表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/9

閃光の記憶と、真夜中のラムチョップ

閃光の記憶と、真夜中のラムチョップ


シリコンバレーの丘陵地帯に佇む、ガラスとコンクリートで構成された邸宅のテラス。セルゲイ・ブリンは、心地よい夜風を浴びながら、漆黒の闇に点滅する街の灯りを見下ろしていた。彼が身にまとっているのは、アクティブな彼らしい、ストレッチ素材の黒いスポーツウェアと薄手のウインドブレーカーだ。世界屈指の大富豪でありながら、ネクタイを締め、窮屈なスーツに身を包むことを、彼は昔から嫌っていた。衣服の擦れるかすかな音が、静寂に紛れて響く。

「セルゲイ、肉が焼き上がったよ。冷めないうちにこっちへおいで」

古くからの友であり、今も最先端のプロジェクトを共に追いかけるエンジニアのマークが、テラスに備え付けられた大きなグリルから声をかけた。炭火のパチパチという爆ぜる音と共に、香ばしい肉の脂の香りがテラスいっぱいに広がっていく。

「今行く。この風が、ちょうどいい火加減を教えてくれている気がしてね」

セルゲイは悪戯っぽく笑い、軽やかな足取りでテーブルへと向かった。

「お前のそういう、何でも科学的、あるいは直感的に結びつける癖は相変わらずだな」

マークが皿に盛り付けたのは、ハーブとスパイスをたっぷりと刷り込んで、炭火で豪快に焼き上げたラムチョップだった。外側はカリッと焦げ目がつき、中からは肉汁がじわりと溢れ出している。

「人間は直感の生き物さ。データも大切だが、最後は五感がすべてを決める」

セルゲイはナイフを使わず、骨付きのラムチョップをそのまま手で掴んだ。肉の熱さが指先から脳へと直接伝わる。一口噛み締めると、口の中にラム特有の濃厚な野生の旨味と、ローズマリーの爽やかな香りが一一気に広がった。

「美味いな、マーク。やっぱり肉は火で焼くに限る。僕たちがどんなに複雑なコードを書いても、この原始的な喜びを超えることはできない」

「そう言ってもらえると、焼き甲斐があるよ。ところでセルゲイ、最近のアルファベットの動きについてはどう思っている? 表舞台を退いてからも、お前とラリーの動向には常に世界が注目しているんだぞ」

マークは冷えたビールをグラスに注ぎながら、真剣な眼差しを向けた。

セルゲイは2019年にアルファベットの社長職を退いた。しかし、取締役であり、支配株主としての彼の存在は、グーグルという巨大な知性の集合体において、今なお決定的な重みを持っている。

「僕たちは、世界中の情報を整理するという大冒険を始めた。その地図はもう完成しつつある。だからこそ、今の僕が興味あるのは、その先にある『人間の可能性の拡張』さ」

セルゲイは指についた脂をナプキンで拭き取り、グラスを傾けた。冷たい液体が喉を潤し、肉の濃厚な余韻を心地よく洗い流していく。

「可能性の拡張、か。相変わらず壮大だな」

「壮大じゃないと面白くないだろう? AIが自ら思考し、人間の脳とリンクする。あるいは、病気や老いそのものを克服する。かつて僕たちが検索エンジンを作ったとき、誰もがそんなものはただの学生の玩具だと言った。けれど、世界は変わった」

彼の瞳には、夜景の光を反射して、少年のような純粋な輝きが宿っていた。ロシアからアメリカへ渡り、数学とテクノロジーの力で世界を再定義した男の情熱は、52歳になった今も、少しも衰えてはいなかった。

「お前はいつだって、誰も見ようとしない暗闇に突っ込んでいくな。たまには足元が怖くなることはないのか?」

マークが尋ねると、セルゲイは少しだけ目を細め、夜空を見上げた。シリコンバレーの空は、都会の灯りに消され、星はまばらにしか見えない。

「怖いさ。コントロールを失ったテクノロジーが、人間を置き去りにしていく恐怖は、誰よりも理解しているつもりだ。だからこそ、僕は取締役として、そして株主として、ブレーキを踏む権利を手放さない。僕たちの作ったものが、人類を裏切らないようにね」

セルゲイの声には、ただの技術者ではない、巨大な責任を背負った男の重みがあった。

「なるほどな。お前が目を光らせている限り、あの会社はまだ、人間のための道具であり続けられるというわけだ」

「そう願いたいね。さあ、真面目な話はここまでにして、もう一本肉をくれ。このラムチョップの焼き加減こそ、今夜僕が手に入れた最高のデータだよ」

セルゲイは笑い、再び肉に手を伸ばした。

夜風が強くなり、彼のウインドブレーカーを小さく揺らす。美味しい食事と、果てしない未来への思考。セルゲイ・ブリンは、今夜も世界の境界線を押し広げるための静かなエネルギーを、その身体に満たしていくのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