転校生は喋らない
今年の五月は天気の悪い日が続いた。
梅雨前線の訪れにはまだ一月ばかり早いというのに、ニュース番組の天気予報は常に傘マークが日本列島を埋め尽くしていた。このまま晴れ間が見えないまま梅雨を迎えるのではないのだろうかと思うと気が滅入って仕方が無かったが、中間考査が終了した翌日の朝は、目を疑う程の晴天が――雲一つ無い青空が広がっており、とても気分のいい一日になりそうな、そんな予感がした。
寝坊さえ、しなければ。
「……参ったなあ! 全く……何で、こんな日に限って!」
最寄り駅から学校まで、徒歩で約十五分の道程を、雨柳清人は全力で疾走する。寝起き、空腹、睡眠不足の三拍子が揃っている現在の彼のコンディションでは満足に走れる道理も無く、駅を発った直後に息は切れ切れとなっていた。
「せっかく今まで……無遅刻無欠席だったっていうのに……。高校に上がってからはスーパー真面目優等生キャラで通してたっていうのに、全くどうして……」
被害者ぶった事を言った所で、しかし原因は分かりきっている。
中間考査を乗り切ったという解放感から、つい羽目を外してしまった。昨夜は深夜遅くまでオンラインゲームに耽っていたという、擁護し難い原因がある。どう考えても自分に落ち度がある。
自業自得で遅刻するだけならまだしも、今日は――、
「あれ? 今日は何があるんだっけ……?」
何か重要なイベントがあった筈で、だからこそ遅刻しない為に全力疾走していた筈なのだったが、どうしてか度忘れしてしまった。
それを思い出しながら走っていたので、丁字路に差し掛かった先で別方向から駆けてきた人物に対して、全く対応できなかった。
「あ――!?」「きゃ――」
咄嗟のブレーキ虚しく、互いの頭が正面衝突する。女の子の驚いた表情が映り込んだ直後に暗転した視界の奥で、火花が飛び散り――尻餅を突いて、倒れた。
ありえない。何十年前に使い古されたベタな展開を、現代で忠実に再現してしまうだなんて、ありえない。しかも痛い。単純に頭を強打したのだから、悶絶するレベルだ。おまけに遅刻する。
「てめ……どこに目ぇつけて――」
何もかも救われない現実と――自業自得だったとしても――衝突してきた女の子に対してこみ上げてきた怒りを言葉にしようとして、清人の思考が停止した。見開いた彼の目に映った三角形の白い布が――座り込んで苦悶している女の子のスカートの中にあるそれが、怒りだの苦しみだの焦りだの、その他もろもろ諸種様々な感情をかき消してしまった。
「すっ……すす、すいませんでした!」
怪我の功名。不幸中の幸い。清人にとってそれはまさに心の救いと――なり得たかもしれなかったが、そのトライアングルゾーンを拝めたのはほんの一瞬。地面に頭を打ち付けんばかりの勢いで謝ってきた女の子は、逃げるようにして走り去っていってしまった。
その場で呆けながら、清人は今しがた衝突した女の子の姿を思い浮かべようとする。しかしあまりにも突発的な出来事で、しかも彼女のそればかりが網膜に焼き付いている為、顔も髪型も背丈も全く記憶に残っていなかった。辛うじて、自分の通っている制服とは違うというのは分かったが、それはつまり――、
「学校で再会するというベタな展開は、無い……か」
俺にもついに春が来てくれたのかと、そんな淡い期待を抱くだけ無駄だった。現実にベタな展開を望む方がどうにかしているというものだろう。
ため息をひとつ吐いて、立ち上がる。頭を強打した影響か、足下が僅かにふらつくのを実感とした。思い出したように頭部の痛みが蘇ってくる。たんこぶが出来るかもしれない。
「あー……そうだ。思い出した。今日は……」
今日は何があるのか。女の子と衝突したお陰なのかどうか分からないが――完全に遅刻という代償を払ってまで衝突した意味は皆無だが――清人は完全に記憶を取り戻せた。
「今日は、俺のクラスに転校生が来る日だったな……」
名前を言う程の学校ではない。
偏差値が飛びきり高い進学校でもなければ、不良の溜まり場と揶揄されるような問題だらけの学校でもなく、部活で全国的に名を上げた実績も、課外活動で注目を浴びた事もない。普通科の、普通の高校。普通という称号を欲しいままにしていると言っても、過言ではないだろう。それは別段、嬉しくも何ともない。
強いて言えば、面白味がない。面白味を犠牲にした上でその校風を貫いているのだとしたら、恐れ多い限りである。
清人がそんな母校の正門を潜ったのは、規定の登校時間から十分ばかり遅れてからの事だった。曲がり角で女の子と衝突した一件で完全に急ぐ気が失せてしまい、いっそ普段よりもゆっくりと歩いてきてしまった。
「どうせ走っても間に合わなかっただろうしな……」
故に、正門付近は非常に静まり返っていた。この学校に通い始めてから一年と一月ほどが経過しているが、登校した時に正門が静まり返っているという光景は、なかなか不気味な雰囲気を醸し出していた。
早く教室に行ってみんなの笑い者になってやろうと――何となしにそんな事を考えながら、静まり返っている昇降口で上履きに履き替え、清人が籍を置く二年A組の教室がある二階を目指すべく階段を上り――上りながら、首を傾げる。
――妙に静かだな。
ホームルームの時間とはいえ、先生の声ひとつすら廊下に聞こえてこないのは奇妙だった。何か学校に事件でもあったのだろうか? 脳裏を横切る一抹の不安が清人の足を速め、二階の廊下に到着する。
一番手前の教室――二年C組の入口を覗いてみたが、そこに生徒や教師の姿は誰ひとりとして居なかった。否応なしに増してくる焦燥感に駆られ、清人は急ぎ足でB組の教室も覗いてみたが、結果は変わらなかった。今日が平日なのは間違いない。何かの振替休日でもない。だったら、どうして誰も居ない?
