嫁
私は所謂、姑。息子の嫁から見ればこの上ない邪魔者だろう。
決して嫁はそんな素振りを見せない。私に逆らうような事は言わないししない。
しかし、言いようのない怒りを抱いてしまう。炊事をさせれば鍋を煮溢し、掃除をさせれば塵や埃をあちらからこちらに移動させるだけ。洗濯物は皺だらけのままで干す。
息子は一体あの女のどこが良くて好き合ったのだろう。あの女はお世辞にも美人ではないし、スタイルも然程良い訳でもない。性格が穏やかなのは長所なのかも知れないが、それも度が過ぎれば短所だろう。あれは穏やかなのではなくて愚鈍なのだ。使う言葉が間違っている。
あの女の姿が見えない。台所にも居間にもいない。庭で洗濯物を干していたのはもう数時間前だから、そこにもいないだろう。買い物か? あの女が買い物に行くと八百屋や魚屋に言い包められて、必要のない物まで買い込んで来るのも腹が立つ。帰って来たら注意しようと思い、自分の部屋に歩き出した時、廊下の先にある手洗いから水が流れる音がした。ガチャッとドアが開き、あの女が顔を出した。
「お義母様」
何故か苦悶の表情を浮かべ、私を見る。どうしたのかと尋ねようと思ったが、要領を得ない話を聞かされるのが目に見えていたので、何も言わずに顔を背け、あの女を押し退けるようにして自室へと歩き出す。
「お茶を淹れます」
頼んでもいない事をするのは何か目的があるのだろうか? 今更私に媚を売っても何も変わらないというのに。私は立ち止まってチラッと振り返り、また歩き出した。あの女はそれを承諾と捉えたのか、
「すぐに」
と言うと、台所へと走り出した。走るんじゃないよ、埃が立つから! そう言いたいのを堪え、私は自分の部屋に入った。
「ふう」
一日中、あの女を見ていると私が精神的に参ってしまう。夫に先立たれて三年。あの女は夫の葬儀の時、号泣していた。あの頃はまだ今程あの女を嫌っていなかったから夫の死を悼んでくれた事に素直に感謝した。
しかしそうではなかったのだ。翌年、息子の提案で飼い始めた柴犬が家の前の道路で車に轢かれて死んでしまった。まだ飼ってから三ヶ月にもならなかった。私は小さな命が喪われた事を悲しんだ。その犬を選び、「リン」と名づけ、毎日朝の散歩に連れて行っていた息子も酷く落胆していた。リンが事故死したのは、あの女がうっかりリンのリードを放してしまったからだった。もちろん、私も息子もその事であの女を責めたりはしなかった。息子はむしろ、あの女を慰めた。君のせいじゃないよと。その時は私もそう思った。あの女が泣き出すまでは。
あの女は夫の葬儀の時と全く同じ表情と声で泣いたのだ。私の思い過ごしではない。本当に最初から最後まで同じだった。恐ろしいくらい。私は、夫と犬を同列に扱われた気がした。
あの日以降、私はあの女に対する見方が変わった。可愛いと思えていた話し方も仕草も全てイラつきの元になった。それまでは鍋を噴き溢すと、
「火傷しなかった?」
とまずは気遣ったのだが、その時からは無言であの女を押しのけ、鍋を洗う。掃除が雑だと、
「こうすれば奇麗にできるのよ」
と見本を示したのだが、その時以降はあの女の手から掃除機を奪い取り何も言わずにやり直す。
そこまでされれば、普通の人間なら何か言うのだろうが、あの愚鈍な女は何も言い返さず、
「すみません、すみません」
と謝るだけだ。それが更に癪に障った。
「失礼します」
あの女がノックもせずに部屋に入って来た。私は何も言わずに舌打ちだけする。しかし、鈍感なので気づかないようだ。あの女はテーブルの上に盆を置いて湯飲み茶碗を取り、私の前に置いた。
「あの人が出張で買って来てくれた宇治茶です」
あの女は不器用に微笑んで言い添えた。私は湯気が立ち上る茶碗を覗きこんだ。確かに美味しそうな香と色をしている。只、この手の高級茶葉は熱湯で淹れてはいけないのだ。その時点で失格だ。
「火傷しそうな温度ね」
そう言ってあげようかと思ったがやめた。多分そんな皮肉も通じないのだ、この女には。私は茶碗の温度を指先で確かめ、そっと手に取る。これ程熱い茶碗を平然と持ったこの女はどれ程手が鈍感なのだろう? そっと茶碗を顔に近づけ、口元に運ぶ。む? それ程熱くなかった。むしろ適温だ。私は一口飲み、茶碗を置いた。
「……」
ふと気づくとあの女がにやりと笑っている。まさか……。そんな……。
「う……」
私は呻き声を上げる事もできず、畳の上に倒れた。毒? 毒が入れられていたのか?
薄れ行く意識の中で私はある言葉を思い出していた。
あなたが嫌いな人はそれと同じくらいあなたの事が嫌いです。
嫌っていたのは、あの女も同じだったのだ。あの女が愛おしそうに腹を摩っているのが、私の見た最後の光景だった。