待ってて
まるで底なし沼にひたすら落ちていくようだった。あがいてもあがかなくても、そのまま下へと落ちていく感覚だけが続く。
ドラゴン達を逃がして、それから、それからどうしたんだっけ・・・・・?あぁ、そうだ。矢で打たれて血がいっぱい出て、意識を保つのすら難しくなって。
ぽつりぽつりと思い出し始めた瞬間、体が急に重たくなってストンと何かが落ちたような気がした。
「・・・あれ?」
気づけば辺りは明るくなっていて、私はもとの世界の家の近くにある橋に立っていた。
ついさっきまで異世界に居たことが嘘みたいに、私はごく自然にそこに立っていたのだ。
意味がわからない。私はどこも怪我してないし、身体に不調は感じられない。
疑問で頭が埋め尽くされていくけど、その疑問を解く前に私の身体は自然と走り出す。トキの家もこの近くにある。何度か遊びに行ったことのあるその場所へ私は向かっていた。
とにかく。トキに会いたかった。
これが夢じゃないって証明してほしかった。
トキに
会いたい。
ひたすらその想いだけで短距離ランナーみたいに走った。
トキが1人で住んでるアパート。学生が1人暮らしするには少々豪華すぎるのではないか?と思えるようなその場所に、トキは1人で住んでる。部屋の中には家具とかよりもとにかく本が溢れてて、ベッドといえばソファと毛布が置いてあるだけ。
そんな殺風景なその場所に、トキは居るはずだ。
荒い息を落ち着かせながら、玄関前で立ち止まる。この奥に、トキがいるはずなんだ。
早まる気持ちでインターフォンを押そうとして手を伸ばしかけた時。
ドアが、開いた。
一瞬息をするのさえも忘れて、目の前にいきなり現れた顔を見つめた。
少し薄めの茶色い髪の毛はそのままなのに。
トキの目の下には黒い隈があった。それに、心なしかただでさえ細いトキが痩せた気がした。
「ト、キ・・・・?」
震える声で呼びかけてその頬に手を伸ばそうとした。どうしたの。なんでそんなに弱ってるの。って。
世界を捻り潰せる魔法使いがなぜここまで衰弱してしまったのか、と。
問いかけようと思ったのに。
「なんだ。猫か。」
「・・・・・え?」
トキと私の視線は、交わらなかった。伸ばした私の手も、トキの顔を通りぬけてしまった。
私は、トキに触れられない。認識されなかった。
「ニャー」
かすかに聞こえてきた猫の鳴き声。それは私の背後で呑気に日向ぼっこを始めようとしていた。その猫すらも、私には気づいていない。
『あーここは暖かいにゃー癒しスポットに追加だにゃー』
猫の声も鮮明に入ってくるというのに、私の存在は彼らに認識されることはない。
「な、なんで?」
やがて猫の存在に飽きが来たかのようにトキはドアを閉めようとする。待って。ちょっと待って。嘘でしょ?
声も出ないままにトキに向かって手を伸ばして追いかける。
その手は、ドアすらも通りぬけてトキに触れることはなかったけれど。私の体はドアに触れても通りぬけるだけ、ドアノブに触れることすら叶わない。
「トキっ、待って、わ、私だよ!陽依!帰ってこれたのっ!ね、ねぇってば!!」
いくら話しかけてもトキはこちらを振り返りはしなかった。ただ落胆したような顔でドアの向こうを見つめた後長い廊下をスタスタと進んでいく。話しかけても接触しようとしても、トキは私に気づいてくれない。
「これ、どういうこと?なんで?」
トキは焦る私なんて余所にリビングに置いてある椅子に座り込むと、頭を抱えてそのままテーブルに伏せてしまった。
「・・・・・・なんで呼ばねぇんだよ。バカヒヨ。」
呟かれた小さな声。痛切なその響き。私の心臓にグサリとナイフが刺さったみたいだった。
「行ったことのある世界ではとりあえずは見つからなかった。・・・つっても他の世界なんていくつあると思ってんだよ。さっさと名前呼べよ、そしたらすぐに飛んでってやるのに、なんでだよ、なんなんだよッ!!」
ガンッと強い音がして、私に向かって投げられた本が私をすり抜けて床にぶつかった。
「ごめ、なさい。」
カクン、と膝が折れてそのまま床に座り込んでしまう。トキがそんなに心配して私を探してくれてるなんて、思いもしなかったんだ。
私は身勝手だ。トキのことなんてトキの気持ちに考えたことなんて、一度もなかったんだ。結局は自分のため、1人で何かできることを証明したいから、トキに頼りたくないから。全部自己満足じゃないか。トキのことなんて考えてないじゃないか。
私、最低だ。
「トキ、トキ、ごめんね、ごめん、」
でも、呼べないよ。
