第4話 二次審査のリングと、届かなかった手
前回は、さやかが二次審査当日の朝に家を出て、PWS本部ビルの本部道場に到着するところまでを書きました。
本部道場の空気、黒岩トレーナーや天城社長の挨拶、基礎運動のきつさ、そして後輩候補となる受験生・朝比奈こはるとの出会いまでです。
第4話では、いよいよ「リングの内側」で行われる受け身やロープワークの審査、そして合否発表──
「受かった者」と「今はまだ届かなかった者」が分かれる場面を描いていきます。
よければ今回もお付き合いください。
ステップに足をかけると、ゴムと金属がこすれる、くぐもった音が足裏から伝わってきた。
目の前には、三本のロープ。
その向こうに、青いキャンバスが広がっている。
(行くんだ)
喉の奥で、ごくりと唾を飲み込む。
ロープをまたぐために片足を上げると、太ももがさっきまでのスクワットのせいでじんと痺れた。
それでも、手すり代わりにロープに手を添えて、えいっと跨ぐ。
ぐ、と足が沈む感触がした。
柔らかい。けれど、思っていたほどふわふわではない。
マットの奥に、固い床が確かにあるのが分かる。
(これが……リングの中)
キャンバスの青が、さっきよりも近い。
視界の高さも変わる。
誰かに「見られる側」の高さだ。
「三十九番、中央」
黒岩の低い声が飛ぶ。
さやかは、言われた通りリングの真ん中に立った。
膝が少し笑っているのが、自分でも分かる。
「後ろ受け身からだ」
黒岩がマットを軽く足で叩く。
「膝を軽く曲げて、腰を落として、そのまま後ろに倒れる。
腕を横に開いて、床を叩け。
顎は引く。頭を打つな。
怖かったら、『怖い』と言え。中途半端が一番危ない」
言葉だけ聞けば、体育の授業でやったことのある説明に似ている。
けれどここは体育館ではなく、本物のリングだ。
さやかは、言われた通り膝を曲げ、腰を落とした。
(このまま後ろに倒れたら、頭から落ちるんじゃ……)
想像が先に走る。
背中を打つ感覚。頭を打つ感覚。息ができないほどの痛み。
イメージだけで、足が床に根を張ったみたいに動かなくなった。
リングサイドから、白銀レフェリーが口を開く。
「大丈夫だ。
さっきも言ったが、手順通りにやれば、痛みは“我慢できる痛み”になる。
怖さを消そうとしなくていい。
怖いまま、『それでも倒れる』って決めろ」
淡々とした声だったが、不思議と落ち着く響きがあった。
(怖いまま、倒れる)
さやかは、一度だけ深く息を吸い込んだ。
肩に入っていた力を、意識して抜く。
「……お願いします」
誰にともなくつぶやいて、そのまま後ろに身体を倒した。
視界がふっと揺れる。
次の瞬間、背中にどん、と鈍い衝撃が走り、ほぼ同時に両腕がキャンバスを叩いた。
ぱん、と乾いた音がリングに響く。
「……っ!」
思わず息が詰まる。
背中がじんと痺れ、肺の奥から空気が一瞬抜けていく。
(いっ……い、痛い……!)
