億万長者が買わなかったもの トーマス・ピーターフィーに学ぶ、本当の豊かさ
億万長者が買わなかったもの トーマス・ピーターフィーに学ぶ、本当の豊かさ
実在する投資家・実業家トーマス・ピーターフィーの経歴や事業哲学を着想源にした、約三千字の創作短編です。会話や出来事はフィクションであり、本人の実際の発言ではありません。
ニューヨーク、マンハッタン。
十一月の冷たい雨が、高層ビルの窓を銀色に染めていた。
「八十一億ドル……いや、八十億どころじゃない。とんでもない金持ちだな」
若手記者の健太は、ノートパソコンに映し出された世界の富豪ランキングを見つめ、ため息をついた。
画面には、トーマス・ピーターフィーの名前があった。
ハンガリーからアメリカへ渡り、証券取引の電子化を推し進め、インタラクティブ・ブローカーズを築いた実業家。
「こんな人は、生まれたときから何もかも違ったんだろうな」
健太が呟くと、隣にいた編集長が鼻で笑った。
「お前、彼の経歴を読んだのか?」
「ええ。大富豪でしょう?」
「それは結果だ。出発点を見ろ」
「出発点?」
「移民だよ。言葉も資金も十分ではないところから、アメリカで道を切り開いた男だ」
編集長は一枚の取材資料を机に置いた。
「今回の記事のテーマは『金持ちは何を買うか』じゃない。『金持ちは何を考えているか』だ」
健太は資料を手に取った。
窓の向こうでは、雨に濡れたタクシーが黄色い光を引きずるように走っていた。
◇
翌朝。
健太はウォール街近くの古いカフェで、一人の老人と向かい合っていた。
元証券取引所の技術者、マイケル。
長年、金融市場の変化を見続けてきた人物だった。
「ピーターフィーについて知りたいんだって?」
「はい。どうすれば、あれほどの資産を築けるのか知りたいんです」
老人はコーヒーをひと口飲んだ。
「君は、彼が何を買ったか知りたいのか?」
「豪邸とか、自家用機とか……」
「違うな」
「え?」
「彼が最初に買おうとしたのは、贅沢ではない。仕事を速く、正確にするための道具だ」
老人は窓の外を指差した。
「昔の証券取引所を想像してごらん。男たちが怒鳴り合い、紙を振り回し、数字を頭の中で計算する。そんな時代だ」
「今とはまるで違いますね」
「そこで彼は考えた。人間が何度も繰り返している計算を、機械に任せられないか、と」
「コンピューターですね」
「そうだ。だが、当時の常識を変えるのは簡単じゃない」
老人は笑った。
「周りが慣れたやり方にしがみついているとき、違う未来を想像できるか。それが大切なんだ」
健太はノートを開いた。
「つまり、金持ちは先を見る?」
「それだけじゃない。見えた未来のために、面倒な仕事を引き受ける」
「面倒な仕事?」
「計算を覚え、仕組みを作り、失敗を直し、また試す。派手な成功の裏には、退屈な作業が山ほどある」
健太は少し黙った。
自分は毎日、手っ取り早く稼げる方法ばかり検索していた。
しかし、その検索時間で何か一つでも技術を身につけただろうか。
「……僕は、結果ばかり見ていました」
「人は金額に驚く。だが、その金額を生んだ仕事には、なかなか目を向けないものさ」
◇
午後。
健太は金融街を歩いていた。
灰色の雲の切れ間から陽光が差し込み、ガラス張りのビル群が輝いている。
道端では若者がスマートフォンを眺め、株価の上下に一喜一憂していた。
「上がれ! 頼む、上がってくれ!」
その声を聞きながら、健太は思った。
株価が上がることを祈る人。
株式を売買する仕組みそのものを作る人。
どちらも市場に参加している。
しかし、考えていることはずいぶん違う。
その夜、健太は編集長に電話をかけた。
「編集長、ひとつ分かった気がします」
『ほう。何が分かった?』
「お金持ちは、お金そのものより、お金を生む仕組みを考えているんじゃないでしょうか」
『悪くない。だが、それだけだと危ないぞ』
「危ない?」
『仕組みを作れば誰でも大金持ちになれる、という話ではないからな。才能も努力も、時代の巡り合わせもある。成功した人だけを見て、同じことをすれば成功すると考えるのは間違いだ』
「……確かに」
『それに、金持ちにもいろんな人がいる。ピーターフィー一人の生き方を、全員の正解にするなよ』
健太は窓辺に立った。
雨は上がり、街には無数の灯りがともっていた。
「じゃあ、僕たちは彼から何を学べるんでしょう」
編集長は少し考えてから答えた。
『自分の頭で考えることだろうな』
◇
週末。
健太は、ブルックリンに住む父親を訪ねた。
父は小さな修理工場を営んでいた。
油の染みた作業着。
古びた工具箱。
機械油と温かい鉄の匂い。
子供の頃から変わらない風景だった。
「なんだ、健太。今日は仕事じゃないのか」
