私の為に死んで
迅太から今朝がたの衝突事故について詳しく聞きたいという願望があったが、三時限目を終えた清人は忙しい身であり、誰よりも真っ先に教室へ戻るべく昇降口のげた箱を目指した。次の授業――地理で使用する資料やら機材やらの準備を手伝う為に残されている時間は多くない。
ジャージから制服に着替え、そこから社会科資料室に向かうだけでも休み時間が終わってしまうくらいの時間を要するのだから、急いでも急ぎ足りないくらいだった。
しかし、一分一秒たりとも無駄にできない清人の思考は、上履きに履き替えようとした所で――げた箱に入っていた茶封筒を見た所で、停止する。
「手紙……なのか? まさか、ラブレターとか」
げた箱をポスト代わりにするとしたら、ラブレターか果たし状のどちらかが相場だろう。想いを伝える手紙を入れるものに茶封筒という選択は相応しくないかもしれない――だとしたら果たし状かと、身に覚えがなくもない清人は思ったが、表を見ても裏を見ても何も書かれていなかった。
のりしろの部分は折られているだけで、のり付けされていない。中に入っていたのは便箋などという洒落たものではなく、ただの紙切れ一枚だった。
これを見たら、すぐに理科準備室まで来ること。
その短い一文の下に、差出人の名前があった。
「飛鳥璃鈴……ね」
文脈からしてラブレターの類ではないのは明らかであり、果たし状だとしたら呼び出される理由が分からない――という訳でもない。思い当たる節はある。だが、知り合って間もないという現状で、呼び出される程の険悪な間柄になってしまうなど、有り得るのだろうか。
「実際、有り得てるから困るんだよな……」
言いながら、昇降口に戻ってくる他のクラスメイトを視界の隅に認めた清人はジャージのポケットに封筒を押し込む。ラブレターにしろ果たし状にしろ、こんな物を他の人間に見られたら面倒な事この上ない。相手が璃鈴なら尚更である。
授業の準備と、飛鳥璃鈴の二つを秤に掛けた結果、勝ったのは璃鈴だった。約束を放棄すれば先生の機嫌を損ねるのは間違いないが、それ以上に彼女の呼び出しを無視した場合のリスクが計り知れなかった。何より、周囲との関わりを拒絶しているような人間から――理由は何であれ、必要とされているのは清人にとって重要だった。委員長として、クラスメイトの力になれる事があるのであれば、いくらでも協力してやりたい。
手紙が投函されたのが体育の授業中だとしたら、璃鈴がこの休み時間の間に待っているであろう事に疑いはなく、上履きに履き替えるや否や清人は学生棟の向かいにある実習棟の二階――理科準備室を目指して廊下を駆け出した。委員長が学校の廊下を堂々と走ってはクラスメイトに示しがつかないが、それは誰かに見られていたらの話である。人通りが殆どない実習棟は、走るには打ってつけの廊下だった。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、四時限目にどこかのクラスが理科室を使うのだとしたら、璃鈴は一体どうするつもりなのだろうかと不安に駆られたが、階段を上った先――しんと静まり返っている理科室の前を見るに、どうやら杞憂に終わったらしかった。
準備室のドアに手を掛けようとして、ふと思い留まる。実習棟の教室は、いたずら防止で入られない為に施錠されているのが基本で、準備室とて例外ではない。全ての教室の鍵は職員室で管理されており、授業以外で鍵を借りる際には明確な目的を説明する必要があるが、果たして璃鈴にそれは可能なのだろうか。
横開きの扉は、清人の意志通り――開けたい方向に向かってスライドされた。鍵は掛かっていない。
「飛鳥ー……いるのか? おーい……」