けれど、想像していた「息ができないほどの激痛」ではなかった。
ぎりぎり、「耐えられる方」の痛みだ。
「今のを、あと二回」
黒岩の声に、「はい」と返事をして、もう一度立ち上がる。
膝を曲げ、腰を落とし、後ろへ倒れる。
二回目は、少しだけタイミングが分かってきた気がした。
腕を叩く音も、さっきよりキャンバスによく響く。
三回目。
背中に残る痛みを無視して、もう一度だけ倒れる。
「……ふうっ」
キャンバスの上で大きく息を吐いた。
「怖ぇのは顔に出てるが、頭は守れてる。
初めてなら、今のところは十分だ」
黒岩の短い評価が飛ぶ。
「次」
合図とともに、さやかはロープの方へ下がった。
ロープをくぐってリングの外へ出ると、さっきより足がガクガクしている。
(立てた……ちゃんと受け身、できた……)
まだ背中はじんじんしている。
でも、その痛みがどこか誇らしくもあった。
***
そのあとも、次々に受験者がリングに上がっていった。
道場で見たときから身体能力が高そうだったショートカットの子は、
動きはぎこちないものの、最初からフォームがきれいだった。
背中がまっすぐで、倒れるタイミングも一定。
受け身の音が、他の子よりも一段低く、重く響く。
「十一番、星緋いぶき」
名簿読み上げの声で、その名前を初めて知る。
黒岩が、ほんの少しだけ顎を引いた。
「身体の使い方は分かってるな。
後は、リングに慣れりゃあもっと良くなる」
華奢な子──さっきノートを広げていた少女は、「四十七番、ノエル・シエル」と呼ばれていた。
色の薄い髪を揺らしながらリングに上がったノエルは、顔面蒼白だった。
足取りもおぼつかない。
「う、後ろに、倒れる……んですね……っ」
「そうだ。
怖がるなとは言わねえ。
ただ、怖さで身体が固まるくらいなら、倒れる方向を自分で決めろ」
黒岩にそう言われて、ノエルはぎゅっと目をつぶった。
一回目の受け身は、ほとんど転んだような形になってしまい、派手にキャンバスに叩きつけられた。
「いっ……!」
その瞬間、白銀がすぐにリングの中へ入る。
「腕の位置が悪い。
この角度で、ここを叩く」
白銀に手首と肘の位置を直され、ノエルは涙目で何度もこくこくとうなずいた。
「も、もう一度……お願いします……」
二回目。
さっきよりもきれいな音が鳴った。
ノエルの顎はしっかり引かれていて、頭は守られている。
「怖いくせに、一歩だけ前に出せる。
そういう奴は、伸びしろがある」
黒岩がぽつりと呟いた。
鏡の前で笑顔を確認していた派手な子は、「二十三番、姫乃らん」と呼ばれた。
「ひ、姫乃らんですっ。よろしくお願いします!」
リングに上がる前から、声がやけに通る。
受け身自体はまだまだで、音も軽く、フォームも危なっかしいところが多かった。
それでも、倒れる直前に一瞬だけ客席を意識したように顔を上げる癖がある。
「お前なぁ、リングで笑っていられるのは、技がちゃんとできてからだ」
黒岩が眉間に皺を寄せる。
「す、すみませんっ……!」
「……とはいえ、その顔は客席から見たら武器だ。
倒れ方と一緒に、笑い方もちゃんと覚えろ」
「はいっ!」
注意されても、らんの目はむしろ少し輝いて見えた。
***
受け身の練習が進んでいくうちに、番号は四十番へと近づいた。
「四十番、朝比奈こはる」
名前を呼ばれたこはるは、びくっと肩を震わせた。
さやかの方をちらりと見て、小さく息を吸う。
「……行ってきます」
「うん。……頑張って」
さやかができるのは、それだけだった。
こはるは、慎重にステップを一段ずつ上がり、ロープをまたいでリングに入った。
小柄な体が、青いキャンバスの上でさらに小さく見える。
「朝比奈、後ろ受け身だ。
さっきと同じ説明だが、一応もう一度言う」
黒岩が、最初にさやかに言ったのと同じ手順を繰り返す。
こはるは、言われた通り膝を曲げ、腰を落とした。
そこまでは問題ない。
だが、いざ後ろに倒れようとした瞬間、身体がぴたりと止まった。
「……っ」
肩に力が入りすぎている。
指先までこわばっているのが、見ている側にも分かった。
「怖いか」
黒岩の声が、少しだけ低くなる。
「こ、怖いです……。
でも……やります。やりたいです……」
こはるは必死に言葉を絞り出した。
「“やりたい”のは分かった。
だが、“できるまでやる”のと“怖くて何も見えなくなる”のは別だ」
白銀がリングロープのすぐ外から口を開いた。
「一度、試してみよう。
膝をもう少し曲げて、腰を落として……そう。
顎を引いて、目を閉じてもいい。
