岬の貴婦人
夕陽が沈む岬に、白いドレスの貴婦人がたたずんでいる。
大事な人を待つかのように、海に向けた眼差しはどこか物憂げで、ブロンドの長い髪が風に吹かれて揺れている。脇には礼儀正しく前足をそろえたセントバーナードが、主人の顔をじっと見つめて座っている。
波は白く、海は穏やかだが、水平線上には暗く重たい雲がたれこめている。これから彼女に届くであろう哀しい知らせを暗示するように――。
「素晴らしい絵だこと」
そう言うと老婦人はため息をついた。
紅茶の入ったティーカップは、すでに一分近く彼女の左手で待機させられていた。視線の先には「岬の貴婦人」が掲載された松丸百貨店の美術品カタログが広げられている。
「これは、どなたの作品なの?」
日本庭園が見渡せる応接室で、老婦人は向かいに座るスーツ姿の青年に尋ねた。
「坂口湖城という洋画家が大正期に描いた油絵です」と青年は答えた。「名画です。印象派の影響を強く受けていますね。坂口画伯はこの絵の完成に丸三年を費やしました。何度も何度も、納得のいくまで描き直したそうです」
「そうですか。よほど思い入れの強い作品だったんでしょうねえ」
老婦人は眼鏡の位置を少し直してから、あらためてカタログの絵をのぞき込む。
その満足そうな表情に、吉沢健治は安堵した。
「お気に召したら幸いです」
吉沢が遠慮がちに声をかけると、老婦人は彼のほうへ向き直り、「ええ、とっても気に入りましたよ。ぜひ譲っていただきたいわ」と微笑んだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそありがとう。さあさ、どうぞ召し上がってくださいな。せっかくこんな遠いところまできてくだすったんだから」
老婦人はそう言って、テーブルの上の紅茶とケーキを吉沢にすすめた。
「恐縮です」
吉沢はカップを持ち上げて口へ運んだ。喉はカラカラに渇いていた。
入社して十年になるが、成約の瞬間というものは何物にも代え難い充実感を吉沢に与えてくれた。
彼は松丸百貨店で外商の仕事をしている。外商とは特定の得意客をまわって注文を取ったり、商品をすすめたりする営業部門のことで、吉沢の専門は美術品だった。国内外の美術館や個人コレクター、画商、投資会社から仕入れた美術品をカタログに掲載し、担当する顧客に紹介してまわるのが彼の仕事だ。
きょう訪ねた老婦人もそんな顧客の一人だった。築城洋子という名前で、相模湾に面した大磯の丘の邸宅に住んでいた。
「主人が亡くなって二年になりますけど」と、紅茶を口へ運びながら洋子は言った。
「もうそんなになりますか」
「ええ。今でも実感がわきませんでね。もっと寂しいものかと思っていたんですけれど、いざ独りになってみると案外、これも気楽なものですのよ」
「亡くなった築城様も、絵画には大変造詣の深い方でいらっしゃいました」
「そうね。そのおかげで、私の衝動買いもずいぶん大目にみてもらったわ」
そう言って洋子は上品に笑った。
彼女の夫は築城宗一郎といって、高度成長期に建築資材の取り引きで成功した実業家だった。十年ほど前に一線を退いてからは大磯で洋子夫人と暮らしていたが、心臓の持病が悪化し、七十二歳で他界した。
それ以来、築城洋子は大磯の屋敷で独り暮らしをしている。通いの家政婦のほかに築城邸を訪ねる者はほとんどおらず、月に一度、美術品カタログを持って訪問する吉沢は、洋子にとって良き話し相手でもあった。
紅茶を飲みながら、洋子はカタログのページをめくった。
絵画のほかに彫刻や刀剣、箪笥、壺、屏風といった骨董品の写真が並んでいる。それらの一つ一つを彼女は目を細めるようにして丹念に吟味した。
やがて、あるページまできたところでカタログをめくる手がとまった。洋子の視線はページの片隅にじっと注がれている。そう間をおかず、彼女の顔に驚きとも戸惑いともつかぬ表情があらわれた。
「この絵はどこで?」
洋子はこわばった声で吉沢に質問した。
「どちらの絵でしょう」吉沢がのぞき込む。
そのページには一枚の肖像画が小さく掲載されていた。おとなしそうな少女の絵だ。背筋をピンと伸ばして椅子に腰かけ、膝の上で大事そうに本を抱いている。「アトリエの少女」というタイトル以外には、「作者不詳 一九六〇年頃」という短い説明があるだけだった。
