ぶつかる少女
一時限目に引き続き、二限目も途中で授業を勝手に抜け出してしまった飛鳥璃鈴を捜す――事は諦めた。それよりも、もっと切実に探さなければならない物があった。教室の窓から旅立ってしまった消しゴムをどうにかして見付け出さなければ、今後の授業に支障をきたす事になる。
尤も、次の授業は消しゴムを要さない体育で――だからこそ、校庭に出るついでに探す算段だった。更に、目的がもうひとつあるのだが、
「……だからといって、私が駆り出されるのは納得できないんですけどね」
その目的の為に協力を要請したクラスメイト――屋代麻琴は、消しゴムを探すべく地面に目を凝らす清人の隣で不機嫌そうな表情を隠そうともしなかった。
清人の交際相手ではない。かといって友達でもない。単純な知り合いで、クラスメイト。そして、コネクションである。生徒会に入ろうと企てて、選挙で落選した清人が、学級委員というポジションに落ち着く代わりに最後の悪足掻きとして掴んだ、生徒会への――学校へのコネクションである。
屋代麻琴――生徒会副会長の肩書きを有する彼女は次期生徒会会長の最有力候補で、それに見劣りしないルックスと人間性を兼ね揃えている。肩胛骨の辺りまで伸びている艶やかな黒い髪が何よりの自慢らしく、今は体育の授業に備えて後ろで縛っている。学校指定の赤いジャージさえ身に纏っていなければもっと可愛いのだが、逆を言えばそれでも彼女は充分に可愛い。
言うなればクラスのマドンナ的存在で、生徒会長に就任した暁には間違いなく学校のアイドル的存在になれるだろう。そんな美少女に自分の消しゴムを探させるのだから、清人の犯した罪は大きい。一部の支持者にとっては、非常に大きい。麻琴にまったく気がない清人だからこそ、できる芸当である。
「生徒会とは、何なのか」
目を細めて地面を舐めるように睨んでいる清人の言葉に対して、麻琴は「へ?」と目を細める。清人とは全く意味合いが異なるその目が訴えているのは、相手に対する不信感のみだった。
「存在意義だ。何の為に生徒会は存在するのか。生徒会副会長の屋代麻琴さんなら、答えられると思うんだけど」
顎に手を当て、首を傾げながら考える風にしてから暫くして、「私の持論になりますが」と前置いてから、麻琴は続けた。
「……学校をよりよくする為には、より環境のいい場所にする為には、そういう組織が――ある程度の明確な意識と目標がある人たちが必要だからだと、思いますよ。で、それがどうかしましたか?」
「全校生徒にとって、ここが勉学に励みやすい場所にしたいと?」
麻琴の方をちらと見遣って、視線を地面に戻す。二重瞼の下に覗く大きな目が彼女のチャームポイントだが、清人はその大きな目が苦手であり――麻琴に全く気がない理由だった。目を合わせる事ができない。
「まあ……ええ」
「なら、消しゴムを紛失して困っている俺に協力して然るべきだと、俺は思うんだけど」
「そんな事の為だけに、私を呼び出そうとしないでください!」
「そんな事とは何だ。授業を受けるにあたって、消しゴムがどれだけ重要なポジションに位置するのか、分からないなんて事はない筈だ。それとも、屋代さんは俺の勉学がどうなってもいいと?」
「……分かりました。雨柳君の国語の成績が悪いと知ってしまった以上、赤点を取られては困りますから」
何か言いたげな口を閉ざしてから渋々頷いて、麻琴も中腰で消しゴム探しを始める。一見すれば、何もない校庭で右往左往しているだけの怪しい二人組だった。
「でも……どうして、飛鳥さんは雨柳君の消しゴムを窓から投げ捨てたのかしら……」
「それは俺が知りたい――というか、生徒会副会長の屋代さんなら、何かしら知ってると思って……だからこそ、呼んだのだけど」
屋代麻琴から飛鳥璃鈴の正体を聞き出す事が、消しゴムを探す真の目的。生徒の中で、学校が抱えている事情に最も近しい位置にいるであろう生徒会の人間なら、あるいは転校生がどういう人間なのかよく知っている可能性がある――そう踏んで、清人は麻琴から知りうる限りの情報を訊き出そうと考えた。自分のクラスにいる生徒会の役員は麻琴だけで、同学年で他の役員に親しい生徒はおらず、トップである生徒会長は近寄り難い三年生――となれば、残されている選択肢は彼女のみだった。
