に言っても同じ事だ。お前は何を言っているんだと――あしらわれるのが関の山である。
ならば、自分でどうにかするしかない。どうにかとは――何を、どうする事を言うのか。
結論を見出せないまま延々と思考を巡らせている間に、自分の教室――二年A組の前まで到着した清人の足が止まった。何にせよ、時間に――璃鈴がいない時間帯に意識を取り戻せたのは、不幸中の幸いだろう。明日、彼女と顔を合わせるまでにはまだ猶予があるのだから。
教室に誰か居てくれればいいんだけどな――清人のそんな想いが通じたかは定かではないが、教室の扉を開けた先には人影がひとつだけ確認できた。それが誰なのか分からなかったのは、教室の電気が点いていない上に、何故かカーテンが閉めてあるからで、
「おいおーい。せめて電気ぐらい点けようぜ」と、暢気な声を上げながら付近のスイッチをオンにした清人は、直後に激しい後悔の念に駆られる事になる。
誰か居ると分かったのは、誰かが座っているシルエットが浮かんでいたからで、シルエットがあると分かれば、それは席の位置を把握する事に繋がって、そこは自分の席の隣で――、
明かりに照らされて眩しそうに目を細めている飛鳥璃鈴と、目線がかち合った。
――どうしてここに居るんだ。こんな時間に何をしているんだ――ノートに何事か書き記しているようだったが、勉強でもしていたのだろうか。俺を殺そうとした理由は、いや、そんな事よりも逃げなければ。いや、俺の制服や荷物を回収――している場合じゃ。
――殺される?
錯綜する思考が大渋滞を引き起こし、物事の優先順位を見失う清人を余所に、椅子が跳ね退けられるやかましい音を立てながら、璃鈴が立ち上がった。
「……なっ、何で」彼女の口から出てきた言葉は明らかに上擦っており、動揺しているのが見て取れた。
「何で、何で生きてるの。私は確かに、あんたを殺したと……」
彼女の言葉は清人を戦慄させる。
やっぱり本気で殺すつもりだったか。もしかしたら何かの間違いではないのだろうか、何かの間違いであってほしかったと――そんな願いは見事に切り崩された。
「お前は……」有無を言わず一目散に逃げろと――脳が発している警告を無視して、清人は璃鈴に向かって一歩踏み出す。どうして逃げようとしなかったのかと問われたら、半分は諦めであり、もう半分は興味本位だと答えるだろう。
悟っている訳ではない。相手の手の内は知れているのであれば――もしも彼女が殺しに掛かろうとするのであれば。その時は、諦めるしかない。和解という平和的解決を諦めて、実力行使に移るしかない。
「お前は一体、何者なっ……!?」
正体を問おうとしたその言葉は、しかし突然走り出した璃鈴の行動によって、驚きのそれに変わった。唖然として口を開けている間に、清人の位置とは逆方向、教室の後ろの扉に向かった彼女は――勢い余って顔面から扉に衝突する。相当に痛そうなのは間違いないのだが、何事もなかったかのように開け放たれた扉の先へ姿を消してしまった。
――じゃなくて。
「お……おい!」
声を荒げて教室から飛び出し、廊下の薄闇に消えて混ざりそうな彼女の背を追う。追いながら、俺は一体何をやっているんだと、疑問に思う。本当に逃げ出したいのは俺だというのに、何故に璃鈴が逃げ出して――あまつさえ自分が追い掛けているのか。理科準備室での、狂気と殺気に満ちた表情はどこに消えたのか。
――だが、このまま逃がしてしまえば、何をしでかされるのか分かったものではない。だから璃鈴を捕まえて、何を企てているのか洗いざらい吐いてもらう。それがクラスの為――ひいてはこの学校の為だ。