世界を渡ることは力がたくさんいるって、あなたの同業者さんから聞いたんだ。だからそんな簡単に呼べない。あなたに掛かる負担を考えたらそんなことできない。
ぎゅ、と伸ばしかけた手を押しとどめて、今にも零れ落ちそうな涙を堪えた。
トキと話したい。頑張ったな、って褒めてもらいたい。だけど。あなたの名前は呼べない。
「トキ。」
床に座り込んだまま俯いて、搾り出すようにして名前を呼んだ。少し力んだその声に。
まさか返事があるなんて思いもしなかった。
「・・・・・・・ヒヨ?」
「・・・・え?」
トキと、しっかりと目が合う。何がどうなってんのか分かんない。でもとにかく瞳が熱くて、これは涙だけのせいじゃないって思いながらも、トキに認識されたことがとにかく嬉しかった。
「この気配、ヒヨだろ!?そこにいるのか!?」
「いるよ!わ、私ここにいるっ!私はここだよ!」
震えそうな足で踏ん張ってトキの傍まで歩み寄る。トキの手に触れようとしたけど、相変わらず私の手はトキをすり抜けた。悲しいけど、でも今は嬉しさが勝る。
「・・・ヒヨの、声。聞こえた。ほんとにそこにいるんだな?ちゃんと、いるんだな?」
何度も何度も確認しながら、私のいる場所に大体の見当をつけているらしいトキ。涙で声は出なかったけど、とりあえず何度も何度も頷いた。
「泣いてるのか?怪我でもしたのか!?」
凄い剣幕で叫び始めたトキに、一度死に掛けたなんて簡単には口にできない。
「だ、大丈夫だよ。もう傷も治ってるし。もう、血でてないし!体だって動くし!」
「そんな重症だったのか!?何で俺の名前を呼ばないんだよ!」
すぐさま切り返してくるトキに、私はオドオドとするしか出来ない。
「早く俺の名前を呼べ!そしたらどこへだって世界を渡ってやる!すぐに傍に行ってやる!・・・・俺は、名前を呼ばれなきゃヒヨの居場所を特定できない!だから「ごめんね。」
遮るように、涙声ながらにトキに謝る。
本当にごめんね。私はその願い事を聞くことが出来ないよ。
「トキに、負担かけたくない。自分の力でなんとかしたい、トキに会えないのは、元の世界に戻れないのは、私だって嫌だよ!でも、でも・・・・・私は私の力を試したいの。トキに守られてるのはもう嫌だよ。ちゃんと、トキの隣に立ちたい。」
力の有り余るあなたの隣に、胸を張って立ちたい。それが私の目標なんだ。
トキは私の言葉に、その目を見開いた。髪の毛のわりに真っ黒なその瞳が驚きに見開かれて、そして悔しげに歪められてしまった。
「・・・・・頼むよ。頼むから。ヒヨ。」
切望するように、トキは今にも泣き出しそうな顔をして言った。常に無表情をキープする彼がこんな顔をするのはとても珍しいことで、それくらい私は今彼に心配をかけているのだろう。
言葉を返そうと口を開きかけた時、私の足元から綺麗な光が飛び散り始めた。いや、違う。足元が光ってるんじゃなくて、私の足自体が光って飛び散ってる。私の体が徐々に消え始めてるんだ。
直感的に、もうトキと放せる時間が少ないのだと感じた。
「トキ、もう、・・・・もうダメみたいだ。ごめんね、もうここには居られない。」
「ヒヨ?なに言ってんだ?」
「もう、戻らなくちゃ。」
感覚的に感じた言葉をそのまま口から出していく。怪訝な顔をするトキに、見えないだろうと思いながらも涙を拭って100%の笑顔を見せてやる。
「大丈夫。さすがにヤバイと思ったらトキの名前を呼ぶよ。それに私の方からも戻る方法を探したりしてみるし、だから。・・・・・・だから待っててよ。私が戻るの。私がトキの名前を呼ぶの。ちょっとだけだから待っててよ。」
「・・・・ヒヨ。」
あぁ、もう首の辺りまで消えてしまった。
もう、この世界から私は消されてしまう。
もしかしたらトキと放せるのはこれで最期かもしれない、というのに私は呑気にヘラリと笑って見せた。
「トキ、私はあなたの数少ない友達よ。あなたの、世界一最高に強い魔法使いのお友達よ。そんな簡単に死んだりしないわ。伊達にあなたと世界を渡ってないもの。だから。心配しないで、私はいつ」
―――も、元気で居るから。
続けようとした言葉を紡ぐ前に、視界がシャットアウトした。変わりに夢の中みたいな浮遊感が一気に吹っ飛んで、体に現実味の帯びた重力が圧し掛かってきた。
重い瞼をこじ開けて、元の世界ではありえない中世ヨーロッパの王族さながらのベッドの天井を見上げて、この世界に返ってきたのだと実感した。
トキ、待ってて。
声に出そうと思ったのに、カラカラの喉からは音すらも出なかった。