「何か……って、言われましても。全校生徒のプロフィールを把握してる程、私は優秀じゃありませんし。それこそ、みんなの名前はもちろん、住所や成績、交友関係、健康状態、趣味、好きな食べ物、スリーサイズ、その他諸々把握している雨柳君なら、何かしら知っているんじゃないかと思ってましたけど」
「いや……それは、その、嘘だから」
先刻に於ける迅太との会話を聞かれていた。全く気のない相手だからといって――その話が事実ではないとはいえ、女の子の耳にはあまり入れたくない話であるのは確かで、清人は動揺を禁じ得なかった。余計な誤解は招きたくない。
「分かってますよ。そんな人がいたら、気持ち悪いだけですから」
目が笑っていないのが悲しかった。
「ふむ……しかし、そうか。屋代さんも知らないとなると、いよいよ手詰まりな感が否めないな。屋代さんから生徒会長に訊いてもらうとか、できたら有り難いんだけど……」
「そんなに飛鳥さんの事が気になるのであれば、直接本人に訊けばいいんじゃないんですか? 確かにあの人は……あまり友好的な人じゃないみたいですけど、雨柳君は隣の席なんですから、いくらでもお話する機会はある筈ですよ?」
それができれば苦労はないと――内心で反論した直後に「あっ」と、何かを思い出したような声が隣から飛んでくる。璃鈴に関する情報を得られるのかと、嬉々として彼女の方を向いた清人の視界に映り込んだのは、消しゴムを持っている麻琴の姿だった。
「これって、雨柳君の消しゴムかな」
「お、おう……ありがとう」
ケースを紛失して白い本体が剥き出しになっているそれは、使用具合からして間違いなく自分の物であると分かったが、期待を裏切られた清人は素直に喜べなかった。
受け取った消しゴムに付いている砂埃を払い、ジャージのポケットにしまった所で――休み時間の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。遠くから聞こえてくるホイッスルの音は集合の合図で、
「じゃあ、消しゴムが見付かった事ですし、授業も始まりますし、私はこれで」
麻琴はそそくさと他のクラスメイトが集まっている所へ掛けていく。これで――と言われても、清人も同じ授業を受けるのだから、向かう先は全く同じだった。一時限目や二時限目はトンデモな教師が連続したが、江住先生や荒巻先生はこの学校の中でも異端中の異端な存在なだけで、他の教師は良心的である。体育を担当する京極先生は良心の塊のような人で、それだけに特筆すべき点は殆どない。
案の定、飛鳥璃鈴は集合場所にいなかった。協調性という概念が存在しない彼女がこの授業を受けにくるなど、清人には到底考えられなかった。
尤も、今日の体育で行うのは、協調性の必要性が皆無の持久走である。入念な準備運動とストレッチを済ませてから、先生の合図で一斉にスタートする。正門を抜け、校舎の外周を二十週走り切るのが今回のノルマだった。運動は得意でも不得意でもない、極めて平均的な能力の清人にとってその距離は苦ではなかったが、気は重かった。
――あの女の子がいたのは、恐らくこの辺りだったが。
「どうかしましたか?」
走っているにも関わらず周囲を警戒するような動きを見せる清人はあからさまに不審で、すぐ後ろを走る麻琴が怪訝そうな表情を浮かべるのも無理はなかった。生徒会副会長でありながら陸上部も掛け持ちしており、毎日のように長距離を走っている彼女だからこそ、ハイペースで走りながら喋る余裕がある。
「いや……」どこから話したものかと逡巡しながら、清人は僅かに走るペースを落とす。それに併せて麻琴もペースを落とした。
「今朝、学校に行く途中で――曲がり角で、女の子とぶつかったんだが……」
間違った事は何一つ言ってない筈なのだが、少女漫画で使い古されたようなベタ過ぎる展開を口で説明するのは、少なからず抵抗が生じた。よりによって女の子に説明しているのだから尚の事で、もしかたら笑われるかもしれないと――喋った後で後悔の念に駆られた清人だったが、
「へえ、雨柳君もぶつかったんですか」
麻琴の返答は、清人の思考を一瞬だけ停止させた。一体何を言っているのかと――彼女の顔を見遣るが、自分と同様に驚いているだけだった。
「俺も……って、どういう……」