「ああ」と吉沢は言った。「それは最近、ニューヨークの画商から譲り受けた肖像画です。素敵な絵ですよね。作者は不詳となっていますが、モデルの女の子は顔立ちからして日本人のようですから、きっと作者も日本人でしょう」
彼の説明が聞こえていないのか、洋子は黙ってカタログの写真を見つめている。
吉沢は困惑して、もう一度「アトリエの少女」に目をやった。
眺めているうちに、よそ行きの洋服を着た少女の顔に、なぜか見覚えがあるような気がしてきた。
吉沢は思わず息をのんだ。
少女の目鼻立ちが、目の前にいる老婦人のそれとよく似ていたからだ。
慌てて洋子の顔と見比べる。やっぱり――。
「似ていますか?」
沈黙を破って、洋子が口を開いた。
「そうです。この絵に描かれた女の子は確かに私です。五十年前のね」
老婦人はにっこり微笑むと、その絵にまつわる物語を話し始めた。
*
この絵は私が十七歳のころ、ある青年画家に描いてもらったものです。画家の名前は外崎英雄さんとおっしゃいました。昭和三十年ごろの話です。外崎さんは当時、京橋入船町にあった私の実家のすぐそばに住んでおいででした。彼は不幸な事故によってほとんど目が見えなくなっていましたが、絵描きの夢が捨てきれず、画家の活動を続けておられました。私の両親は外崎さんの才能を買っていて、光を失ったあとも彼の活動を公私にわたり支援しておりました。私も外崎さんの描く繊細な絵が好きで、いつのころからかアトリエに出入りするようになっていました。彼は五つか六つ年上で、私にとっては兄のような存在でもありました。
あるとき、外崎さんが私に「本を朗読してほしい」とおっしゃいました。見えていたころの彼は大変な読書家で、アトリエにもたくさんの本が積まれてありましたが、それらの本をもう一度読み返したいということでした。ええ、もちろん、私は喜んでその申し出を受けいれましたわ。
朗読会はその翌日から始まりました。
週三回、高校の授業が終わると私はアトリエへ行って、外崎さんのために朗読をしました。「白鯨」や「嵐が丘」「風と共に去りぬ」といった外国文学が中心で、初めて読むものも多くございました。私自身、朗読するのが楽しくて、決められた時間はいつも、あっという間にすぎてゆきました。
私が朗読している間、外崎さんはじっと黙って聞いておられるのですが、一回分の読書が終わると、登場人物の気持ちや、作者が物語を通じて表現したかった主題について、私にどう思うかと質問しました。
外崎さんは芸術学校の出でしたけれど、文学に関する教養もとても深くていらして……。でも、決して教え諭すような口調ではないんですの。むしろ、私と一緒に考えてくれているようでした。私にとっては学校の授業よりも、朗読のあとの彼とのおしゃべりのほうが、よほど勉強になったように思います。
ある晴れた秋の日のことです。
朗読している最中、私は挿絵に描かれたお姫様の真珠の首飾りに目を奪われてしまいました。何となしに「素敵な首飾りね」とつぶやきましたところ、外崎さんはそれが気になったと見えて、私のほうへ歩み寄って「僕にはそれがどんな首飾りか見えないけれど、きっと洋子ちゃんには似合うと思う」とおっしゃいました。
そして「朗読のお礼に首飾りを贈りたい。でも今の僕にはお金がない。いつか手術を受けて目が見えるようになったら、良い絵をたくさん描いて、きっと洋子ちゃんに真珠の首飾りをプレゼントするからね」と言ってくださったんです。
私は言いました。「ううん、お礼なんていいの。私、こうして外崎さんと一緒に読書をするのが楽しくて続けているだけだから」って。
外崎さんは少し考えてから、意を決したように「代わりに君の絵を描かせてもらえないだろうか」と提案しました。
私にとってそれは思ってもみなかったような嬉しい申し出でした。
「私のような者でよろしければ」と、私は即答しました。
絵のモデルになるというのは初めての経験で、とてもドキドキしたことを覚えています。
それから私は、アトリエに置いてあった椅子に腰かけ、ポーズをとりました。ええ、ちょうどその絵にあるようにね。外崎さんは私のすぐそばに画架を立てて座りました。お互いの息をする音が聞こえるほどの距離です。そうして彼は、そっと左手を伸ばして私の顔を触りました。柔らかくて温かい手でした。ちょっぴり絵の具のにおいがしました。