そのまま、後ろへ」
こはるは言われた通りに姿勢を整えた。
膝がカクカクと震えている。
倒れようとする。
でも、そのたびに身体が前に戻ってしまう。
何度目かの試行のあと、こはるは唇を噛んだ。
「ご……ごめんなさい……っ。
怖い……です……」
目尻に、うっすらと涙が浮かんでいた。
白銀は、ゆっくりと首を横に振った。
「今日はここまでにしよう」
「でも……あたし、やりたいです……。
ここでできなかったら、きっと──」
「“ここで無理をして頭を打って、そのまま立てなくなる”方が、ずっと良くない」
白銀の声は淡々としていたが、その言葉には迷いがなかった。
「怖さに慣れる前に怪我をしたら、本当にリングから遠ざかることになる。
今のあなたは、まだそこまで行かせちゃいけない段階だ」
黒岩も、静かに頷く。
「朝比奈。
お前が悪いわけじゃねえ。
今のお前の体と心の準備が、リングに間に合ってねえってだけだ」
こはるは、きゅっと拳を握りしめたまま、うつむいた。
「……はい」
涙はこぼさなかった。
ただ震える声で、それだけを答えた。
「ロープをくぐって降りろ。
この後のメニューは、外から見ておけ」
こはるは、ロープをくぐり、ステップを一段ずつ降りていった。
リングの外に出ても、握られた拳だけは、そのままだった。
***
受け身のあと、黒岩はロープワークの説明に移った。
「次はロープワークだ。
リングの端から端まで走って、ロープに当たって返ってくる。
試合の基本は、『走る・当たる・転がる』だと思っとけ」
説明だけ聞けば簡単そうだが、実際にやってみるとそうでもない。
「三十九番、星屑。
ロープに向かって走れ。
途中で減速すんな。
背中でロープを押して、その反動で返ってこい」
「は、はいっ」
さやかはリングの端に立ち、反対側のロープを見据えた。
(走る、当たる、返る……)
頭の中で繰り返しながら、思いきり走り出す。
だが、ロープが目の前に迫ってきた瞬間、本能的にブレーキをかけてしまった。
「うわっ──!」
スピードが落ちた状態でロープに背中を預けたせいで、妙な角度で押し返される。
背中の一点だけがじんと痛んだ。
「ビビって減速してどうする。
“ぶつかりに行く”んだよ」
黒岩の声が飛ぶ。
「は、はい……!」
もう一度リングの端に戻る。
二度目は、さっきより少しだけスピードを落とさないように走り込んだ。
背中全体でロープを押す。
ぐっと押し返される反動で、自然と前へ体が押し出された。
(これか……)
まだぎこちないが、なんとなく感覚は分かった。
いぶきの番になると、その違いははっきりと見て取れた。
走り出しが滑らかで、ロープに当たるタイミングも一定。
背中全体でロープを押し、返ってくるときの一歩目が迷いなく前へ出ている。
「十一番、身体の使い方は悪くねえ。
よそで何かやってたか」
「はい。道場で……少しだけ」
いぶきは短く答えた。
ノエルは、最初の一回は足がもつれそうになって、ロープに絡まりかけた。
「わっ……!」
白銀がすぐにロープを押さえ、転倒だけは防ぐ。
「ラインを真っ直ぐ走ることだけ意識しろ。
ロープは、最後に一回だけ確認すればいい」
「は、はい……」
二回目以降は、ノエルは走る位置だけに意識を集中させた。
まだ怖さは消えていないが、その分、頭で必死に修正しているのが分かる。
らんのロープワークは、正直言って走り方はバタバタしていた。
だが、ロープに当たって返ってくるとき、髪がふわりと舞い、ターンするときの顔つきが妙にさまになっている。
「二十三番。
足はバタバタ、息も上がりすぎ。
だが、その顔と動きは客席の目線を集める」
「えっ、ほ、本当ですか」
「お世辞は言わねえ。
後は、その体力と技が追いつくかどうかだ」
らんは、ぜいぜい言いながらも嬉しそうに笑った。
その後、簡単なロックアップ(組み合い)の確認も行われた。
さやかは、ペアになった子にあっさりと押し込まれ、首のあたりにかかる力でぐらぐらと揺れてしまった。
「腕力がねえなら、その分どこに体重を預けるか覚えろ。
技術でごまかせる部分は、いくらでもある」
黒岩の言葉に、「はい」と答えながら、さやかは必死で足の踏ん張り方を探した。
その間も、こはるはマットの外からじっとリングを見ていた。
握った拳はほとんど解かれていない。
ロープワークが一段落したとき、ふと視線が合った。
「……見てるだけでも、すごいですね」
こはるが、ぎこちなく笑う。
「うん……。痛いけど、すごい」
さやかも笑い返した。
