大切なものを守る勇気を
ずぶりずぶりとまどろみの中に沈んでいく感覚がした。意識上はこれからやることを考えなくちゃって思ってるのに、体は私が思っているよりも疲れていたようで意識が完全に夢の中に沈むまでそう時間はかからなかった。
ふと、気づけば目の前に数学の教科書とノートが広げられた。ノートに書かれた問題には赤いペンでチェックがいっぱいつけられたそれ。思わず深い深いため息が出る。
「ちゃ、ちゃんと。ゆっくり解けば・・・・・」
わかるかもしれない。そう呟こうとした声はだんだんと尻すぼみになって独りぼっちの教室に沈んでいった。
定期テストの数学の結果が最悪なのは目に見えていた。
私の脳に関しては理数系が向いていないことは元々分かっていたことだった。だから早めに勉強しようと思ったんだけど、ここまで酷いとは・・・・・。自分の脳みそながら信じられない。
でも。良い点がとりたいんだ。昔からのちょっとした憧れを、叶えたいんだ。
中学3年も終わる頃。私は坂田家に引き取られた。
私みたいな成長しきったのが引き取られるのは、園ではとても珍しいことだった。ましてや坂田さんは私の血縁でもなければ、なんの関係もない人だ。そんな赤の他人がいきなり家族になろう、とやって来たのだ。戸惑うのも仕方が無いだろう。
最初は何か思惑があるのかもしれない、と警戒した。でも、あの家の人たちはどこまでも優しくて、私の疑いで凍りついた心を溶かしてくれた。そこには何の思惑もなくて、ただ家族になりたいという意思しか感じられなかった。
けれども、私が引き取られたのは中学3年生の終わる頃。ほとんどが進路を決め、卒業を待つばかりの頃だった。当然自分の学力的にも、園のお財布的にも高校に入ることはないだろう、と思っていた。けれども、私の義母に当たる霞さんの提案によって、私は急遽高校に入ることが決定したのだ。入ったのは霞さんの知り合いの高校で、ちょうど枠も空いていたので滑り込ませてもらったらしい。
思いもしなかった。自分も他のみんなみたいに高校に通えるなんて。
嬉しかった。それに、中学の時と違って私には家族が居た。本当の家族だ。そう思うと、幼い頃から憧れていたものに、私の意識は向いた。
小学生の頃。テストで良い点をとったクラスメイトの女の子が、両親から褒められてご褒美を買ってもらった、と自慢していた。羨ましくて、小学生ながら教科書を開いて勉強した。まぁ、小学生のテストなんてたかが知れてるけど、私なりに必死だった。
その後にしたテストでは、我ながら良い点がとれた。喜びながら足を急がせた帰り道。
でも、ふと思ったのだ。
私はこのテストを、誰に見せて褒めてもらえば良いのだろう、と。その時の私にとっての母親は園の先生だったけど、それはそれでなんだか違う気がするし。
結局頑張ったそのテストを私は誰に見せるでもなく、棚の奥にしまった。
別に、ご褒美が欲しかったわけじゃない。ただ、褒めてもらいたかった。自分の努力を、誰かに認めてもらいたかった。それだけだったんだと思う。
だからこそ、小学生の頃のリベンジとばかりに勉強にも熱が入る。
まぁ、しょっぱなからこの調子では、結果はあまり芳しくないかもしれないが。
赤ペンで答えを見ながら再度問題を解こうとする。やっぱり分からない。最早何が分からないのかさえ分からない。
思わず頭をかかえて机の上に伏せる。なんだよこれ詰んだ。
「うーうー唸って何してんだよ。新手の儀式かなんかか。」
「・・・・違うよ馬鹿トキ。」
ひょい、といつの間にか前の席に腰掛けたトキの顔が覗く。てか、儀式ってなんですか。魔法使いの頭っていつもそんなことしか考えないんですか。
「・・・・テスト勉強。」
「そんなのまだ先だろ。」
「私は馬鹿だから早めにやらなきゃいけないの。」
「自覚があったとはびっくりだな。」
なんだろうコイツ。ただ私のこと馬鹿にしに来ただけなのかな。まじで腹立つんですけど。
