第1話「新婚なのに、居場所がない」
全10話、完結済みです。
一挙公開しましたので、最後まで一気にお読みいただけます。
義実家で虐げられていた主人公が、冷徹だと思っていた義兄の手助けで幸せになるお話です。
最後はスカッとハッピーエンドですので、安心してお楽しみください!
早朝五時。
まだ夜の闇がへばりつく薄暗いキッチンに、包丁がまな板を叩く音が虚しく響く。 一月の水道水は、指先の感覚を容赦なく奪っていく。
あかぎれだらけの私の手は、水に触れるたびにピリピリと悲鳴を上げるけれど、ハンドクリームを塗っている暇なんてなかった。
「……よし、お義父さんの分はこれで終わり」
四人分の弁当箱を並べ、手際よくおかずを詰めていく。
義父は焼き魚と煮物中心、夫のユウジは肉多め、義兄のリョウさんは……特に好き嫌いはない。 けれど、彩りが悪いと「これじゃあリョウが食欲をなくすじゃない」と義母に文句を言われるのは私だ。
ふう、と小さく息を吐く。
結婚して、まだ一年。 本来なら「新婚さん」と呼ばれて、甘い時間を過ごしているはずの時期だ。 けれど私、相沢ミユの現実は、想像とはあまりにかけ離れていた。
「あら、ミユさん。おはよう」
背後から声をかけられ、ビクリと肩が跳ねる。 義母のフミエだ。いつも私が朝食の配膳を終える六時半きっかりに起きてくる。
「おはようございます、お義母さん。朝食、できてます」
「ん……。今日の味噌汁、ちょっと出汁が薄くない? 昨日も言ったけど、お父さんは濃いめが好きなのよ」
「すみません、すぐに調整します」
「あと、パンの耳。もう少しカリッと焼いてちょうだい。……はぁ、何度も言わせないでね」
義母はわざとらしい溜息をつくと、私が淹れたお茶をずず、と音を立てて啜りながらテレビのスイッチを入れた。
手伝おうという素振りは一切ない。 この家において、私は「家族」ではなく「便利な労働力」なのだと、毎朝思い知らされる。
七時過ぎ、夫のユウジが欠伸をしながら起きてきた。
「ふわぁ……おはよう。飯ー」
「おはよう、ユウジ。すぐ出すね」
愛する夫。大学時代から付き合って、やっと結ばれた人。 私は縋るような思いで、彼の顔を見た。
「あのね、ユウジ。今日、少し買い物に行きたくて……家事の合間に」
「ん? 行けばいいじゃん」
「それが、お義母さんが『無駄な外出は控えて』って……。ユウジから一言、言ってくれないかな」
ユウジはスマホでニュースを見ながら、味噌汁を口に運ぶ。
「母さんも悪気はないんだよ。ほら、ミユって世間知らずなところあるから、心配してくれてるんだって。合わせてあげなよ」
「……でも」
「あー、俺もう行く時間だわ。ごちそうさん」
彼は私の訴えを聞き流し、席を立つ。 視線すら合わせてもらえなかった。
「悪気はない」。 それが、この家での魔法の言葉だ。その言葉の下で、私の心は毎日少しずつ削り取られていく。
その時だった。
リビングの空気が、ふっと冷たくなった気がした。 二階から、義兄の相沢リョウが降りてきたのだ。
三十四歳。若くして起業し、成功を収めている経営者。 無口で無表情。何を考えているのか分からなくて、私はこの人が少し怖かった。
「……おはようございます、義兄さん」
私が頭を下げると、リョウさんは私の前で足を止めた。 鋭い視線が、私の顔から、エプロン、そして荒れた指先へと落ちる。
じっと見つめられ、私は思わず手を後ろに隠した。汚い、と思われたかもしれない。 リョウさんは眉間に深い皺を刻むと、低く呟いた。
「……邪魔だ」
それだけ言い捨てて、彼は玄関へと向かっていった。
心臓が早鐘を打つ。 やっぱり、嫌われている。 仕事ができて完璧主義な義兄にとって、要領の悪い弟の嫁なんて、視界に入るだけで不快な存在なのだろう。
八時。 全員を送り出した家の中は、不気味なほど静かだ。
テーブルの上には、食べ散らかされた食器の山。 洗濯機からは終了を告げるブザーが鳴っている。
私はリビングの棚に飾られた、結婚式の写真を見つめた。 ウェディングドレスを着た私は、世界で一番幸せそうに笑っている。
「……私が我慢すれば、丸く収まるんだもんね」
誰に言うでもなく呟いて、私は流し台に向かった。
ポタリ、と。 蛇口から落ちた水滴と一緒に、涙が一粒だけ、あかぎれた手の甲に落ちた。
この時の私はまだ知らない。
あんなに冷たい目をしていた義兄さんが、本当は何を考えていたのかを。 そして、この地獄のような生活が、彼の「ある計画」によって終わりを迎える日が来ることを。
お読みいただきありがとうございます。
この冷たい義兄、実は……?
次は第2話「無料の家政婦」です。
すでに最終話まで投稿済みですので、サクサク読み進めていただければ幸いです!