入り口から顔を覗かせながら、カーテンが締め切られている薄暗い室内に向かって呼び掛ける。普通の教室の三分の一程の広さしかないそこは左右の壁に白い棚が並んでおり、その中には薬品や実験用具、よく分からない石や謎の生物のホルマリン漬けが所狭しと置かれている。それらを監視するように佇んでいる骨格標本と人体模型は、小学生の頃から見知っているにも関わらず気味の悪さを感じずにはいられない。
「……おーい」
もう一度呼び掛けてみた所で、隠れる場所のない狭い室内に璃鈴の姿がどこにも見えないのは一目瞭然だった。呼び出した張本人がいないというのは、一体全体どういうつもりなのかと――こみ上げてきた怒りを跳ね退けるように、清人はかぶりを振る。この部屋の鍵が開いているという事は、璃鈴が来たのは確実であり、もしかしたら何かしらの理由があって今はいないだけかもしれない。
――トイレに行ったとか、な。可能性はいくらでもある。
気は進まないが、ここで彼女が来るのを待とう。次の授業までに着替える時間を踏まえれば猶予はあまりないが、それまでに璃鈴が来ないのなら仕方がない。清人は言われた通りに指定された場所に来たのだから、そこにいなかった璃鈴に非がある。
一歩足を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めた――瞬間、背筋に悪寒が走るのを実感とした。しかし、薬品の臭いが微かに漂う室内は蒸し暑いくらいで、寒く感じるような要素など皆無である。人体模型や骨格標本と一緒にいるから、なのかもしれない。肝試しをするには、まだ時期が早い。
何か時間を潰せる物はないだろうかと――棚を物色しながら、ふと準備室の奥にある扉が目に留まる。その向こう側にある理科室に、もしかしたら璃鈴がいるかもしれない――それは少しばかり無理のある推論だが、どの道やることのない清人である。確認するだけならものの数秒で終わるとなれば、ドアノブに手を掛けない理由はなかった。
「あ――」驚きの声を上げようとした口から出てきたのは、その一文字のみだった。
焦点がブレる。視界が霞む。手足に力が入らず、崩れるようにしてその場に膝を突く。前のめりになった身体が扉に寄り掛かり、頭をぶつけた音が準備室の静寂を打つ。
何が起きたのか分からなかったが、確かなのは、それを捻った瞬間――首が締まるような感覚を実感とした。長時間に渡って首を締め付けられていたような一瞬の緊縛から解放された清人はその場にうずくまり、首を押さえながら何度か咳込んだ。
貧血だろうかと――そう判断するには、余りにも不可解すぎる。誰かに首を絞められたといった方が、まだ理解が早い。清人以外の人間がいないこの空間で、首を絞められるとしたら。
――人体模型? 怪奇現象?
ドアノブを捻っただけで、僅かに開いている扉の隙間から上履きのような物が姿を覗かせている事に気が付いたのは、そんなワードが脳裏を掠めた時だった。こんな所に上履きが捨てられている――訳もない。その上には足があった。黒い靴下を穿いているそれの上には丈が長めのスカートがあり、灰色のブレザーがあり、
こちらを見下ろしている飛鳥璃鈴の顔があった。
「あっ――すか……!?」
首を絞められていたような――今し方の感覚を一瞬で忘却してしまう程度には、その光景は衝撃的だった。
心臓の跳ね上がりと同時に背後へ跳び退いた清人は人体模型に衝突し、それはドミノよろしく隣の骨格標本を巻き込む。手足をまき散らしながら倒れた二体が散乱する準備室は急激に気味の悪さを増したが、清人の目にそのような光景は入らなかった。
――呼び出したのは璃鈴なんだ。ここにいるのは何も間違っちゃあいないが、だからといって……。
どうしてホラー映画のような演出をする必要があるのか。
璃鈴は何も言おうとしない。隙間から覗かせている表情は相も変わらず一切の感情が読み取れなかった。用件があるのなら早く言ってほしいと願っても、しかしこのままでは一向に話が進展しないかもしれないと危惧した清人は、周囲に散乱するパーツの方に視線を遣りながら「な、なあ……」と口を開いた。それでも無言を貫く彼女を見、ポケットから先刻の手紙を取り出す。