追い掛ける口実を強引に捻出した清人は、廊下の床を蹴る足に力を込める。璃鈴に追い付くのは時間の問題だった。見た目で人を判断するのはあまり誉められたものではないが、それでも彼女は見た目通り運動神経は疎いようで、全力で走らなくとも差は縮まっていく。肩越しに振り返り、慌てて速度を上げたとしても、清人が少し速度を上げれば何の意味も成さなかった。
あと数歩で追い付くというタイミングで、不意に璃鈴が視界から姿を消した――が、何て事はない、階段がある場所に進路を変更しただけだった。下り階段へ向かおうとする彼女を更に追跡しようとして、
「あっ」「あ――」璃鈴の驚いた声に、清人の驚いた声が重なる。下り階段の最初の一段目――段飛ばしで駆け降りようとしたのか、単に運動神経の問題か、はたまた階段を見落としていたのか、彼女は足を踏み外し、その小さな体躯が斜めに傾いていくのが見えた。
反射的に伸ばした手が璃鈴の手首を強く掴んだ。間一髪とはこの事を言うのだろう。ほんの数センチでも彼女と距離が開いていたら、伸ばした手は空を切っていた。
とはいえ――女の子とはいえ、人ひとりの身体を腕一本で支えるのは相当に辛い。形振り構っている余裕などなく、力任せに腕を引っ張った。
「わ、わ……!」
床に付いていた左足を軸に身体を半回転させ、そのまま引っ張られた璃鈴は、一切の自制がきかずに驚きの声を上げるだけで――また、清人も引っ張る事しか頭になかった為、二人は正面から衝突してしまった。胸部に肘を受けた清人は微かに呻き、彼女を支えきれずに後方へ倒れ込む。手を離すのを完全に失念していたが故に、倒れてもなお引っ張られる璃鈴は、追うようにして清人にのし掛かる形となってしまった。
「ご、ごめん……! これは……その、不可抗力……!」
女の子と折り重なっている状況、決して悪くはない筈なのだが、しかし相手が悪すぎる。どうにかしてこの窮地を脱したいが為に手足をばたつかせるも、想像以上に璃鈴の身体が重い為にどうにもならない。その上、動けば動く程に身体が変な所に当たりそうになる。彼女が早くどいてくれればいいのだが、そうしてくれる気配がない。
「頼むから飛鳥、どいてくれ。何でもいいから早く――」
必死の訴えが届いたのか、緩慢な動きで璃鈴が上体を起こした――が、その表情を見た清人は続く言葉を失い、息を飲んだ。暗がりの中でも明らかに顔色を失っていると分かるくらいに蒼白で、驚きに見開かれたままの目は自身の胸元を凝視するようにしている。
その目線を追った清人は、眉間に縦皺を刻んだ。彼女が首に提げている、獣の牙のような物体が数珠繋ぎになっている首飾りの――その全ての牙から、白い粉が降っている。否、牙から粉が出ているのではなく、牙が徐々に粉と化していると言った方が適切だった。
何が原因でどういう原理でそうなっているのか分からない粉は、ブラウスを撫で、スカートに積み上がっていく。分からない事だらけだが、確かなのは、璃鈴にとってこれは相当によろしくない状況で――その璃鈴と不意に視線がかち合って、
彼女の目に怒りの色が浮かんだような気がした直後、振り上げられた手の平が清人の頬を叩いた。
「じゃ、次号の生徒会新聞の特集と各担当が決定した所で、本日の会議は終了という事で。お疲れ様!」
現生徒会長、三年の佐田山の一言で、週に一度開かれる生徒会の会議は終了を告げた。他の役員が口々に「お疲れ様でした」と言って席を立つ中、副会長の屋代真琴は机と睨めっこを展開していた。机に表情がなければ真琴も無表情で、終わる気配を全く見せない対峙は佐田山によって終わりを迎えた。
「どうした? 屋代」
「へえっ?」肩を軽く叩かれた真琴はびくりとして――驚きの余りに素っ頓狂な声を上げてしまった為、彼女以上に佐田山が驚いた。
「だ、大丈夫か? 今日はずっとだんまりだったが……調子でも悪いのか?」