A組の教室に急ぐべく走りだそうと――床を蹴ろうとして、清人はB組の黒板にでかでかと書かれてある白い文字に目を留めた。
『今日は全校朝礼あるよ。体育館へ』
生徒も教師も、ここに居なくて当たり前だった。
「……疲れてんのかなあ、俺」
落胆に満ちた清人の声が、廊下に虚しく響き渡る。何か事件でも起こったのかもしれないと――一瞬でもそう思ってしまった自分が酷く格好悪く、無意識に深い溜息が漏れ出た。
何はともあれ、理由は判明した。判明した上で、俺はどうするか。今からでも体育館に向かうべきかと――そう思いつつも、足は三年A組の教室へ向かっていってしまっている。身体は正直なものだった。
――大衆の面前で恥を晒す必要もないし、恥を晒して遅刻がノーカウントになる訳でもないし。だったら教室で予習でもしていた方が建設的だろう。
「まあ、予習するつもりも――」
あんまりないんだけどな――と、言い掛けた清人の言葉は、A組の教室に足を踏み入れようとした既の所で身体もろとも停止した。誰も居ないと思い込んでいた教室の一画に生徒が居たとなれば、驚くのも無理はないだろう。
――誰だよ?
ただし、そこに居た生徒が全く知らない女の子だったとしたら、それは清人の思考を停止させるのには充分すぎる理由となり得た。突発的という点に於いて、今朝がたの衝突事故を彷彿とさせたが、今回の女の子はこの学校の制服を身に纏っている。
だとしたら、教室の一番後ろで、かつ一番窓際の席に座って、ノートらしきものに黙々とペンを走らせている女の子は、一体何者なのか――と、ついつい難しく考えてしまうのが、清人の悪い癖だった。
――その女の子を知らないのは、彼女が転校生だからだ。今日からここが彼女の教室なのだから、そこに居る事に何ら不自然はないじゃないか。
「いや、あるよ!?」
自分で導き出した結論があまりにも馬鹿馬鹿しい。一人で突っ込みをいれてしまう程度には、馬鹿馬鹿しかった。
大ありだ。彼女が転校生だったとして、どうして今この教室に一人で居るのか。転校した経験のない清人には想像する他ないが、ホームルームが始まるまでは別の部屋で――職員室や校長室や――待機して、担任の教師と一緒にこの教室に来る、というパターンが定石だろう。このタイミングで教室に居る事に、何か意味があるのだろうか。そうだとしたら、清人が今ここに居るのは、彼女にとっては不都合かもしれない。
溜め息をひとつ吐いて、清人は止めていた足を再び動かして教室の中に入った。立ち往生して思考を巡らせても、答えが分からないのであれば仕方がない。本人が目の前にいるのだから、聞けばいいだけの事である。
――教室に女の子と二人きりなら、これはワンチャンあるかもしれないし。
などとくだらない事を考えながら、清人は女の子の隣――自分の席に腰を下ろした。
――じゃなくて……。
女の子に声を掛けようとしていたのに、何事もなかったかのように着席してどうしようというのか。その上――席に着くまで気が付かなかったが、教室の電気が点いていない。このままでは非常に暗い雰囲気なので、とりあえず電気を点けるべく席を立ち、教室を明るくしてから再び着席する。
――だから……そうじゃなくて……。
女の子に話し掛けたいのだが、どうしてか口から出てくる言葉が思い浮かばない。同じ教室で、隣の席に居て、二人きりで――あまつさえ彼女は転校生だというのに、ここまで会話が全くないのは、どう考えてもよろしくない。雨柳清人は人見知り、というイメージを与えかねない。それだけは避けるべきだ。
それなのに、彼女に話しかけるのは何となく躊躇われる。話し掛け辛いというか、話してはいけないような、そんな雰囲気を醸し出されているというか。彼女が全くといっていいほど清人に反応を示さないのも、声を掛け辛い要因のひとつとなっている。
そうだ。そもそも、それがおかしい。教室に一人でいる以上、他の人間が入ってくれば少なからず反応して然るべきだというのに、まるで清人が端から存在していないかのような振る舞いだ。
――それにしても……なんというか。こんな女の子は滅多にいないよなあ。
ちらと隣の席に座っている女の子を見遣り、思う。滅多にいないくらい可愛い――のであれば良かったのだが、実際にはその逆だった。いや、元は決して悪くない筈なのだが、手入れが殆どなされておらずボサボサの茶色い長髪が悪い印象を与えている。かなり視力が低いのか、掛けているメガネはレンズが大きい上に分厚く、その奥の瞳は底なし沼のように虚ろで、力がなかった。表情には愛想の欠片もなく、マネキンよりも可愛げがない。白い曲玉のような――獣の牙のような形状の物が数珠繋ぎになっている首飾りや、とても可愛いとはいい難いぼろ布で出来ているような腕飾りを身に付けているが――しかし、とてもではないがお洒落とはいい難かった。