外崎さんの手は私のあごの線にそって顔の輪郭をたどり、次に耳からおでこを通って、目、鼻、口の順にその形を捉えていきました。それにあわせて鉛筆を持つ右手がキャンバスの上を自由に走り、さらさらと線を描いていきました。一時間ほど経過したころには、私の顔と上半身がまるでカーボン紙で複写したみたいに、そっくり再現されていました。
私はただ感心しながら、外崎さんの作業を見守っていました。
下絵ができ上がると、今度はその上に絵の具を使って色を重ねていきました。
外崎さんは視力を失ったといっても完全に見えないわけではありませんでした。それに、見えていたころから一つ一つの色に番号を付けておられましたので、見えなくなってからも点字にした番号を頼りに、思い通りの色を出すことができたのです。
私は外崎さんの絵筆が下絵にそって色を塗れるように、彼の手を取って誘導して差し上げました。ときどき彼は私の顔に手をあてて、確認するように頬や唇に触れました。そのせいで私、顔中が絵の具だらけになってしまったわ。
そうして、少しずつ絵は完成に近づいていきました。
気が付くと、外はすっかり暗くなっていました。そろそろおうちに帰らなければなりません。私は外崎さんにそう告げました。彼は「うん、そうだね。絵は次までに仕上げておくよ」とおっしゃいました。
私はお礼を言って、アトリエをあとにしました。
次の朗読会は二日後でした。
私は授業が終わると、はやる気持ちを抑えながら外崎さんのもとへ向かいました。玄関でかばんを置いていつものようにアトリエに入ると、彼は私の絵がかかった画架の前に、うかない顔で座っていました。声をかけても「やあ、洋子ちゃん」と言ったきり、前かがみになって何かをずっと考えておられるようです。
「どうかしたの?」と私は尋ねました。
彼は言いました。
「実はきょうの午後、洋子ちゃんのお父様がここに見えたんだ。取り引き先のお客さんが一緒だった。お客さんは美術品を扱う会社を経営していて、僕の作品を見てくれるようにお父様が頼んでくれたんだそうだ」
「あら、そうなの。よかったじゃない」と私は言いましたが、外崎さんはそれには答えず話を続けました。
「お客さんは僕の作品をざっと見てまわったあと、この絵の前に足をとめた。じっと絵を眺めているようだった。僕がそれは友だちのために描いたものなんです、と説明したら、彼は僕のほうへ振り返り、ぜひこの絵が欲しい、何とか譲ってもらえないか、二十万円でどうだろう、と言うんだ……」
私は外崎さんの顔を見ました。とても悩んでいるようでした。二十万円というのは当時ちょっとした大金だったのです。彼はそのころ、アメリカに渡って目の手術を受けることを考えていました。そのために少しずつ資金を蓄えていましたが、あと二十万円もあれば、きっとその夢がかなうはずでした。
外崎さんは結局、そのお客に「少し考えさせてほしい」と答え、お客は「良い返事を待っている」と言い残して帰ったそうです。
話を聞き終えてから、私は彼に「売るべきよ」と言いました。
「私のことなら気にしないで。その絵を売ったお金で外崎さんがアメリカへ行って手術を受けられるのなら、私はとても幸せよ」って。
本心からの言葉でした。
それでもまだ彼は躊躇していました。私は言いました。
「もし手術が成功して目が見えるようになったら、そのときにまた私の絵を描いてくださる?」
外崎さんは黙っていました。
私は彼の手を握って言いました。
「約束して。必ず目が見えるようになって帰国するって。そして今度はあなたの目で私を見て、絵を描いてくださるって」
彼の手は震えていました。外崎さんは私のほうへ顔を向けてうなずき、「約束する」と言ってくださいました。
そして、彼は絵を売ることに決めたのです。
それからしばらくして、外崎さんはアメリカへ旅立ちました。季節は冬になっていました。
私は、両親と一緒に彼の出発を見送りたいと願ったのですが、父は学校に行くよう命じました。教室で英語の授業を聞きながら、私は船に乗って異国の地に向かう外崎さんのことを想いました。窓から見える校庭のイチョウはすっかり葉が落ちて、黄色い地面にぽつんと立っていました。