本当は、リングの中にいても怖くてたまらないのだが、それを言うのはずるい気がした。
***
二次審査のメニューが一通り終わったあと、
受験者たちは一度控えスペースに戻され、スタッフに番号の札を返した。
その間、道場の隅では、黒岩と天城社長、白銀が短く言葉を交わしていた。
「どうだ、黒岩」
社長の問いに、黒岩は腕を組んだまま答える。
「そうだな……。
まず十一番。星緋いぶき」
「あのショートカットの子ですね」
「身体がすでに出来てる。
足腰もしっかりしてるし、動きに無駄が少ねえ。
教え甲斐はある」
「四十七番、ノエル・シエルは?」
「怖がりだが、逃げなかった。
“怖さと付き合う”感覚はある。
ああいうタイプは、一回腹をくくると伸びる可能性が高い」
白銀が、小さく頷く。
「受け身の二回目は、かなり良かったです。
フォームを素直に直せる子は、事故が少ない」
「二十三番、姫乃らん」
社長が名前を出すと、黒岩はわずかに眉を上げた。
「あいつは体力も技術もまだまだだ。
だが、『客前に立つ顔』を持ってる。
あの笑顔と度胸は、アイドル枠としてなら育てる価値がある」
「ブレイクすれば、団体の入り口にもなりますからね」
社長は苦笑しつつも、どこか楽しそうに目を細めた。
「三十九番、星屑さやかは?」
「体力は底辺。技術もゼロ。
ただ――」
黒岩は、さきほどの受け身の光景を思い浮かべる。
「あいつ、多分今日が人生で一番怖かったはずだ。
それでも、三回目までしっかり倒れた。
“折れない根っこ”は、一番太いかもしれねえ」
白銀も、さやかのゼッケン番号に視線を落とす。
「受け身の初歩としては合格点です。
怖さを誤魔化そうとせず、『怖いままやる』ことを選べるのは、レフェリーとしてはありがたいタイプですね」
「四十番、朝比奈こはるは?」
その名前が出た瞬間、三人ともほんの少しだけ表情を曇らせた。
「心はある。脚もまあまあ動く。
基礎運動もギリギリまで粘っていた。
だが受け身で止まった。
あのまま通したら、怪我させる未来しか見えねえ」
黒岩の言葉に、白銀が静かに続ける。
「今日の段階では、“リングに立たせちゃいけない子”ですね。
怖さが勝ちすぎている。
ああいう状態で頭を打ったら、本当に立てなくなる可能性があります」
社長は、こはるの顔を思い出す。
「ただ、目の奥は死んでいませんでした。
ああいう子が、半年後、一年後にもう一度来るかどうか。
そこで初めて、“本気”かどうかが分かるのかもしれません」
「今回は落とす。
それで折れるなら、その程度。
“それでももう一回来る”なら、そのときは本気で考える価値がある」
黒岩の言葉に、他の二人も異論はなかった。
「……この四人は通そう」
社長は、いぶき・ノエル・らん・さやかの番号に印をつける。
「この先どこまで行けるかは、本人たち次第ですが──
少なくとも、入り口には立てるでしょう」
***
しばらくして、受験者たちは再びマットスペースに集められた。
「これから、二次審査の結果をお伝えします」
スタッフが、クリップで止められた紙束を手にして前に立つ。
「番号を読み上げられた方が、二次審査通過となります。
呼ばれなかった方は、今回はご縁がなかったということで、ご理解ください」
ざわ、と小さなざわめきが広がる。
さやかの心臓は、さっきのロープワークよりも早く脈打っていた。
「それでは──」
スタッフは紙に目を落とし、番号を読み上げ始める。
「十一番、星緋いぶきさん」
前列の方で、一人のショートカットの少女が小さく息を飲んだ。
「二十三番、姫乃らんさん」
「は、はいっ!」
らんが思わず声を上げる。
その声に、列の中に緊張した笑いが少しだけ走った。
「三十九番、星屑さやかさん」
「……っ」
自分の番号が呼ばれた瞬間、胸の奥がじわっと熱くなった。
足元がふわふわする。
隣に立つこはるが、ぴくりと肩を震わせたのが分かる。
「四十七番、ノエル・シエルさん」
番号がひとつ、またひとつと読み上げられていく。
やがて、スタッフは紙を閉じた。
「以上の方が、二次審査通過となります。
残念ながら今回は通過とならなかった方も、
ここまでよく頑張ってくださったことに、スタッフ一同感謝しています」
静かな拍手が起こった。
誰に向けてのものなのか、自分でもよく分からない拍手だった。
(……受かった)
頭ではそう理解しているのに、実感が追いつかない。
視界の端で、こはるが紙片を受け取るのが見えた。
通過者には、次の案内が書かれた封筒。
不通過者には、簡単なねぎらいの言葉とお礼状が入った紙。