――転校生は可愛いのが相場というのは、漫画やアニメの中だけの話だって事だよなあ。
「あれ? 雨柳じゃん」
怒られてもおかしくないくらいに失礼な事を考えていた矢先、教室の入り口から清人の名前を呼ぶ声が飛んでくる。清人がその方を向くよりも早く、「あー、雨柳君きてたんだ」「学校サボったのかと思ったぜ」「いやいや、キヨに限ってそれはないだろ」「委員長が遅刻かい」云々、男女様々他の生徒の声と――複数の足音が教室に入ってきた。どうやら全校朝礼が終了し、二年A組のクラスメイト達が帰ってきたらしい。
「勘弁してくれ。俺だって好きで遅刻したんじゃないんだよ」
見知った顔の挨拶に応える間に教室は普段の賑わいを取り戻していったが――それはいつも通りの光景の筈なのだが、清人にとっては違和感しかなかった。どう考えても、おかしい。
――だって、俺の隣には転校生がいるんだぞ?
今日から学業を共にする仲間である。興味がない訳がない筈である。それなのに、誰ひとりとして彼女の相手をする生徒がいない。あるいは授業の準備に取り掛かり、あるいは他の生徒と話し込み、あるいは黙々と携帯電話をいじり、普段の光景を限りなく忠実に再現してしまっている。いくら彼女が魅力的な人間ではないからといって、この扱いはやはりおかしい。
――それとも、朝礼の前に先生から紹介されていたのか? いやいや……。
仮にそうだとしても、彼女がひとりで教室に居る理由にはならない。となると、何か特別な事情があるのだろうか。虚弱体質で長時間に渡って立っている事が出来ないとか、人が密集している場所に居ると気分を悪くしてしまうとか――それならばいくらでも理由は考えられるし、彼女が大人しかったり、クラスメイトが近寄ってこないのにも合点がいく。
だが――だからといって、教室の片隅で放置されているという状況は余りにも酷すぎるというものだろう。転校してきたばかりの人間は、誰だって多かれ少なかれ不安を抱くもので、その不安を取り除いてあげるのが新しい仲間の役目だ。だから清人はクラスの学級委員として、率先して彼女と関わろうと思ったのだが――思い立った矢先、授業の開始を告げるチャイムが校内を蹂躙した。
それが鳴り終わるよりも早く教室に入ってきた教師は、数学を担当する江住先生――最近、産休を明けて教壇に戻ってきた、幸せ真っ最中な女性であるが、しかし。
「テストが終わって一安心できると思ったら大間違いだ! お前ら今日は抜き打ちテストやるぞ!」
江住先生と会う生徒に幸せは訪れない。先生が満面の笑みを浮かべれば、教室内は阿鼻叫喚に包まれる。若い上に美人で男子生徒の憧れで、しかし本気で殺しに掛かっているとしか思えないような授業内容を恐れている生徒は多い。転校生の彼女にとって、最初の授業が抜き打ちテストとは非常に酷である。
――そう言えば、転校生の名前をまだ知らないな。
今更すぎるように思える疑問だが、テスト用紙を容赦なく配られてしまっては彼女の名前を確かめる術はなかった。休み時間に聞き出すとして、今は眼前のテストに集中するしかないと――そう決意した清人だったが、
「制限時間は二十分ねー。それじゃあ、はい。気合い入れて掛かりな!」
「な……」
テスト用紙に羅列されている問題文を見、思わず驚きの声を漏らしそうになった――否、漏らしてしまった。抜き打ちとはいえ、昨日まで試験勉強に勤しんでいた身である。苦手な数学でもどうにかなるだろうと、そう踏んでいたのたが、出題されたのは今回の試験範囲とは全く関係のない箇所――しかも、一年の時に習った内容だった。この試験内容に驚いているのは清人のみではないようで、微かなざわめきが教室内に発生する。
そんな生徒達の様子を眺めながら楽しげな笑みを称えている江住先生は流石というべきか。マゾヒストな男子生徒ならご褒美に等しいかもしれないが、残念ながら清人にその気は微塵もない。ただただ迷惑なだけだった。
「先生……このテストって……」
男子生徒のひとりが、控えめな声と共におどおどとした調子で手を挙げるも、「何? 文句あるの?」と、一蹴されてしまった。それがきっかけとなったか、ざわついていた教室はしんと静まり返る。ペンが紙面を走る音と、隣の教室から聞こえてくる教師の声をBGMにして、清人も設問に取り掛かったが、
「…………!?」
ガタ――と、イスが動いたような、誰かが立ち上がったような、少なくともテストという状況下ではあまり聞かない音が左隣の席で鳴った。何事かと思ってちらと隣を見遣ったが、何故か立ち上がっている彼女を見た所で何が起こっているのか全く理解できなかった。テスト用紙は、もちろん白紙。