「私も女の子とぶつかりましたよ。曲がり角で――頭を、ごつーんと、ですね。凄い慌てた様子で謝られて、それはもう脱兎のごとく逃げ出してしまったので、顔や格好はよく覚えてないんですけど……まあ、少なくともこの学校の制服ではありませんでしたね」
話だけを聞けば、それは限りなく清人と同じ状況だった。ぶつかった場所も、女の子の様子もほぼ一致している。尤も、背格好が分からない以上、偶然と片付けるしかないように思えたが――しかし。
「他にも、曲がり角で女の子とぶつかった人がいるみたいですよ。香坂君もそのひとりだって……話を又聞きした程度ですけど、恐らく同一人物と見て間違いないと思いますね。相当な慌てんぼうさんだったんじゃ、ないんですかね」
「それって、みんな駅から学校の間で発生した事故なのか?」
「恐らくは、そうだと思います。事故っていう程の大げさな――いえ、下手をすれば大事に至っていたのかもしれないと思うと、事故ですか」
麻琴の言う通りに前代未聞の慌てんぼうさんだったとして、果たして一日に三回も――否、それ以上、曲がり角で他人と衝突するなど、あり得るのだろうか。仮にあり得たとして、その女の子はどうして駅から学校までの区間をうろついていたのかという不可解な点が残る。極度の方向音痴で、道に迷っていたと言われればそれまでなのかもしれない。だが、清人はその人物を二度も目撃している。
「一時限目が終わった後の休み時間に、野暮用で屋上へ行ったんだが……学校の外にそいつがいたのを見たんだ。丁度、この辺りに立ってた」
尤も、清人が本当に伝えたい「この辺り」という場所は、走っている間にとうに過ぎてしまっている。
「人違いっていう可能性はあったと思う。思うが――いや、確かにあれは、あいつだった。俺を見て笑いやがったんだ。気味が悪いことこの上ない」
眉間に縦皺を刻んでいる清人とは裏腹に、真琴は口の端に微かな笑みを浮かべていた。少なくとも、不審人物の話をする時の表情ではない。
「さては雨柳君、その子に惚れられてるんじゃないですかね」
何もない所で清人が転倒しそうになる。
「か、勘弁してくれ。ストーカー気質の女の子に好かれたって、嬉しくも何とも思わん……」
年齢イコール彼女いない歴とはいえ――意中の人が特にいないとはいえ、相手が誰であってもいいという問題ではない。
「そもそも、俺だけが目当てなら他の人間にぶつかる必要なんてないだろうに。しかもぶつかって――一方的に謝られて、逃げられただけだ。お約束通りに事を運ぶなら、そこでひと悶着あって然るべきなんじゃないのか」
そもそも、この学校の生徒ですらない。
「冗談ですよ。真に受けないでください……あ」
「あ?」
「思い出しました。生徒会長から又聞きした話ですけど一週間ほど前に……」
「女の子の正体を知ってるのか」
学校外の事情にも精通しているとは、この学校の生徒会は中々に侮れない。自分がその組織の人間になれなった事が悔やまれる――という清人の考えを余所に、真琴はかぶりを振った。
「そっちじゃなくて、飛鳥さんの方です。知りたいんでしたよね?」
「何か知ってるのか?」
もう望みはないと思っていただけに、その吉報は清人の気分を高揚させるには充分すぎる効果があった。
「そんなおかしな話はないと思って、大して気にも留めていなかったんですけど……飛鳥さんは小学生の頃から頻繁に転校を繰り返しているそうですよ。家庭の事情なのかと思いましたけど、あの人は行く先々で何らかのトラブルを巻き起こしているという、黒い噂があるとか、ないとか」
「トラブル……ね」
トラブルというのであれば、清人は既にトラブルに巻き込まれている。屋上での一件然り、消しゴムでの一件然り、まだ新しい記憶は鮮明な映像となって脳裏に蘇る。
「まあ、飽くまでも噂話なので過信しない事です。転校を繰り返しているから、イコール問題があるだなんて、私はそういう偏見は好きではありません」
少なからず問題はあると思う――と、真琴の反感を買ってまで言う必要はあるだろうかと逡巡している間に、「では、お先に」と、彼女はペースを上げて先行していってしまった。真似をすればすぐに息が切れそうになるであろうその速さに付いていく気にはなれず、あっという間に距離が離れていく後ろ姿を後方で眺めている事しかできなかった。
真琴が一着でゴールするのは、まず間違いないだろう。