放課後、下校途中に私は、外崎さんの家の前で立ち止まりました。アトリエには鍵がかかっていませんでした。私はいつものように玄関にかばんを置いて上がりました。
部屋の中はすっかり片づけられていて、たくさんの画材が置かれていたのと同じ空間とは思えないくらい、とても広く感じられました。
足元から冷たい空気が身体に伝わってきました。
外崎さんは遠くに行ってしまったんだ。
もう会えないかもしれないんだ。
そう思った瞬間、目から涙があふれてきました。
全身の力が抜けてその場に座り込み、声をあげて泣きました。
私はそのとき初めて、自分が恋をしていたことを知りました。
*
築城洋子は、空になったティーカップをテーブルに置いた。
いつの間にか日は暮れていて、応接室の天井にある白熱灯の明かりが、窓から外へ漏れていた。
壁掛け時計が午後六時を知らせる鐘を鳴らした。
「あら、もうこんな時間」
洋子は立ち上がって窓のそばへ行き、カーテンを引いた。「今夜は冷えますわね。雪が降ってもおかしくないぐらい」
「外崎さんとはその後、お会いになったんですか」
吉沢が聞くと、洋子は窓を向いたまま首を振って「あの日以来、一度も」と言った。
「そうですか……」
「私は学校を出たあと、しばらく父の経営する製薬会社に勤めておりましたが、やがて両親のすすめでお見合いをし、二十五歳で築城の家に嫁いできました。幸せな結婚生活でした。主人は私をとっても大事にしてくれました。外崎さんのことは折に触れて思い出す程度で、記憶の片隅にしまい込んでおりました。きょうこの絵と半世紀ぶりに出会うまでは」
そう言って洋子は、カタログに載った「アトリエの少女」へ再び目をやった。
「吉沢さん」と彼女は呼んだ。
「何でしょう」吉沢は立ち上がって応えた。
「この絵は頂戴できて?」
「もちろんです。さっそく来週にでもこちらへお届け致します」
「ありがとう」と言ったあと、洋子はためらいがちに言葉を継いだ。「それから、もし可能であれば、少し調べていただけないかしら。あの絵がどうしてアメリカにあったのか」
「分かりました。関係先に当たってみます」と吉沢は答えた。
翌日から吉沢は「アトリエの少女」の来歴に関する調査を始めた。
通常、絵画の来歴は、付属の証明書類のほかキャンバスや額縁の裏、木枠に貼られたシール、税関スタンプなどで知ることができる。吉沢はそれらの記録を手掛かりに、絵がいつごろ日本からアメリカに渡り、どういう経路をたどってニューヨークの画商に持ち込まれたのか調べた。いくつかのディーラーや美術品運送業者、税関に問い合わせた結果、おおよその流れが判明した。
*
前回の訪問から二カ月後、吉沢は調査結果を報告するため、再び大磯の築城邸を訪ねた。
「よく来てくださいました」
玄関で出迎えた洋子は、応接室の先のリビングルームへ彼を案内した。
室内には大きな暖炉があって、それを囲むように客人用のソファが置かれていた。吉沢はその一つに座るよう促されて、恐縮しつつ腰を下ろした。洋子も彼と並ぶようにアームチェアに座った。
「アトリエの少女」はリビングの壁に飾られていた。
洋子が目を細めて「とても良い絵です。こうしてここで一日中眺めていますの」と言った。
「それは何よりです」と吉沢は答えた。
ひとしきり世間話が済んだところで、吉沢が本題に入った。
「アトリエの少女」がたどった道のりを、彼は簡潔に説明した。
洋子の父親が外崎に紹介した男性は横浜の画商だったこと。一九五五年から五七年までの間、絵は彼の画廊に展示され、あるアメリカの外交官の目に留まり引き取られたこと。
そして、この外交官が本国に帰任した一九六〇年、絵は自らの作者を追いかけるように横浜港から太平洋を渡ったこと。その後は東海岸で数人の所有者の手を経て、八〇年代はカナダのバンクーバーに暮らす富豪の手元にあったこと。
「――カナダの富豪が手放したあと、絵は一九九〇年に再びアメリカへ戻りました。その年にニューヨークでオークションにかけられ、ある日本人男性が落札しました。今から約十年前まで、絵はこの男性が所有していたようです」
「そうでしたか」
洋子は膝の上に抱いたチワワをなでながら、吉沢の話を真剣な表情で聞いていた。