真琴は僅かに視線をさまよわせ――それは明らかに何か思う所がある仕草だったが、「いえ、大丈夫です。ご心配お掛けしてすいません」と、首を横に振ってから笑顔を浮かべた。何か言及される前に席を立ち、机の上に置いてあるバッグを肩に掛ける。
「そうか。ならいいけど……」
「それでは、私もこれで失礼します」
言葉の上では納得したが、尚も怪訝そうな表情を浮かべている佐田山を背に、真琴は急ぎ足で生徒会を後にする。怪しまれない為に作られた笑顔は廊下に出た直後に陰が差し、足取りは急激に重くなった。天候がよくなる兆しがまるでない空模様を窓越しに見、嘆息する。
そのまま誰ともすれ違うことなく昇降口に着き、げた箱から自分の靴を取り出そうとして――その手が中空で止まる。周囲を警戒するようにしてから、真琴は他の生徒のげた箱に手を伸ばした。
そこに入っている外履きを見、持ち主の名前を呟く。
「雨柳君……」
靴の存在は、持ち主が校内から出ていない事を証明しているが、しかし持ち主は三時限目の終わりに姿を消してから消息を絶っている。
消息という言葉を用いる程、事は大きくないのかもしれない。気味が悪いくらいに学業に固執していた清人とて人間だ、勉強が嫌になってサボっていたとしても不思議ではない――と、教師に口を揃えて言われたが、気味が悪いくらいに学業に固執していた清人だからこそ、無断でどこかへ消えるなどありえないと、真琴は思う。
なので、同じクラスメイトであり、清人と最も親しい友人である迅太に協力を仰いで、舐めるように校内をくまなく捜索したが、芳しい結果は得られなかった。まさに消息を絶ったと――そう言わざるを得なかった。何か事件に巻き込まれたという可能性は充分に考えられ、だからこそ、四時限目から今の今まで気が気でない。誰かと顔を合わせれば、全員にどうかしたのかと心配されるくらいには、真琴の心中は穏やかでなかった。
「事件に巻き込まれるとしたら……」
真琴の脳裏に浮かぶのは、今朝方に曲がり角で衝突した女の子の姿。顔はよく覚えていないが、身に纏っている制服は見た事のないものだった。
最寄駅からこの学校までの区間で、同様に、そして恐らく同一の人物に衝突したという話を、今日一日だけで多くの生徒から耳にしている。清人もその一人だったが――彼だけは、その人物を二度に渡って目撃している。屋上へ行った際に学校の敷地外にいる彼女に気付き、こちらを見て笑ったと、そんな事を言っていた。
彼女が清人を狙っているストーカー気質の人間だとしたら? 話が飛躍しすぎていると――真琴自身でもそう思うが、思い当たる節があるとすればそれくらいしかなかった。
それだけに、悔やまれる。どうして彼女の事をもっとよく覚えていなかったのか。時間にして僅か数秒、逃げるように立ち去られたとはいえ、相手の顔を見る時間はあった筈である。記憶に残っているとすれば制服の色くらいで――それだけでは、情報は皆無に等しい。
自分の不甲斐なさに対する溜め息を吐き、今度こそ自分のげた箱に手を伸ばした真琴は、そこから自分の靴を取り出した。心残りなのは確かだが、思い当たる限りの場所を調べて見付からなかったのであれば、後は何をしようが時間を浪費するだけで――残されているのは帰路につくという選択肢のみだった。
常備している折りたたみ傘を広げて昇降口を後にするが――雨だけならまだしも、風まで強まってきており、あまり役に立ちそうな気がしなかった。この分では電車が遅延しているかもしれない。そう思うと、ただでさえ気分が塞ぎ気味だというのに、ますます憂鬱になりそうだった。