イラつきを押さえられない私に、トキが勝手にシャーペンをとってペン回しを始める。まじでなんなんだコイツ。
「トキ、私は暇じゃないんだよ。お勉強中なんだよ。」
「見りゃ分かる。」
「だったらシャーペン返してよ!」
思わず声を荒げた私に、トキがちょっと動きを止める。それからわざとらしく深いため息をつくと、私の後頭部を掴んで・・・・・・
思いっきり頭突きしやがりました。
ちょ、え、なんで私頭突きされたの。意味分かんないんだけど。
一瞬硬直した私に、温かいものが流れ込んでくる。最近慣れたそれはトキの魔力で、私は何らかの魔法をかけられたらしい。気分がどんどん落ち着いてくるのを感じて、私は小さく息をついた。
「・・・・・・落ち着いたか?」
「・・・・・・うん。ありがと。」
あわせたままだったおでこがようやく離れる。後で赤く腫れてないか確認しとこう。
ぽんぽんと私の頭を撫でてから、トキは私に言い聞かせてくれた。
「焦るな。まだ時間は十分にある。」
あぁ、私はいつの間にかこんなにも焦ってたんだ。そりゃもうトキに八つ当たりしてしまうくらいには焦ってた。
「・・・・・ありがと。」
お礼を言えば、トキは何も言わずに数学の教科書をペラペラと捲り始めた。そして間違った問題の横に正しい答えを書きながら、丁寧に私に説明してくれる。
いつもこうだ。いっぱいいっぱい私に何かしてくれるのに、私はトキに何一つ返せてない。いつもお礼を言うことしかできない。少し前から溜まり始めた私の小さな悩みは、今では大きな山となってここ最近の一番の大きな悩みになっていた。
「強く、なりたい。」
「・・・は?」
思わず漏れた言葉に、トキが怪訝そうな顔をして見る。声に出すつもりなんてなかったのに。慌てて意味も無く両手を振って弁解しようと思ったけど、上手く言葉が出ない。
「あ、あのね、私はただの人間だからっ・・・・ト、トキみたいに魔法使いじゃないし、勉強も出来ないし。だから、トキに並べるくらいの力が欲しい、って・・・・思ったの。トキが、頼ってくれるくらいに、強くなれればいいのになって。」
そんなの、無理なのにね。
曖昧に乾いた笑顔を浮かべれば、トキは一瞬だけ表情を翳らせてから持っていたシャーペンを置いた。トキはいつも無表情で何考えてるか分からないけど、ここまで明らかに表情が変わることは珍しい。
「・・・・・強くなんて、ならなくていいよ。」
「え?」
ぼそりと聞こえた声はきっと勘違いじゃない。でも、私だって恩返しがしたいのに、このままじゃ嫌なのに。さすがに真っ向から否定されて、私の気分も落ちてしまう。
「・・・・・なんで?なんで、私が強くなりたいって思ったらだめなの?」
聞こえてないと思ってたのか、ちょっと目を見開いたトキは少ししてから私に話した。
「強くならなくていい。強くなろうとすれば、きっと多くのものを失うことになる。力を求めることは、そういうことなんだ。」
「わ、分かんないよ。でも、弱いままじゃ嫌なの!わ、私っ未だにスライムすら倒したこと無いんだよ!?」
トキと異世界に渡った時。私はいっつも守られてばかりだった。
トキに一緒に異世界に渡らせて欲しいと頼んだのは私だ。色んな世界を見たかったこともあった。最初に出来た友達として、もっと色んな場所へ一緒に行きたいと思ったのも確かだった。
でも、一番は。
トキに、頼って欲しかったんだ。
「力を・・・・・求めることって、悪いことなのかな?」
「悪いことじゃない。だけど、それをすることによる対価を自分で支払わなければならなくなる。」
「・・・・・たい、か?」
放課後の教室に私の間の抜けた声が響いた。いつもと同じ教室なのに。いつもと同じ放課後の夕暮れなのに。どうして、こんなにも寂しく響いてしまうんだろう。
「対価は、自分の中にある何かだ。俺は幼い時に大きな力を求めすぎた。力の制御なんて幼い俺に出来るわけもなくて・・・・・俺は、大切な人たちを、自分の故郷を・・・・失った。」