「よくそこまで調べていただきました。大変な手間をとらせましたね。本当にありがとう」と彼女は言った。
「その……実はまだお伝えしたいことがあるのです」
「何でしょう?」
「絵の最後の所有者、つまりオークションで落札した日本人男性なのですが……」
「ええ」洋子が催促するようにうなずく。
「記録では、その方のお名前はミスター・トザキとなっていました―――」
完璧な静寂がリビングルームを支配した。
数秒とも、数分とも感じられる時間が通り過ぎ、やがて時計の針がチク、タクと大きな音を立てた。
洋子は吉沢の顔をじっと見たまま、動かなかった。
彼は続けた。
「私どもはアメリカの調査会社に依頼して、ミスター・トザキについて調べてもらいました。その結果がこちらです」
そう言って、かばんの中から、英文でタイプされたA四判三十枚ほどの報告書を取り出した。いちばん上には日本語に翻訳された要旨が添えられていた。
《ご依頼のあった「アトリエの少女」と題する絵画の所有者について。トザキ・ヒデオ氏は一九三三年、日本国生まれ。幼少時より画家を志し、東京の芸術学校を卒業するも事故により視力の大半を失う。一九五五年、アメリカ合衆国に入国し、マサチューセッツ州ボストン郊外に居住す。入国の目的は当地にて視力回復の治療を受けることにあったものの良き結果は得られず。その後、一九九〇年ごろよりニューヨーク市ブルックリン地区に居住。二〇〇〇年、肺炎により死去。六十七歳》
「本当に残念です。お気持ちはお察し致します」
吉沢は洋子に声をかけた。
洋子はわずかに笑みを浮かべ、いいのよ、と言うように首を横に振った。
「ニューヨークの画商は絵を入手したのは二〇〇〇年だと言っていますから、外崎さんは亡くなるまで、この少女の絵を手放さなかったようですね」と、吉沢は付け足した。
「吉沢さん」と言って洋子はアームチェアから立ち上がった。
吉沢もソファから腰を上げた。
「ありがとう。本当にありがとう。素敵なクリスマスプレゼントをもらったような気分です」
そう言って彼女は握手を求めた。
それから洋子は吉沢を玄関まで見送り、「今回のことでは本当にお世話になりました。あなたはとても親切にしてくださったわ」とあらためて礼を言った。
「とんでもございません。お役に立てたなら幸せです」
「また良い絵が見つかったら、ぜひ教えてくださいね」
「ありがとうございます」
深く頭を下げ、玄関を出ようとしたところで、吉沢は思い出したように振り返って言った。
「そうそう、今回の調査の過程で分かったことなんですが、あの絵には近年描き加えられた個所があるようです。残念ながら私どもにはそれがどの部分なのか、特定できませんでしたが……」
*
誰もいなくなったリビングで、洋子はアームチェアに身をしずめ、壁の絵を眺めていた。
膝かけの上で、チワワが眠そうにあくびをしている。その頭をなでてやりながら「とうとう本当に独りぼっちになってしまったわね」とつぶやく。
チワワが異議を唱えるようにワンと吠えた。
「そうだね。私にはお前がいてくれるのよね。クーちゃん」洋子は微笑んだ。
外は雪が降り始めていた。さらっとして軽い雪だ。きっとあすの朝には解けてなくなっているだろう。
なんだかきょうは疲れてしまったわ、と彼女は思った。そろそろお布団に入る準備をしなくてはね。
アームチェアから身を起こし、おやすみを言うみたいに、もう一度「アトリエの少女」へ目を向けた。
「ああ……」
その瞬間、洋子の口から感嘆の声がこぼれた。
そうか、そうだったのね!
なぜだろう、どうして今まで気付かなかったのかしら?
――外崎のアトリエで、少しはにかんで笑う少女の襟もとには、真っ白な真珠の首飾りが輝いていた。
洋子はうなずいた。かすかに笑みをたたえた両頬を、ぽつりと涙がつたって落ちた。
「素敵なプレゼント、どうも、ありがとう」
自分の襟もとに手を当てて、洋子は絵に囁いた。
再びチェアに腰を下ろし、ゆったりと背中を預け、それから静かに目を閉じた。
「目が治ったらたくさん良い絵を描いて、洋子ちゃんに真珠の首飾りをプレゼントするからね」
深い眠りの中で、洋子は外崎の声を聞いた。
彼女は言う。「約束よ」
彼は答える。「うん、約束だ」