――もしかしたら、気分が悪くなったのだろうか。
そうだとすれば、先程の虚弱体質説がいよいよ有力となってくる。だが、彼女は無言で清人の後ろを通り過ぎて教室の出入り口に向かい――それに対して、江住先生は何も言わない。今、この教室で最も目立つ行動をしている筈なのに、先生は疎か他の生徒も誰ひとりとして反応しない。明らかに、何かがおかしい。
「ちょ――ちょっと……」
「雨柳ぅ……?」
彼女を呼び止めようとした清人に、江住先生の鋭い剣幕が突き刺さる。その手に握られている白、赤、青、黄、四本のチョークには、果たしてどのような意味が込められているのか。
「好きな色を選びな。お前の眉間に直撃させてやるよ」
「……遠慮しておきます。ハハ」
清人が苦笑を浮かべている間に、彼女は教室から姿を消してしまった。彼女こそチョークを投げるべき相手だというのに、江住先生は一瞬たりとも彼女に目を向けようとしなかった。
初めから、存在していないかのように。
――まさか、転校生は……幽霊だとでもいうのだろうか?
教室の出入り口を呆然と眺めている清人の眼前を、白いチョークが風を切って通過した。
「お前……お前、そんな訳ないじゃん!」
後にチョーク・スナイプと呼ばれる事になる江住先生の第二波がいつ来るのか分からない恐怖に怯えながら一時限目が終了し――休み時間を迎えた清人は友人に転校生幽霊説を熱弁した。結果、腹を抱えて爆笑された。
「そんなに笑うことは無いだろう。つーか、だったら何でみんなガン無視を決め込んでるんだよ。おかしいだろ」
一頻り笑ってから、友人は小難しそうな表情に切り替えて、「うーん」と唸る。笑いすぎて目に浮かんでいる涙のお陰で、ふてくされているように見えなくもなかった。
その友人――香坂迅太は、清人が中学一年の頃から勉学を共にしている、一番の友人にして唯一無二の親友である。中学時代は専ら野球一筋、坊主頭がトレードマークの男で、高校に上がったら甲子園を目指すのだろうと――清人は当然のようにそう思っていたのだが、迅太は野球部の引退と同時に野球を辞めてしまった。
本人曰く、「野球をやってもモテなかったから」
不純極まり無い動機で野球をしていた迅太が現在所属しているのはテニス部である。モテたいという動機だけで違うスポーツが出来る程度に迅太は運動神経が優れており、大会でそれなりの成績を上げているという話を清人はよく耳にしている。
ただし、モテたという話は一度たりとも聞いてない。
「なんつっかーさあ、あいつ……近寄り難いというか、話しかけ辛いというか……いや、もっと根本的な何かというか、嫌な予感がするというか」
江住先生が黒板に残していった落書きのような数式を睨みながら、迅太は頭を掻きむしる。野球を辞めてから髪を伸ばし始めている彼の頭は、中学時代を知っている清人からしてみれば気味が悪い。
「どうした。お前にしては歯切れが悪いな」
「でも、みんなそう思ってると思うぜ。とにかく、あいつとは関わり合いにならない方がいい。あいつの方だって、俺たちから避けているような節があるんだし」
言いながら、迅太は彼女の席がある方を見遣り――清人もその視線を追うが、そこに転校生の姿はない。一時限目の抜き打ちテストが始まってから間もなくして何の許可もなしに教室から去っていってしまったまま、戻ってきていない。生徒の行動としては、限りなくありえない。
「まあ……話しかけ辛いというのは分かる。俺も隣の席に居たっていうのに、一言も会話できなかったからな。だけどよ、あの江住先生すら何も言わなかったって、そんなのありえるのか?」
「確かに、あの江住先生が何も言わなかった時は内心すっげー驚いた。でも、あの江住先生が何も言わなかったって事は、先生達の間で何か口裏を合わせているのかもな。二宮先生も、名前くらいしか紹介してくれなかったし」
担任の二宮先生。お喋りとお茶が大好きな先生なら、転校生のプライバシーを侵害する勢いであることないこと喋っても不思議ではないが。
「あの転校生には関わるな……ってか?」
教育者として、そのような事が許されるのだろうか。許されているのだとしたら、転校生は一体何者なのだろうか。真相を知るには、先生に訊くという手段が最も手っ取り早いだろうが、果たして清人の望む答えを得られるのだろうか。
「何にせよ、深入りしない方が身の為だと思うがな、俺は。委員長という立場上、清人はそうはいかないのかもしれないが……」
「深入りするなとか、関わり合いになるなとか、まるで扱いが犯罪者だな。どう見たってあいつは……」
