静かな検索者
静かな検索者
スタンフォード大学の夜は、少し湿った草の匂いがした。
春先のカリフォルニアは暖かい。だが夜風は冷たく、古い研究棟の窓ガラスを細かく震わせていた。蛍光灯の白い光が長い廊下に滲み、静まり返った建物の奥からは、コンピューターの低い駆動音だけが聞こえてくる。
ラリー・ペイジは、古びた回転椅子に深く腰を沈め、モニターを見つめていた。
灰色のフリースの上着に、色あせたジーンズ。足元は履き潰したスニーカー。世界を変える男には見えなかった。どちらかといえば、徹夜続きの大学院生そのものだった。
机の横には紙コップが三つ積まれている。冷えたコーヒーの苦い匂いが漂っていた。
「まだ起きてるのか?」
背後から声がした。
振り返ると、セルゲイ・ブリンがピザの箱を抱えて立っている。髪はぼさぼさで、赤いパーカーの袖をまくり上げていた。
「眠れない」
ラリーは小さく言った。
「また考えてたのか?」
「うん」
セルゲイは呆れた顔をする。
「お前は考えすぎなんだよ」
「世界中の情報が整理されてないの、気持ち悪くない?」
「普通はそこまで思わない」
セルゲイは箱を開けた。湯気はもう消えていたが、チーズとトマトソースの香りが部屋に広がる。
ラリーは一切れ取ったが、すぐには食べなかった。
画面を見ている。
無数の文字列。
リンク。
検索結果。
インターネットは急激に広がっていた。だが欲しい情報は見つからない。ゴミみたいなページばかりが並ぶ。
「もっと正確に探せる方法がいる」
ラリーは独り言みたいに言った。
「みんな言ってる」
「違う。根本から」
セルゲイはピザをかじりながら笑う。
「また始まった」
ラリーは気にしなかった。
彼の目は静かだった。炎みたいに熱いわけじゃない。むしろ冷たい湖の底みたいに深い。
「論文ってさ」
「ん?」
「引用される回数で価値が変わるだろ」
「まあ、そうだな」
「ウェブページも同じだと思う」
セルゲイが動きを止めた。
ラリーはゆっくり話す。
「たくさん引用されるページは、価値が高い」
「リンクを投票みたいに考えるってことか?」
「そう」
セルゲイの顔が変わる。
さっきまでの軽い表情が消えた。
「……それ、面白いな」
「だろ?」
ラリーはそこで初めて少し笑った。
窓の外では風が木々を揺らしている。遠くで誰かの笑い声が聞こえ、また静けさが戻った。
深夜二時。
普通の学生は寝ている時間だった。
だが二人は古いサーバーの前に座り込み、世界の未来を話していた。
「問題は容量だな」
セルゲイが言う。
「サーバー足りない」
「金もない」
「終わってるな」
「終わってる」
二人は笑った。
ラリーはようやくピザを口に運んだ。冷めた生地は硬かったが、空腹の胃にはありがたかった。
「お前さ」
セルゲイがコーラを飲みながら言う。
「金持ちになりたいの?」
ラリーは少し考えた。
「別に」
「即答しないのかよ」
「必要なら稼ぐ。でも目的じゃない」
「じゃあ何が目的?」
ラリーは椅子を回し、暗い窓を見た。
ガラスに自分の顔が映っている。
疲れた青年の顔。
けれど目だけは妙に澄んでいた。
「人が、知りたいことに辿り着ける世界」
セルゲイは肩をすくめる。
「真面目だな」
「そう?」
「もっと女とか車とか言えよ」
「興味ない」
「人生つまらなくないか?」
ラリーは少し笑う。
「逆だよ。面白すぎる」
その時、突然サーバーが止まった。
部屋が静かになる。
「あっ」
セルゲイが顔をしかめる。
「落ちた」
「また?」
「まただ」
二人は同時に立ち上がった。
機械の熱気がむっと押し寄せる。配線だらけの狭いスペースに潜り込み、セルゲイが懐中電灯を口にくわえた。
「ケーブル抜けてる!」
「どこ?」
「そっち押さえて!」
ラリーは床に膝をついた。冷たいコンクリートの感触がジーンズ越しに伝わる。
埃っぽい匂い。
ファンの熱風。
指先に触れる無数のコード。
世界最大級の企業になるものが、こんな狭い部屋から始まっていた。
「ついた!」
突然、サーバーが唸りを上げた。
モニターに光が戻る。
セルゲイが歓声を上げた。
「生き返った!」
ラリーはその画面を見つめていた。
検索窓。
白いページ。
無駄のない画面。
「もっと速くできる」
彼は小さく言う。
「もっと正確に」
セルゲイが笑う。
「お前、本当に止まらないな」
ラリーは答えなかった。
ただキーボードに向かう。
指先が静かに動き始める。
カタカタという音が、夜の研究室に響いていた。
その音は小さい。
だが確かに、未来へ続く音だった。
窓の外では夜明け前の空が少しずつ青くなり始めている。
ラリー・ペイジは、その変化にも気づかないまま画面を見つめていた。
まるで世界中の知識の海を、一人で掘り起こそうとしているみたいに。