「休みだよ。父さん、ちょっと聞いていい?」
「なんだ?」
「もし大金持ちになれたら、何を買う?」
父は手を止めた。
「そうだなあ……」
少し考え、笑った。
「新しい旋盤が欲しいな」
「えっ? もっといい家とか、高級車とかじゃなくて?」
「車は今ので走るし、家も雨漏りしてない」
「でも、何十億も持ってたら?」
「何十億あっても、手は二本しかないからな」
父は工具を布で拭いた。
「それより、新しい機械があれば、今まで断っていた仕事を引き受けられる。若い職人にも、もっと面白い仕事を教えられる」
健太は思わず笑った。
「父さん、まるでピーターフィーみたいだ」
「誰だ、そりゃ」
「ものすごい大金持ち」
「そりゃ光栄だな」
父も笑った。
だが、健太は胸の奥に不思議な温かさを感じていた。
父は億万長者ではない。
工場の経営は楽ではなく、設備の更新にも慎重だった。
それでも父は、金があれば何を見せびらかすかではなく、何ができるようになるかを考えていた。
「父さん」
「ん?」
「僕、今まで金持ちって、何でも好きなものを買える人だと思ってた」
「まあ、買えるものは増えるだろうな」
「でも、違う気がしてきた」
父は工具箱を閉じた。
「金があるのは悪いことじゃない。だけどな、健太」
「うん」
「金を手に入れることだけ考えてたら、手に入れたあとに何をしたいのか、分からなくなるんじゃないか?」
その言葉が、健太の胸に深く刺さった。
◇
月曜日。
編集部の窓から、朝日が差し込んでいた。
健太は原稿を書き上げ、編集長の机に置いた。
「できました」
編集長は眼鏡をかけ直し、読み始めた。
しばらくして、顔を上げる。
「タイトルは?」
「『億万長者が買わなかったもの』です」
「ほう。何を買わなかったんだ?」
「成功への近道です」
編集長は黙って続きを読んだ。
健太は言葉を継いだ。
「ピーターフィーは、ハンガリーからアメリカへ渡り、コンピューターの力を使って証券取引のあり方を変えようとしました。誰かが用意した成功を買ったわけじゃない。自分で仕組みを作ったんです」
「うむ」
「でも、彼のようになれば必ず大金持ちになれる、とは書きませんでした」
「なぜだ?」
「成功には運もありますし、彼ほどの才能を持つ人ばかりじゃありません。それでも、自分が解決できる問題を探す姿勢は、僕たちにも学べると思うんです」
編集長は頷いた。
「それで?」
健太は少し照れくさそうに笑った。
「僕も、まずは仕事のやり方を変えてみようと思います」
「例えば?」
「記事の資料整理を自動化する仕組みを勉強します。毎日同じ作業に時間を取られているので」
「ほう」
「それから、取材で聞いたことを、もっと深く調べたいです。誰かの成功を羨むだけの記事じゃなく、その人が何を考え、何を変えたのかを書きたい」
編集長は原稿を机に置いた。
「いいじゃないか」
「ありがとうございます」
「ただし、ひとつだけ注文がある」
「何でしょう」
「明日の締め切りは守れよ」
「えっ?」
「未来を変えるのは結構だが、今日の仕事も忘れるな」
健太は思わず吹き出した。
「分かりました!」
◇
その日の夕暮れ。
健太は再びマンハッタンの街を歩いていた。
空は茜色に染まり、ビルの窓には無数の夕陽が映っている。
道行く人々は、誰もが忙しそうだった。
大金持ちもいれば、生活費をやりくりする人もいる。
夢を追う人も、今日一日を乗り切ることで精いっぱいの人もいる。
健太は立ち止まり、スマートフォンに表示された富豪ランキングを見つめた。
トーマス・ピーターフィー。
かつては、その名前の隣に並ぶ巨額の数字だけが目に入っていた。
しかし、今は違う。
数字の向こうに、移民として新天地へ渡った若者が見える。
誰もが当たり前だと思っていた取引の仕組みに疑問を抱き、技術で変えようとした技術者の姿が見える。
「……僕には、何ができるだろう」
健太は画面を閉じた。
答えは、まだ分からない。
けれど、少なくとも一つだけ分かったことがある。
お金は人生の選択肢を増やしてくれる。
だが、その選択肢をどう使うかは、自分で考えなければならない。
大切なのは、他人の財産を数えることではない。
自分の時間と能力を使って、どんな価値を生み出せるかを考えることだ。
街角の信号が青に変わった。
健太は背筋を伸ばし、人々の流れに加わった。
ポケットの中には、使い古した小さな手帳がある。
その最初のページに、今日、新しい言葉を書き込んでいた。
「金額ではなく、何を生み出したかで人生を考える」
億万長者の人生を取材して、健太が見つけたのは、大金を稼ぐ秘密ではなかった。
明日からの自分を、少しずつ変えていくための問いだった。
〈完〉




