第7話「共犯関係と、新しい鍵」
お金だけではありませんでした。
リョウが用意していた「もう一つのサプライズ」とは。
涙が枯れるまで泣いた後、私はリョウ義兄さんから渡されたティッシュで顔を拭った。
オフィスの窓の外は、もう夕暮れに染まっている。
「……落ち着いたか」
「はい。お見苦しいところを、すみません」
「別にいい。それより、これだ」
リョウさんは、茶封筒の上に、チャリッと金属音を立てて何かを置いた。
シルバーの鍵だ。
「これは?」
「この近くにあるマンスリーマンションの鍵だ。法人契約してある。セキュリティは万全だし、家具家電も揃ってる。当面はここを使え」
私は目を見開いた。
お金だけでなく、住む場所まで用意してくれていたなんて。
「あの……いつから、こんな準備を?」
「お前にMOSの資格を取らせた頃からだ。そろそろ限界だろうと思ってな」
彼はコーヒーを一口飲み、淡々と言葉を続ける。
「今日、家に帰ったら荷物をまとめろ。必要最低限でいい。明日の朝、俺が迎えに行くフリをして、そのままお前を連れ出す。二度とあの家には戻さない」
それは、完璧な逃走計画だった。
まるでドラマのような展開に、現実感が追いつかない。けれど、目の前のリョウさんの瞳は真剣そのものだ。
「リョウ義兄さんは……どうしてここまでしてくれるんですか? 義弟の嫁を逃がすなんて、家族を裏切ることになりますよ」
私が恐る恐る尋ねると、彼はふいと視線を逸らした。
「……あの家が異常なだけだ。それに」
「それに?」
「俺の会社で育てた優秀な人材を、家庭の事情なんかで潰されたくないだけだ。……それだけの話だ」
素っ気ない言い方だった。
でも、その耳が少し赤くなっていることに、私は気づいてしまった。
この人は、冷たいんじゃない。言葉にするのが下手なだけなんだ。
そう思ったら、張り詰めていた心がふっと緩んで、自然と笑みがこぼれた。
「ふふっ」
「……なんだ」
「いえ。リョウ義兄さんって、意外と不器用なんですね」
「……うるさい」
リョウさんはバツが悪そうに眉を寄せた。
初めて見る、彼の人間らしい表情。
今まで「怖い監視役」だと思っていた彼が、今では世界でたった一人の「共犯者」に見えた。
その日の帰り道。
車内の空気は、これまでとは全く違っていた。
沈黙さえも心地よい。助手席で揺られながら、私は鞄の中の重み――二百万の現金と、マンションの鍵――を確かめる。
家の前に着くと、リョウさんはエンジンを切らずに言った。
「明日の朝、八時だ。遅れるなよ」
「はい。……本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げて車を降りる。
玄関を開けると、いつもの光景が広がっていた。
リビングでは義母がテレビを見て笑い、夫のユウジはソファでゴロゴロしている。
「遅かったじゃない。さっさと夕飯にしてちょうだい」
義母が私を見ずに言う。
昨日までなら、この言葉に胃が縮む思いをしていただろう。
でも、今は違う。
「はい、すぐに」
私は静かに答えた。
心の中で舌を出す。
(これが最後の夕飯よ。精々、味わって食べるといいわ)
キッチンに立ちながら、私はリョウさんの言葉を反芻する。
『お前は奴隷じゃない』
『相沢ミユとしての人生を取り戻せ』
包丁を握る手に力が入る。
もう怖くない。私には帰る場所も、武器(資格)も、そして味方もいる。
最後の夜。
私は震えることなく、冷静に「脱出」の準備を進めた。
明日、すべてが終わる。そして、すべてが始まるのだ。
お読みいただきありがとうございます。
耳を赤くするリョウ、実は感情ダダ漏れですね(笑)。
最強の共犯者を得たミユにとって、義母の嫌味ももう痛くも痒くもありません。
次は第8話「告白と選択」です。
いよいよ脱出の朝。そして、車内でリョウが想いを告げます。
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