正門を抜ける頃には無意識の内に歩幅が広くなり、ともすれば駆けだしそうなくらいの勢いだったが、その足はすぐに止まってしまった。奇しくもそこは、数十分ほど前に迅太が立ち止まった場所と同じ全く同じ所だった。
「あの人……?」
そして、迅太が見たものと殆ど同じ光景を目にする。
進行方向の左手、反対車線の電柱の陰に隠れるようにして、大雨に打たれながら佇んでいる少女には見覚えがあった。今朝方、学校に向かう道中――曲がり角でぶつかった女の子、(迅太は衝突少女と命名していた)と背格好が完全に一致していた。四車線の道路を挟んでいるので顔はよく分からない。同じ制服を身に纏った違う人物という可能性は否定できないが、真琴には確信があった。それは勿論、根拠など何ひとつないが。
――一体、誰を待っているんだろう。
彼女の目線には学校がある。もしも真琴が思っている通りなのだとしたら――本当に清人の失踪に関わっているのだとしたら、彼女がそこにいる理由が分からない。清人が学校から出てくるのを待っているのだとしたら、辻褄が合わない。
猜疑心と好奇心が綯い交ぜとなり、真琴の足は自然と横断歩道を渡っていた。赤信号が点滅しだしたので小走りで駆け抜けるが、彼女が真琴に気付く素振りはまるでなかった。
――可愛い、かも。
食い入るようにして学校の方を見ている彼女に対して真琴が下した評価が曖昧なのは、偏に雨に打たれてしまっているからだった。ずぶ濡れの状態でさえなければ、確実に可愛いと、そう思う。快活な印象を受けるショートボブはグレー一色に染まっており、長い睫が伸びている二重の下の大きな瞳は、カラーコンタクトでもいれているのだろうか、透き通るように青い。口は小さめだが唇は厚く、美少女と言っても充分に通用するだろう。
しかし、自分の身なりには無頓着なのかもしれない。雨でブラウスが濡れているお陰で、身に付けている水色の下着のシルエットがはっきりと浮かび上がってしまっている。男ならこれ以上ない目の保養となるが、根が真面目な真琴は恥ずかしいと思うだけだった。
それよりも、彼女が手に持っている500ミリリットルの牛乳が気に掛かる。ストローを差さずに直接飲むスタイルを用いているようだが、飲み口から雨水が入るのではないのかと心配になる――が、そんな事は全く以て肝心ではない。
「あの――」歩み寄りながら声を掛けたようとた真琴に対して、彼女は不意に左手を振り上げ――何かを掴もうとしているその手は真琴の眼前で静止する。
そうしてから徐に真琴の方を振り向いた彼女は、口の端に微かな笑みを浮かべていた。
「運が良かったね。あと0.5秒早く声を掛けていたら、僕はお前を殺していた。非常に気分が悪かったからね」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。言葉を受け止められない身体は硬直したまま動く事を許さず、頭の中で同じ声が――殺していた、という彼女の言葉が反芻される。
どう贔屓目にみても、彼女は普通の女の子だ。髪の色がおかしかったり、一人称が変わっていたりするが、それを加味しても普通の女の子だ。そんな彼女の口から出てきた言葉は、真琴にとっては全く違う次元のものであり、自分に向けられるべき言葉ではなく――だからこそ、理解ができなかった。
「でも、今はすごく気分がいい」
言いながら手を降ろし、牛乳パックをその場に捨てながら真琴の傍らを通り過ぎていく。濡れた地面に落ちたそれは空のようで、音すら鳴らなかった。持ち主を失って雨に打たれるそれを暫し呆然と眺めていたが、背後から鳴り響いたクラクションの音が真琴の意識を現実に引き戻す。慌てて背後を振り向いてみたが、既に彼女の姿はなかった。
――どこかに行ったとすれば、学校しかない。