普通の女の子だろ――そう続く筈だった言葉は、彼女の容姿を思い起こした清人の口から出てくる事は無かった。手入れされている感の無いボサボサの長髪、視力の悪さを思わせる分厚いレンズの眼鏡、果てが見えない底なし沼のように暗い瞳、何を意図して身に付けているのか分からないアクセサリー云々。どれを取っても――どれか一つだけならまだしも、全て揃っているとなれば普通とは言い難い。
「……とにかく、だ。授業を抜け出したまま戻ってこないというのは生徒としてよろしくないだろう。次の授業が始まるまでに捜して連れ戻してくる。えーと……彼女の名前、なんだっけ」
「飛鳥璃鈴。飛鳥時代の飛鳥に、瑠璃色の璃、最後は鈴」
「そうそう、飛鳥……りりん?」
「お前、彼女の名前知らなかっただろ」
転校生の名前を失念した体で聞き出そうという清人の作戦は、一瞬にして看破される。
「……はっ、お前、俺を誰だと思ってやがる。クラスの誰よりもみんなの事を考えている委員長だぞ? みんなの名前はもちろん、住所や成績、交友関係、健康状態、趣味、好きな食べ物、スリーサイズ、その他諸々把握している」
言いながら、清人は教室を後にする――もとい、逃げた。「そんな気持ち悪い奴は俺の友人にはいない」という迅太の言葉は、聞かない事にした。清人自身も、そんな気持ち悪い奴は知らない。知らない人間の話に、何の意味があるというのだろうか。
廊下を歩きながら、清人は転校生の行方に思考を巡らせる。虚弱説が生きているのであれば保健室という線が有力だが、迅太の話の中でそのような情報は全く出てこなかった。体調不良以外の理由で教室を抜け出したとなれば――サボタージュくらいしか思い浮かばないが――図書室か、屋上か。授業で使う可能性のある教室は考えられにくい。
もしくは、帰ってしまったか。
「流石にそれはないと思うけどな……」
何をしに学校に来たのか全く分からないし、彼女の席には鞄が残っていたと――朧気ではあるが清人は記憶している。
次の授業までに残されている時間は多くない。まずは最初に候補として挙がった保健室、図書室、屋上の三カ所を捜索し、見つからなかった場合は――諦める他ないかもしれない。他の生徒に聞き込みを行う手間は、出来れば掛けたくない。
「ここから一番近いのは……屋上か」
一年の教室がある三階へ続く階段を上り、そのまま屋上へ続く階段に足を掛ける。危険性を考慮して、屋上の扉は施錠されているという学校は少なくないが、この学校にそのような制限はない。よく言えば開放的、悪く言えば不用心。
重い扉を押し開けた先に、周囲を高いフェンスで囲まれた何も無い空間が広がる。後ろ手に扉を閉めれば、耳に届いてくるのは吹きすさぶ風の音のみとなる。早朝は雲ひとつない快晴だったと記憶しているが、見上げてみた空には僅かに雨雲のような薄暗い雲が掛かっており、風も確実に強さを増している。今日の天気は下り坂かもしれない。
空模様を確認しに来た訳ではない。尤も、ここには誰もいないのは見れば分かる事だった。昼休みや放課後であればそこそこの賑わいを見せている屋上も、休み時間という短い時間に訪れる人間はそうそういないという事だろう。
問題の飛鳥璃鈴がこの場にいないと分かれば、いつまでもここに留まっている必要はない。ここから最も近い図書室へのルートを脳内に描きながら屋上から立ち去ろうとして――清人はフェンスの一角に視線を凝らした。
――何か、変なのがくっつてるな。
間違い探しレベルの些細な違いで、ともすれば見落としていてもおかしくないそれを「変なの」と称してしまったが、歩み寄って確認したそれは手のひら大の人形だった。携帯ストラップよろしく、フェンスの金網に紐で結び付けられているその人形が遺失物だとしたら、事務室に持っていくべきなのだが、触るのは少しばかり躊躇われた。
「なんというか……趣味がよくないな……」
人の姿を象っているそれには、四肢と思しき箇所に釘のような物が貫通している。肌色の胴体には文字らしき小さな記号の羅列で埋め尽くされており、嫌悪感を抱かずにはいられない程度に気味が悪い。
さながら呪いの藁人形か――連想したイメージと目の前の人形で一致している部分はごく僅かだが、清人のインスピレーションではその例えが限界だった。一致しているのは人の姿を象っているものに釘が打たれているという点のみで、それを除けばただの人形。ただの――と形容するには無理があるデザインだが、少なくとも藁でできてはいない。
数拍の逡巡を経て、清人は人形に手を伸ばす。見なかった事にしてもよかったのだが、遺失物の可能性がある以上は事務室に届けておいて間違いはない。保健室に向かう序でに寄れる場所であれば、大した手間でもなかった。