力なく呟いたその言葉の中には、滅多に話されることのないトキの過去が詰まってた。トキが、たった1人で居る理由が、そこにはあった。
「・・・・失った、って・・・?どういう・・?」
「守ろうとして、失敗したんだ。故郷は塵となったし、大切な人たちが今生きてるのかすら分からない。何もかも。失くしたんだ。」
高校生で1人暮らしをしていることについては、珍しいとは思ってた。その理由が、通うのが難しかったからとか、そうじゃなくて。
そもそも、家族なんて居ないなんて。そんなこと、誰が気づけるだろうか。
「血の匂いが辺りに充満してて、酷く息苦しかったのだけはよく覚えてる。」
”血の匂いと人々の悲鳴””冷たくなった小さなドラゴン”
ふいに、頭の中に何か見覚えのある映像が流れて、私は思わず息を止めた。そして、当然のようにまた気づくのだ。
あぁ、これも夢なのか。
これは、懐かしい私の少し前の記憶だ。そう、トキが目の前に居るわけもなくて、ただの私の願望による夢だ。
そして、トキはこの後私に言うだろう。
「ヒヨが強くなりたいなら。何かを守りたいなら。その1つを守るために自分の全てを捨てることを覚悟しろ。」
トキの声が、言葉が、今でも鮮明に思い出せる。
「守るために、誰かの命を奪うこともあるかもしれない。だからこそ、そうして人としての大切な何かを失うことを覚悟しなきゃいけない。」
冗談染みてないその言葉に、当時の私は無言で頷いた。そうしたら、トキは私を安心させるように頭を撫でて、勉強を再開するんだ。
でも、今はあの時とは違うんだ。
私は、今覚悟しなきゃいけないんだ。大切なものを守りたいから。オズワルドさんの、大切な一生を守りたいから。人としての大切な何かを失うことを。自分の手が真っ赤な血で汚れることを。覚悟しなきゃいけないんだ。
「トキ。」
「あぁ、悪いな。空気重くなるような「私にも、できると思う?」
たとえ、人を殺してしまっても。大切な、異世界で出来た友達を。
「守ること、できるかな?」
震えそうになる手を握り締めて、真剣な顔をしてトキに尋ねる。所詮これは記憶の中のトキで、ここに居るトキは私の脳が勝手に作ったもので。まともな答えが返ってくるなんて思っては居なかった。
でも、トキが大丈夫って言ってくれたら大丈夫な気がするんだ。
トキが口を開きかけた時。景色がぐにゃりと曲がった。
夢が、終わる。私の目が覚める。
せめて質問の答えだけでも聞きたいのに、私は妙な浮遊感を味わってどんどん暗い底に落ちていってしまう。
「待って!答えだけでも聞かせて!!お願いだから!!」
叫んでも叫んでもトキは何も言ってくれなくて。ただ、もう教室も何もなくなって辺りが真っ暗になると、ふいにトキの声が聞こえた気がした。
『大切なものを捨てる勇気を持て。』
ただ一言。トキはそう言った気がした。
私に出来るとも出来ないとも言わずに。そう、私に静かに告げたのだ。
目が覚めると、私は泣いていた。
トキに会えたのが嬉しかったのか。それとも人を殺すかもしれないことに恐怖したのか。なぜなのかは分からなかったけれど、涙が止まらなかった。
『ヒヨリ?』
「・・・・・・だいじょうぶ。」
心配そうにこちらをのぞきこんでくるセル。顔をごしごしと服の袖で拭うと、2回くらい深呼吸した。
覚悟を決めろ。
守りたいのなら、その分の対価を支払う勇気を持て。それがたとえどんなに大きなものだったとしても。それがたとえ人としての大切な何かだったとしても。
守りたいのなら。
それを全て捨てる勇気を持て。
『怖い夢でも見たのですか?』
無言で首を振ってから、口を開く。
「・・・・・友達にね、教えてもらったの。大切なものを守る勇気は、それと同じくらいに大切なものを捨てる勇気と同じなんだって。」
セルがまた悲しそうな顔をするから、私はつられて笑ってくれるように満面の笑みを浮かべて見せた。
「私、ちゃんと勇気を持てるよ。」




