閃光の記憶と、真夜中のラムチョップ
閃光の記憶と、真夜中のラムチョップ
シリコンバレーの丘陵地帯に佇む、ガラスとコンクリートで構成された邸宅のテラス。セルゲイ・ブリンは、心地よい夜風を浴びながら、漆黒の闇に点滅する街の灯りを見下ろしていた。彼が身にまとっているのは、アクティブな彼らしい、ストレッチ素材の黒いスポーツウェアと薄手のウインドブレーカーだ。世界屈指の大富豪でありながら、ネクタイを締め、窮屈なスーツに身を包むことを、彼は昔から嫌っていた。衣服の擦れるかすかな音が、静寂に紛れて響く。
「セルゲイ、肉が焼き上がったよ。冷めないうちにこっちへおいで」
古くからの友であり、今も最先端のプロジェクトを共に追いかけるエンジニアのマークが、テラスに備え付けられた大きなグリルから声をかけた。炭火のパチパチという爆ぜる音と共に、香ばしい肉の脂の香りがテラスいっぱいに広がっていく。
「今行く。この風が、ちょうどいい火加減を教えてくれている気がしてね」
セルゲイは悪戯っぽく笑い、軽やかな足取りでテーブルへと向かった。
「お前のそういう、何でも科学的、あるいは直感的に結びつける癖は相変わらずだな」
マークが皿に盛り付けたのは、ハーブとスパイスをたっぷりと刷り込んで、炭火で豪快に焼き上げたラムチョップだった。外側はカリッと焦げ目がつき、中からは肉汁がじわりと溢れ出している。
「人間は直感の生き物さ。データも大切だが、最後は五感がすべてを決める」
セルゲイはナイフを使わず、骨付きのラムチョップをそのまま手で掴んだ。肉の熱さが指先から脳へと直接伝わる。一口噛み締めると、口の中にラム特有の濃厚な野生の旨味と、ローズマリーの爽やかな香りが一一気に広がった。
「美味いな、マーク。やっぱり肉は火で焼くに限る。僕たちがどんなに複雑なコードを書いても、この原始的な喜びを超えることはできない」
「そう言ってもらえると、焼き甲斐があるよ。ところでセルゲイ、最近のアルファベットの動きについてはどう思っている? 表舞台を退いてからも、お前とラリーの動向には常に世界が注目しているんだぞ」
マークは冷えたビールをグラスに注ぎながら、真剣な眼差しを向けた。
セルゲイは2019年にアルファベットの社長職を退いた。しかし、取締役であり、支配株主としての彼の存在は、グーグルという巨大な知性の集合体において、今なお決定的な重みを持っている。
「僕たちは、世界中の情報を整理するという大冒険を始めた。その地図はもう完成しつつある。だからこそ、今の僕が興味あるのは、その先にある『人間の可能性の拡張』さ」
セルゲイは指についた脂をナプキンで拭き取り、グラスを傾けた。冷たい液体が喉を潤し、肉の濃厚な余韻を心地よく洗い流していく。
「可能性の拡張、か。相変わらず壮大だな」
「壮大じゃないと面白くないだろう? AIが自ら思考し、人間の脳とリンクする。あるいは、病気や老いそのものを克服する。かつて僕たちが検索エンジンを作ったとき、誰もがそんなものはただの学生の玩具だと言った。けれど、世界は変わった」
彼の瞳には、夜景の光を反射して、少年のような純粋な輝きが宿っていた。ロシアからアメリカへ渡り、数学とテクノロジーの力で世界を再定義した男の情熱は、52歳になった今も、少しも衰えてはいなかった。
「お前はいつだって、誰も見ようとしない暗闇に突っ込んでいくな。たまには足元が怖くなることはないのか?」
マークが尋ねると、セルゲイは少しだけ目を細め、夜空を見上げた。シリコンバレーの空は、都会の灯りに消され、星はまばらにしか見えない。
「怖いさ。コントロールを失ったテクノロジーが、人間を置き去りにしていく恐怖は、誰よりも理解しているつもりだ。だからこそ、僕は取締役として、そして株主として、ブレーキを踏む権利を手放さない。僕たちの作ったものが、人類を裏切らないようにね」
セルゲイの声には、ただの技術者ではない、巨大な責任を背負った男の重みがあった。
「なるほどな。お前が目を光らせている限り、あの会社はまだ、人間のための道具であり続けられるというわけだ」
「そう願いたいね。さあ、真面目な話はここまでにして、もう一本肉をくれ。このラムチョップの焼き加減こそ、今夜僕が手に入れた最高のデータだよ」
セルゲイは笑い、再び肉に手を伸ばした。
夜風が強くなり、彼のウインドブレーカーを小さく揺らす。美味しい食事と、果てしない未来への思考。セルゲイ・ブリンは、今夜も世界の境界線を押し広げるための静かなエネルギーを、その身体に満たしていくのだった。