――筈だったのだが、
「――っな!?」
清人の指が人形に触れる既の所で、それは何の前触れもなしに発火した。驚きの声を上げながら手を引っ込める間に炎は人形を包み込み、一瞬にして燃えカスと化していく様をただただ呆然と見ている事しかできなかった。
何かの装置が働いたのか。それとも現代科学では証明できない超常現象が起こったのか。脳裏に焼き付いて離れないヴィジョンを延々とリピートしてみた所で原因が分かる訳も無かった。風に吹かれて床を滑るように飛び、足元を通過していく炭を何となしに目で追っていった清人は、振り返った先――屋上の出入り口に佇んでいた人影に対して、肩を震わせた。
「飛鳥――璃鈴」
見間違える訳が無い。ボサボサの茶髪は、風に吹かれて更に尚ボサボサになっているが、それでも見間違える訳がない。右手に黒いノートを抱えている彼女は、分厚いレンズの先にある目を清人に向けていた。それは教室で見た時とはまるで別人のような――刺すような剣幕で、確実に怒りを孕んでいると分かった。
捜していた相手が向こうから出てきてくれたのはこれ以上ない吉報だというのに、素直に喜ぶ事ができない。女の子と目線がかち合っただけ――睨まれただけだというのに、呼吸が詰まるような感覚を実感とした。女の子と向き合っているだけだというのに、もっと危険な――猛獣か、それ以上にもっと恐ろしい化け物か何かと対峙しているような、そんな錯覚に陥りそうになる。
無意識に一歩後ずさった清人の身体が、背後のフェンスに衝突して金属音を立てる。大して暑くもないのに、全身から吹き出ている嫌な汗が不快極まりない。授業中に何の断りもなしに教室から抜け出すのはよくないと――言わなければならない口から出てくるのは荒い呼気だけだった。
結果として璃鈴の出方を窺う形となってしまったが、そのまま数分が経過してから構内に鳴り響いたチャイムと同時に、彼女は踵を返して屋上から姿を消してしまった。それはいい状況とは言い難いのだが、誰もいなくなった屋上で、清人は安堵の溜め息を漏らす。
「何だったんだ……あいつは……いや、俺がどうかしてたのか……?」
まともに言葉を交わした事がないから話し掛けるのに躊躇われた――などという理由は通用しない。確実に声を掛けるつもりでいたのに、しかしそう思えば思う程に「話し掛けてはいけない」という予感めいたものが身体の自由を許さなかった。理屈で説明できるようなものではない。
――あいつ……近寄り難いというか、話しかけ辛いというか……いや、もっと根本的な何かというか、嫌な予感がするというか。
教室で交わした迅太の言葉の意味が、何となく理解できた。飛鳥璃鈴には関わらない方がいいという警告は、あながち間違っていないのかもしれない。だが、彼女の席は清人の隣で――否応なしに近寄ってしまう事になる。今朝がたに何もなかったのが不思議なくらいだった。
「教室に戻っていなければいいんだけどな……」
考えている事が当初と真逆である。
兎にも角にも、授業が開始する時間を迎えてしまっている以上、早く教室に戻らなければならない。璃鈴とはもう目を合わせまいと固く決意しながら教室に戻ろうとして――何となしにフェンスの外を、校外をぐるりと取り囲む道路の一画を見遣った清人は、踏み出した足を停止させた。
「あいつは……」
三百六十度という視界の中で、その一点だけを見遣った理由があるとすれば、それは偶然としか言いようがない。故に、そこにいた人物は偶然その場所にいたのだと――強引な解釈をする他なかったのだが。
その人物は――今朝がた曲がり角で衝突した彼女は、清人を見上げながら口元に笑みを浮かべた、ような気がした。数十メートルという距離で、相手の明確な表情など分かる筈もない。その人物が本当にあの女の子かどうかも怪しく、身に付けている制服が自分の記憶と一致していたというだけで、清人は相手の顔を知らない。
判断材料は乏しい。気のせいという可能性は十二分にある。それでも、そう見えてしまった清人は気味の悪さを覚えずにはいられず、駆け足で屋上から逃げ出していた。
あまのじゃく、という妖怪が昔から言い伝えられている。
その手の怪奇譚に疎い人間でも、名前だけなら一度くらいは耳にした事がありそうなくらいにはメジャーな妖怪である。
人の心を読み、悪戯を仕掛ける妖怪。そこから転じて、周囲の意見に敢えて反対するような人を、あまのじゃくという妖怪に例える。
ならば飛鳥璃鈴はあまのじゃくのような人間ではなく、あまのじゃくそのもの――妖怪なのではないのかと、自分の隣の席に座っている彼女を見、清人は苦虫を噛み殺したような表情を浮かべた。
――こいつは、俺に嫌がらせしようとしてるのか?