深追いをしてはいけない。彼女は危険だ。絶対に関わらない方がいい。それは決して予感めいたものなどではなく、厳然たる事実から成る確信だった――にも関わらず、真琴は信号を無視してまで学校に引き返そうとする。気分がいい彼女は、何を目的として学校へ向かったのか。
このまま野放しにしておけば、大事に至るかもしれない。
帰宅途中の生徒と正門でぶつかりそうになりながら、校舎の方を目指す。先程の生徒に不審な女子はいなかったかと尋ねればよかったと――後悔の念に駆られながらも周囲を見回した真琴は、ふとグラウンドの方を注視した。何かの見間違いかと思った人影らしきものは、目を凝らしてみて人影だと確信する。それが捜している人物である保証はなかったが、そんな事はお構いなしに真琴は駆け出していた。
利用する生徒が一人としていない雨のグラウンドをゆっくりと歩きながら、少女は値踏みをするように目を細めて地面に視線を据える。暫くそうした後に立ち止まると、片足で地面を踏みしだくようにしながら納得したように頷いた。真琴からしてみれば、それは靴を汚しているようにしか見えない。
「質はまあまあ。及第点といった所か。雨が降っているだけに、面白い出来になりそうだね」
そう独りごちて、彼女は踏みしだいていた足の爪先で、地面に短い線を刻んでいく。ぬかるんでいる地面に羅列されていく直線的なそれは、何かの文字のような――記号のようなものに見受けられた。
バスケットボール大のそれら――文字数にして、おおよそ五文字か六文字くらいの羅列を刻んでから、彼女は微かに嘆息を漏らす。そうしてからプリーツスカートのポケットに手を突っ込み、そこから何か細長い物を取り出した。それは彼女の手元で更に倍近くの長さに伸び、雷の光を反射して鈍い光を放つ。
彼女が握るそれを――折り畳み式のナイフを見、真琴は半歩だけ後退った。あれで刺されていたのかもしれないと思うと、ぞっとしない。いよいよこれは警察に通報するべきだろうと判断し、バッグから携帯電話を取り出そうとして――驚きの声を上げそうになる。
何を思ったのか、彼女はナイフの刃を自分の手首に当て――肉を切った。そうすれば何が起こるのか分からないとでもいうように、何の躊躇いもなく手首に刃物を滑らせた。それは明らかに相応の痛みを伴っている筈だが、彼女は顔色ひとつ変えずに――寧ろ楽しそうに、傷口から出血していく様を眺めている。
ナイフが自害の為の物だと予想だにせず、救急車を呼ぼうとするも気が動転して番号を失念し、携帯電話の画面と前方を見ながら地団駄を踏む。そんな真琴を余所に、彼女は切った腕を前へ伸ばした。傷口から流れ出る血は重力に従って地面へ落ちていき――それらの一滴一滴が、地面に刻んだ文字のようなものを打ち、雨に混ざって滲んでいく。
その文字が、一瞬だけ僅かに鈍い光を放ったように見え、真琴は目を見張った。雷の光か何かと錯覚したのかと――そう思ったが、彼女の足元で盛り上がる地面を見、今度こそ錯覚ではないと確信する。
何かが生えてくるようにせり上がっていく泥の壁は、眼前の少女が見上げる高さ――ゆうに二メートルを越える高さにまで達し、豪雨を含みながら徐々に人の形を形成していく。さしずめ巨大な泥人形と形容できるそれの顔にあたる部分に、目玉のような水色の光が二つ浮かび上がると、二本の巨大な足は校舎の方に向かってゆっくりと動き出した。
「な……なっ……!?」
微塵も状況を理解できない真琴の口から出てくるのは上擦った声のみで、言い知れない恐怖は無意識に身体を後退させる。取り落としてしまった携帯電話を拾い上げようとして伸ばした手は、泥人形と並んで校舎へ向かう少女の言葉を受けて止まった。
「目標は飛鳥璃鈴だ。原型は留めておいてほしいね」