「これ……君が俺に宛てた物で……合ってるよな? その、なんだ。何か用なのか。それとも、相談事とか? そうだよな、転校してきたばかりなんだから、いろいろと不安に思う所もあるよな。俺でいいんなら、いくらでも相談に乗ってあげられる。なんたって、みんなの指標となるべき委員長だからな」
清人の口から出てくる言葉は――本心である事に違いはないとはいえ――表情が引き攣ってしまっていては、苦し紛れの言い訳にしか聞こえなかった。
尤も、そうでなくとも璃鈴が話をまともに聞くなど、到底ありえないだろう――そう踏んでいた清人だったが、しかし意に反して、
「そう……じゃあ、ひとつ頼みを聞いてくれるかしら」
初めて聞いた璃鈴の声音は、叩けば割れて壊れてしまいそうなくらいに繊細で弱々しく、針のようにか細かった。年頃の女の子とは思えない風貌から発せられるそれはまさしくギャップであり、直前の出来事を忘れそうになる程度には聞き入ってしまっていた。
故に、ゆっくりと開かれた扉の向こうにいる璃鈴が奇怪な人形を手に持っている事に気付くまでに、たっぷり数秒の時間を要した。授業中に作っていた物と同型のモデルだが――清人の記憶と違っていたのは、肌色の布を埋め尽くしている黒い文字は、どう見てもれっきとした日本語として認識できた。
雨柳清人という――自分の名前として、認識できた。
「私の為に死んで」
「しん――え?」
人形の頭部を――位置を少し修正するように捻られた、同時に清人は自分の首を限度以上に回し、骨が外れるような鈍い音を鳴らす。何かを言い掛けて開かれた口から出てくる言葉は、意識の遮断と共に消えてなくなった。
崩れるようにして仰向けに倒れる清人の身体が、床に散乱する人体模型や骨格標本のパーツを弾き飛ばす。コロコロと転がる人体模型の頭部が棚にぶつかって止まるのを見届けてから、璃鈴は閉ざされているカーテンの隙間から見える空を仰いだ。
灰色の雲に覆われた空に、太陽の光が差し込む余地はない。
四時限目が始まってから、携帯電話を何回確認しただろうか。
そうした所で意味がないのは分かりきっているというのに、それでもそうしない事には落ち着かなかった。その内、何事もなかったかのように連絡を寄越してくれるんじゃないだろうかと――香坂迅太は思う。
清人は何の理由もなしに授業をサボるような人間ではないというのは――サボるような人間ではなくなったというのは、百も承知だった。中学時代ならいざ知らず、今の清人では絶対にありえないと、そう思っていただけに驚きを禁じ得なかった。
四時限目のみならまだしも、その後の昼休みを経て五時限目も六時限目も授業に出席しないとなれば、何かしらのトラブルに巻き込まれたか、もしくは高校に入学してからの反動が――素行の悪かった中学の自分を恥じて、高校では真面目な人間であろうと努め続けてきた反動が、飛鳥璃鈴というイレギュラーの登場によってついに爆発しまったのかと、迅太は危惧した。
――俺はできるだけこの学校の頂点を目指す。みんなの憧れになる。みんなに尊敬される人間になる。悪名が売れるメリットなんて、何ひとつとしてなかったからな。俺はもう、二度と人生で躓きたくない。
入学当初に清人が掲げていたその目標を耳にした時、迅太は思わず吹き出してしまった。そうしてしまう程度には、中学時代の清人は酷い人間だった。故に、大げさすぎる目標をいつ諦めるだろうかと楽しみにしていたのだが――その期待は大きく裏切られる事になる。
死ぬほど嫌っていた勉強に打ち込むようになり(しかし成績は芳しくない)、別次元といっても過言ではない課外活動にも積極的に参加するようになった。今ではクラスの委員長として、多くのクラスメイトに慕われている。失敗があったとすれば、生徒会の役員になれなかった事くらいで、しかしそれを差し引いても清人の功績は賞賛されるべきであり、誰にもどこにも公開できない中学時代と比べれば、劇的に変わっていた。