尤も、それは清人の思い込みであって、授業中に生徒が教室にいるのは普通であって、何の問題もない。寧ろ清人が望んでいた事である。
平静を装って璃鈴の隣――自分の席に着いた清人は、何事もなかったかのように机から教科書やノート、筆記用具を取り出し、授業に集中できないだろうと思いつつ黒板の文字を書き写す。
集中力が切れるまで五分も掛からなかった。寧ろ、よくも五分保ったものだと自画自賛したくなるくらいだった。鋏で何かを切っているような音が――少なくとも、国語の授業中にはあまり耳にしないような音が隣から絶え間なく聞こえてきては、集中したくても出来ない。普段通りに授業を受けている他の生徒の気が知れなかった。
――何を作ってるんだ? いや……何で作っているんだ?
裁縫道具を堂々と机の上に展開して、璃鈴は布を裁断している。それだけならまだいい。よくないが――百歩譲って、まだいい。ぬいぐるみを作る趣味があるのだとたら、それはとても可愛らしい趣味だと好感を持てた、かもしれない。だが、彼女が裁断している肌色のそれは、明らかに人の形を象っている。屋上のフェンスに括り付けられていた気味の悪い人形と、寸分違わず同じ形をしていた。
偶然と言うには無理がある。屋上に璃鈴が現れたのも、奇怪な人形が謎の発火を遂げたのも、それが彼女の物だったのであれば、一応の辻褄が合う。目的も原因も一切が不明だが、飛鳥璃鈴は何かを仕掛けようとしている。
――だとしたら、何を?
ふつふつと涌いて出てくる疑問は、本人に問い質せば解決できるかもしれない。手を伸ばせば届く距離に居る――隣の席という、これ以上なく近い距離に居るのだから、声を掛けるのは容易い筈である。彼女だって、国語の授業中に裁縫という常識外れの行為をしているのだから、声を掛けられても文句は言えないだろう。
そう思いながら――何度も何度も同じ事を考えながら、清人は人形が作られている光景を呆然と見ているだけだった。人の形をしている二枚の布を縫い合わせ、裏返しにしたそれに綿が詰め込まれる。普通のぬいぐるみを作るのであれば、次は服を作るのか、あるいは顔のパーツを作るのかもしれないが、璃鈴が裁縫箱から取り出したのは黒いペンだった。文字のような、暗号のような、記号のような小さい模様が肌色の布を埋め尽くしていけば、それは屋上で見た物とほぼ一致し――最後に人形の頭であろう部分に紐が付けられると、完全に一致してしまった。
実に見事だと――認めたくはなかったが、一切の迷いが見受けられない手際のよさだけは確かだった。見入っていたから、声を掛けられなかった――という訳ではないのだが、
「雨柳……」
至近距離から声を掛けられるまで、先生の存在に気が付かなかった。国語を担当する荒巻先生が瞳に怒りを孕めば、それは冗談抜きで怖い。ヤクザの荒巻という教員らしからぬ異名を有する四十過ぎの男が身に纏っている派手なアロハシャツは、目に悪い。
「すいませ――」「誰がヤクザじゃ」
愛想笑いを浮かべようとした清人の脳天に、教科書の背表紙が叩き込まれる。そんなことは一言も言ってないと――抗議すれば問答無用でもう一撃が来る恐れがあり、故に痛みを堪えながら正直に「すいません」と謝罪するのみだった。
授業を聞いていなかったのは事実。
「俺の授業を聞かないとか、随分と余裕じゃねえか。ネタバレすると、今回のお前のテストは赤点ギリギリだったからな。解答を書き換えて赤点にしてやってもよかったんだけどな。委員長なら、みんなの模範になってみせろよ」
そんな成りをしている先生にはあまり言われたくないんですが――とは、やはり言えなかった。
「いや……ですが先生。ですけど先生。授業を全く聞いていない人間なら他にもいる訳でして……それを看過するのは、いかがなものかと思うんですよ」
ちらと隣を見遣った清人の視線を追った荒巻先生は、しかし数拍の間を置いてから「お前は一体何を言ってるんだ」と、教科書の背表紙で更なる一撃を繰り出してきた。痛みが治まらない脳天に与えられた更なるダメージは、言葉を失わせるには充分だった。清人がメンタルの弱い人間だったら、体罰として大問題になっているかもしれない。