自分の手には封筒がある。
こはるの手には、折りたたまれた一枚の紙。
解散の声がかかり、少しずつ人の輪がほどけていく。
通過者とそうでない者が、自然と別々の方向へ散っていった。
「……星屑さん」
控えスペースの隅で、こはるが声をかけてきた。
さっきよりも、表情は落ち着いている。
目は赤いが、涙はもう出ていなかった。
「落ちちゃいました」
手に持った紙を、ぎゅっと握りしめる。
その指先が白くなる。
「そう、なんだ……」
何と言えばいいのか分からない。
「次があるよ」とか「よく頑張ったよ」とか、
安っぽい言葉はいくらでも浮かぶのに、どれも口には出せなかった。
「でも、また来ます」
こはるは、くしゃっと笑った。
「次のオーディション、ぜったい受けに来ます。
だから、その時まだPWSにいてくださいね、星屑さん」
「……うん」
さやかは、こはるの目をまっすぐ見た。
「その時まで、ちゃんとここに立っていられるように、あたしも頑張る。
今度は、“先輩”って呼ばれても恥ずかしくないくらいに」
「ふふっ。楽しみにしてます」
こはるは一礼して、出口の方へ歩き出した。
背中は小さいけれど、その歩幅はしっかりと前を向いていた。
(受かった側と、今はまだ届かなかった側)
さやかは、自分の手の中の封筒を見つめた。
同じだけ走って、同じだけ転がって、同じように痛みを知ったはずなのに。
紙切れ一枚で、立つ場所が変わってしまう。
(ここに立てたのは、運じゃない。
でも、あたしだけの力でもない)
こはる。
まな。
お父さんとお母さん。
いろんな人の顔が頭の中をよぎる。
ビルのエントランスを出ると、午前中よりも太陽が眩しくなっていた。
ガラス壁に映るPWSのロゴが、さっきよりもはっきりと目に入る。
さやかは、ビルから少し離れたところで立ち止まり、スマホを取り出した。
まず母に電話をかけるべきか。
それとも、まなにメッセージを送るべきか。
迷った末に、最初に開いたのはまなのトーク画面だった。
「終わった?」
数十分前に送られていたメッセージが、画面の一番下に残っている。
入力欄に、ゆっくりと指を走らせた。
「受かった」
たった二文字。
それでも、その二文字には、自分の今日一日の全部が詰まっている気がした。
(これを送ったら、もう戻れない)
送信ボタンに指をかける。
家を出る前より、リングに上がる前より、少しだけ手の震えは小さい。
「……送信」
小さく呟いて、画面をタップした。
“送信しました”の表示が出る。
すぐに、「既読」が二に変わった。
同じ内容を、母にも送る。
「あとで電話します」と一言添えて。
ビルを振り返ると、ガラス越しに貼られた皇あまねのポスターが目に入った。
(いつか──あの人が立つリングに、同じレスラーとして立てるように)
封筒を胸に抱え、星屑さやかは、本部ビルをあとにした。
次にここを訪れるとき、自分はもう「ただのオーディションの受験者」ではなくなる。
本気でプロレスラーを目指す、“PWS本部道場の練習生”として、この場所に戻ってくるのだ。
その重さを、今はまだ全部は抱えきれない。
それでも、抱えようと手を伸ばしたのは、自分自身だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第4話では、
・さやかの「初めてリングの内側に立つ」受け身とロープワーク
・いぶき/ノエル/らん、それぞれの個性が少しずつ見え始める動き
・朝比奈こはるが「心はあるけれど、今はまだ届かない」存在として描かれること
・黒岩、天城社長、白銀たち大人側のジャッジの理由
・合格した者と、今回は落ちた者が分かれる場面と、「また来ます」と言えるこはるの強さ
を書きました。
さやかは「受かった側」として、ようやく本部道場の入り口に立ちますが、
同時にこはるの存在が、「いつか迎える後輩」「自分より後に来る誰か」を意識させるきっかけにもなっています。
次回からはいよいよ、本格的な本部道場での練習生生活編へ入っていきます。
鬼トレーナーの黒岩、社長、先輩レスラーたちとの本格的な関わり、
そしてさやか・いぶき・ノエル・らんの4人が「同じ合格組」として顔を合わせていく場面を描いていく予定です。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
ブックマークや感想など頂けると、とても励みになります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




