残酷で妖艶な魔女と非モテで凡庸な男
俺は非モテだ。
そう自覚したのはいつだっただろう。
中学一年の頃だったか、それとももっと前か。
……まあ、今となってはどうでもいい。
とにかく俺は女子に飢えている。
どれくらい飢えているかというと、自分にしか見えない超絶美少女が突然現れて、一緒に学校へ行ったり、くだらない話で笑い合ったり――そんな妄想を毎晩するくらいには重症だ。
笑いたければ笑えばいい。
非モテという生き物は、それくらい夢を見なければやっていられない。
最近の風呂場での習慣は、その妄想をしながら身体を洗うことだった。
石けんの泡と一緒に、邪な願望まで流れていくような気がするからだ。
その日も、いつものようにシャワーを浴び、鏡へ目を向けた。
――違和感。
鏡には俺が映っている。
だが、その後ろに。
誰かが立っていた。
長い黒髪。
雪のように白い肌。
人形のように整った少女が、鏡の中だけで俺を見つめている。
思わず振り返る。
誰もいない。
再び鏡を見る。
そこには、やはり少女がいた。
「……目が合ったな。」
鏡の向こうから声が響く。
冷たいのに、不思議と耳元で囁かれているようだった。
「返事をしろ。」
「は、はい……。」
少女は少しだけ目を見開いた。
驚いたようにも、安心したようにも見える。
「……明日も会おう。」
その言葉と同時に、頭の中へ大量の記憶が流れ込んできた。
知らない街。
知らない空。
魔法。
魔女。
そして――
アビス。
誰よりも美しく、誰よりも醜い魔女。
彼女は美貌だけを武器に人を操り、弱者を踏みにじり、欲望のままに生きてきた。
善意を笑い、他人の苦しみを娯楽とし、時には命さえ奪った。
誰も彼女を止められなかった。
美しかったからだ。
やがて彼女は、「地球」という異世界へ行けるという古い伝説を知る。
その世界なら、さらに新しい獲物が見つかる。
そんな浅ましい願いを胸に、彼女は時空の裂け目へと向かった。
そして――俺と出会う。
目の前に現れた少女は、鏡の中で見たあの魔女だった。
「……お前がアビスか。」
俺がそう言うと、彼女は警戒したように眉をひそめる。
「なぜ私の名を知っている?」
「全部知ってる。」
「……全部?」
「お前が何をしてきたかも。」
アビスの表情が初めて揺らいだ。
伝説には続きがあった。
地球へ降り立った魔女の前には、自分の罪を知る者が現れる。
善き者は救われ、悪しき者は裁かれる。
彼女は、その最後の一文だけを忘れていた。
「……私を殺すのか?」
「いや。」
俺は肩をすくめる。
「好きに生きろ。ただ、お前の人生はもう思い通りにはならない。」
アビスは黙った。
だが、その瞳には欲望が残っていた。
(なら、この男を誘惑すればいい。)
次の瞬間。
彼女は俺へ飛びかかった。
「……バカだな。」
世界が白く染まる。
身体が浮く。
意識が引き裂かれる。
気が付くと、俺は鏡のように白い指先を見つめていた。
「……え?」
胸が重い。
髪が長い。
声が高い。
俺は、アビスになっていた。
一方、俺の身体へ入ったアビスは混乱していた。
「な、何だこれは!?」
その時、どこからともなく声が響く。
『悪しき者は、自らの罪を償うまで自由を得られない。』
静かな神の宣告だった。
アビスは初めて、自分が裁かれたことを理解する。
その日から、彼女の長い贖罪が始まった。
神の声が消えると同時に、世界は静寂に包まれた。
俺は震える手を見つめる。
いや、俺の手じゃない。
白く細い指。肩まで伸びた黒髪。鏡を見なくても分かる。
俺はアビスになっていた。
「う、うそだろ……。」
思わず胸を触る。
「……本当に入れ替わってる。」
一方で、俺の身体に入ったアビスは、何度も自分の頬を触りながら叫んだ。
「戻せ! こんな醜い身体、私は認めない!」
「無理だ。」
俺がそう言うと、彼女は睨みつける。
「お前がやったんだろ!」
「違う。お前が俺を襲った瞬間に勝手に起きた。」
その時、再び頭の中へ声が響く。
『贖罪は百十四年。』
『悪しき者は、自らの罪を償うまで、本来の姿へ戻ることはできない。』
アビスは膝をついた。
「百十四年……?」
魔女である彼女なら、生きられる年月だ。
だからこそ、その言葉は絶望だった。
「な、なんで私が……!」
神の声は淡々と答える。
『奪ったものは返せ。』
『傷つけた者には償え。』
『命を軽んじた者は、命の重さを知れ。』
それだけ言うと、声は完全に消えた。
俺は深くため息をついた。
「……帰るか。」
「は?」
「腹減った。」
アビスは信じられないものを見るような目で俺を見た。
「お前、私を裁かないのか?」
「神が裁くんだろ。俺がやる必要はない。」
俺は歩き始める。
少し歩いたところで振り返った。
「それと一つだけ。」
アビスが顔を上げる。
「俺の身体を傷つけるなよ。」
その一言に、彼女は初めて言い返せなかった。
◇
一週間後。
俺は美少女の身体にも慣れ始めていた。
「……便利だな、この髪。」
乾かすのは面倒だけど。
一方、アビスは毎日苦労していた。
魔法は使えない。
飛べない。
腕力もない。
コンビニで買い物をしようにも、お金の価値すら分からない。
「なぜこんな世界で生きられるのだ……。」
そう呟いた彼女を見て、俺は少し笑った。
「今まで助けてもらう側だったからだろ。」
「……。」
「これからは違う。」
俺はスーパーの袋を彼女へ渡す。
「働いて、自分で稼いで、生きろ。」
アビスは黙って袋を受け取った。
その姿は、もう魔女には見えなかった。
◇
百十四年後。
俺は寿命を迎え、静かに息を引き取った。
病室の窓から差し込む夕日を見ながら、最後に思ったのは、
「結局、美少女になれた人生だったな。」
という、どうしようもない感想だった。
その瞬間、神の声が響く。
『贖罪は終わった。』
アビスの身体は光に包まれる。
だが彼女は首を横に振った。
「……もう、この姿のままでいい。」
百十四年かけて積み重ねた善行は、彼女から傲慢さを消していた。
かつて「性の魔女」と恐れられた女は、誰かを救うことを選ぶ一人の魔女となっていた。
神は何も言わなかった。
ただ静かに、彼女の選択を見届けていた。
(終)