先生こそ何を言ってるんですか――とは、やはり言えなかった。
「……すいません。委員長として皆の模範となるよう、勉学に勤しみたいと思います」
それでいい、と満足気に頷いてから教壇に戻っていく荒巻先生を横目に、清人は険しい視線を璃鈴に送る――が、彼女は素知らぬ顔で二体目の人形制作に取り掛かっている。
授業を聞いてなかった人間が注意されるのは当然として、授業を受ける気が全くない人間が無視される。幽霊説は否定されている。転校生がいるという事実は、みんなが認めている。
――だとしたら。幽霊ではないのだとしたら? 怪異か何かの類なのか。本当に、妖怪なのか?
受け取る人間次第で姿形が変わる妖怪変化なのだとしたら。他の生徒には、璃鈴は真面目に授業を受けている――少し近寄り難いだけの女の子に見えているのかもしれない。
「……なんてな。馬鹿馬鹿しい」
痛みが治まらない頭を撫でながら小声で呟き、清人は再び黒板に羅列している文字をノートに書き写す作業に戻る。璃鈴は気にするだけ無駄だ。気にしてから今まで――まだ半日も経過してないが、ろくな目に遭ってない。周囲と無干渉を貫くつもりなのだとしたら、それに併せてやるのが優しさになる場合もあるだろう。
それよりも優先すべきは、授業の遅れを取り戻す事だろう。今まで秘匿してきたが、国語が苦手で赤点寸前という情報がクラスメイトに露見してしまった以上、これ以上の成績の低下は避けなければならない。高校に入学してから積み上げてきたものを、無にしたくはない。
「あ――」
机の上の消しゴムを取ろうとした手が、勢い余ってそれを弾き飛ばしてしまい――床に落下する。予測できない動きで跳ねたゴムの塊は、あろうことか璃鈴の机の真下、彼女の足元に到着した。
――取ってくれないだろうなあ。
璃鈴は相も変わらず人形制作に勤しんでおり、黒いペンで人形に文字を刻んでいる所だった。今まで無干渉を貫いている彼女の事である。無言で消しゴムを回収しようとした所で何も言われないと思うが――しかし、女の子の机の下に潜り込むのは流石に抵抗があるというものだろう。
もしかしたら――机の下に潜り込もうとすれば、何かしら反応を示してくれるかもしれない。形としては最悪だが、それがきっかけでコミュニケーションを取れるのであれば、寧ろこれは絶好のチャンスではないのだろうか。
――等と逡巡していると、不意に璃鈴が作業の手を止め、椅子ごと身体を退いた。何をするつもりなのかと思ったが、何て事はない、消しゴムを拾い上げただけだった。世界から切り離される事を望んでいるような女の子が、自ら手を差し伸べてくる。消しゴムを拾っただけの単純な動作だというのに、清人は感動しそうになった。
教室の窓を開け、璃鈴は俺の消しゴムをそこから投げ捨てた。
――あれ……?
世の中、捨てたもんじゃないと。そう思った矢先に起きた衝撃の出来事は、清人の言葉を失わせた。
事件である。自分の所有物を無断で――あまつさえ投げ捨てられたのだ、これ以上の事件はない。故に、何食わぬ顔で人形制作に戻ろうとする彼女に対し、清人は初めて相手の名前を口にした。
「飛鳥」
その言葉に怒気を孕んでいた訳ではない。怒るまいと決めていたし、実際に発した声は自分で聞いても平静そのものだった。どういうつもりなのか問い質そうとしただけなのに――その為に名前を呼んだだけなのに、璃鈴はか弱い小動物のように肩を大きく震わせた。清人を見遣る目には驚きが満ちており、どうして声を掛けられたのか分からないと――そう訴えているように見受けられた。
自分に非は全くない筈なのに、言いしれぬ罪悪感のようなものが清人の思考を麻痺させる。そうして何も言えないままでいると璃鈴は何か言い掛けた口を閉ざし、清人の脇を通り抜けた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いたのは、彼女が教室を後にしてから間もなくしてからの事だった。