休み時間は、迅太なりに友人や部活のメンバーなどを当たって行方を捜したが、清人の姿を見た物は誰ひとりとしていなかった。教室という教室を見て回ったが、どこにも清人の姿はなかった。校内という決して広くない場所で、完全に行方不明。既にこの学校からいないという可能性も捨てきれないが、彼の制服は放課後を迎えた現在でも机の上に畳んで置いてある。電話を掛ければロッカーにしまってあるそれが振動するだけで、全く意味を成さなかった。
他のクラスメイトや教師人も、最初こそ「どこかでサボっているのだろう」という程度の認識でしかなかったが、次第に不安を募らせていく人間は増えていった――が、それだけで、大半は何も行動を起こさなかった。自分の身に危機が迫らない限りは他人事であり、それが凡人としての限界だろう。
凡人の枠に収まる迅太も例に漏れず、見付からない以上は、諦めて帰る他ないと考えていた。部活がない今日はバイトの予定があり、お金を稼がなければ学業に支障をきたしてしまう。捜さなかった事を後で後悔するかもしれないと――そのような一抹の不安を抱えながらも、帰宅しようとする他の生徒の流れに身を任せて昇降口へ向かった。
「やだ、雷鳴ってる。最低」
「天気予報だと晴れだったのに……早く帰ろ帰ろ」
側を行く女子二人組の声に釣られて見上げてみた空は、今にも大粒の雨を落としてきそうな灰色に染まっている。時折そこから轟く雷鳴を聞くに、傘が必要になるのは時間の問題だろう。傘を持っていない迅太に、このまま清人を放っていいのだろうかという躊躇は消滅した。
一刻も早く帰る為に、靴を足に引っ掛けるや否や駆け足で正門を突破した――が、間もなくしてその足が止まりそうになる。
「ありゃあ……確か」
――クラスでちょっとだけ話題になった、衝突少女じゃねえか?
進行方向の左手、反対車線の電柱の陰に隠れるようにして佇んでいる少女には見覚えがあった。今朝方、学校に向かう道中――曲がり角でぶつかった女の子、衝突少女(迅太が命名)と背格好が完全に一致していた。四車線の道路を挟んでいるので顔はよく分からない。同じ制服を身に纏った違う人物という可能性は否定できないが、迅太には確信があった。それは勿論、根拠など何ひとつないが。
生徒会副会長の屋代真琴を始めとして、多くのクラスメイトが曲がり角でぶつかった彼女が、どうして学校の付近にいるのか。考えた所で目的は全く分からないが、何かを待っているらしい事は、その様子を――パックの牛乳とあんパンを持っている姿を見れば何となく分かった。
「あんな張り込みをしている人間って、本当にいるんだな……ま、それはさておき」
果たして、彼女は誰を待っているのだろうか。
目線の先には学校がある。誰かを待っているのなら、今朝はその誰かを捜していたのかもしれない。今の今まで張り込みを続けていたのだとしたら、相当な意志の強さを伺わせる。復讐したい相手でもいるのか、それとも、想い人に気持ちを伝えるのか、はたまたその正体は探偵で、犯人を付けているのか。
いずれにせよ、真意は本人に訊いてみない事には分からないが――詮索好きの迅太としては寧ろ訊きたいくらいだったのだが、ついに限界を迎えた雨雲から降り出してきた大粒の水滴は、迅太に選択の余地を与えなかった。
鞄を頭上に掲げ、少しでも雨から逃れるようにしながら駅に向かって走り出した迅太は――それでも未練を断ち切れず、視界から消えるまで彼女の方を何度も振り向いた。 間違いなく土砂降りにあるであろう大雨にも関わらず、衝突少女からは一向に傘を差す気配が全く見受けられなかった。雨に濡れるあんパンを平気でかじる様を見、迅太は眉間に縦皺を刻んだ。