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星屑の少女はリングに立つ ―才能ゼロから始める女子プロレスラー・星屑さやか―  作者: バックドロップ
第一章 スターダスト・オーディション編 ――星屑の子、リングの門を叩く――
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第3話 二次審査、本部道場へ

前回は、一次審査の合格と、両親の戸惑い。

そして、幼馴染のまながタブレット片手に援護してくれて、「二次審査まで」という条件付きで送り出されるところまでを書きました。


第3話では、いよいよさやかがPWS本部ビルへ向かい、本部道場の扉をくぐります。

親との約束、まなからのメッセージ、本部道場の雰囲気、そして後輩候補の朝比奈こはるとの出会いまでが中心の回です。


よければ今回もお付き合いください。




 その朝、家の中の空気は、いつもより少しだけ張りつめていた。


 食卓に並ぶメニューは、いつもと変わらない。

 焼き鮭に卵焼き、サラダ、味噌汁、ご飯。


 ただひとつ違うのは、椅子の横に置かれたスポーツバッグだ。

 学校の指定カバンではなく、体育のジャージとタオルと飲み物が詰まった遠足用のリュック。


 その中には、父と母が昨夜署名した「保護者同意書」も入っている。


「ちゃんと食べなさいよ。途中でお腹空いても困るんだから」


 母が、いつもより一言多めに世話を焼いてくる。


「うん。……いただきます」


 箸を取ったものの、口の中がからからで、なかなかご飯が進まない。

 胸の奥で、今日という日がじわじわと形を持ち始めていた。


 味噌汁を一口飲んだところで、父が新聞から視線を上げた。


「……さやか」


「うん?」


「昨日も言ったが、念のためにもう一度だけ言っておく」


 父の声はいつも通り低く落ち着いていたが、その目は真剣だった。


「途中で本当に無理だと思ったら、逃げていい。

 ただし、逃げた理由だけは、自分でちゃんと認めろ。

 “何となく”ではなく、自分で考えて決めたと思える理由だ」


「……うん」


「怪我をしそうなことを、誰かに強制されたら、そのときはきっぱり断れ。

 怒鳴られようが何を言われようが、命と体の方が大事だ。

 それで本当に駄目になるような場所なら、その時点でやめて帰ってこい」


 言葉は厳しいのに、その奥にあるものが怖さだけではないのは分かった。


 心配。迷い。それでも、背中を押そうとしてくれている気持ち。


「……分かった」


 さやかは、箸を握ったまま小さくうなずいた。


 母も、湯気の立つ味噌汁を置いて、改めて向き直る。


「終わったら、結果がどうでも電話ちょうだいね。

 終わったって分かるまで、こっちはずっとそわそわしてるから」


「うん、する」


「水はこまめに飲むこと。無理はしないこと。

 あと、行く前にもう一回トイレ行っときなさいね」


「小学生じゃないんだから……」


 思わず笑いが漏れる。

 その笑いに、自分がどれだけ緊張していたかを思い知らされる。


「……じゃあ、行ってきます」


 食器を片づけ、バッグを背負い、玄関に立つ。

 靴ひもを結びながら、一度だけ深呼吸をした。


 扉の前で振り返ると、廊下から父と母がこちらを見ている。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


「……行ってらっしゃい。気をつけてね」


 その言葉に送られて、星屑さやかは家を出た。


 


 ***


 


 最寄り駅から出ている私鉄の車内は、通勤ラッシュには少し早い時間で、そこまで混んではいなかった。


 座ることはできなかったが、ドア横の手すりをつかめるだけでありがたい。

 つり革に掴まる指とは別に、反対側の手は自然とバッグのストラップを握りしめていた。


 車内アナウンスが流れ、電車がゆるやかに加速する。


(……本当に、行くんだ)


 窓の外には、いつも通りの街並み。

 制服ではなくジャージ姿でここに立っていることだけが、現実から少し浮いている。


 ポケットの中のスマホが震えた。


 取り出すと、水野まなからのメッセージが画面いっぱいに表示される。


「今どこ!」


 続けざまに、もう一件。


「二次審査だからってガチガチになりすぎないこと。

受け身は昨日、布団の上でイメトレした通りでいいんだからね」


 昨夜、電話越しに“布団受け身”を一緒に練習した光景が思い出される。

 布団の上でごろごろ転がっていた自分が、今は本物のリングに向かっている。


 さやかは、親指で短く返事を打った。


「今、電車。駅2つ前」


「了解。

合格したら、記念に推しタオルもう一枚買ってあげよう(勝手に)」


「まだ受かってもないのに、もうオタク活動の予定立てないで」


「こっちは既に“未来の推しのビッグマッチ単独興行”まで見えてるので」


「……勝手に見ててよ」


 思わず小さく笑ってしまい、向かいの席の会社員が不思議そうにこちらを見た。

 慌てて視線をそらし、スマホをポケットにしまう。


 ドアの窓に映る自分の顔は、緊張で少し強張っていた。

 けれど、家を出る前よりも、わずかに表情が引き締まって見える気がする。


(行くって決めたんだ。

 “諦めないで立ち続ければ、なれないって決めつける理由はなくなる”って、あまねさんも言ってたんだから)


 揺れる車内でバランスを取りながら、心の中でもう一度、自分に言い聞かせた。


 


 ***


 


 目的の駅で電車を降りると、空気の匂いが少し違った。


 高層ビルが立ち並ぶオフィス街。

 平日の昼間ならスーツ姿の人たちであふれているのだろうが、今日はまだ朝が早いせいか、通りはまばらだった。


 地図アプリを開き、「PWS本部ビル」と表示されたピンを頼りに歩き出す。


 角をひとつ曲がるたびに、心臓の鼓動が早くなる。

 ビルの間を抜ける風が、背中のジャージをふわりと揺らした。


「……あ」


 横断歩道を渡った先に、それはあった。


 全面ガラス張りの中層ビル。

 一階のエントランス横には、黒地に銀色の星が散りばめられたロゴプレート。


 その下には、こう書かれている。


「PWS本部ビル」


 ガラス越しに見えるロビーには、観葉植物とソファ、受付カウンター。

 その手前の壁面には、ポスターが数枚並んでいた。


 黒いコスチュームの皇あまねが、リングロープにもたれかかるように映っているもの。

 笑顔でポーズを決めるアイドルレスラーユニットのポスター。

 血のような赤を基調に、冷たい視線をこちらに向けるヒールユニットのビジュアル。


(……本当に、ここなんだ)


 テレビや雑誌の中でしか見たことのなかった世界が、

 自動ドア一枚の向こう側にある。


 緊張で指先が冷たくなりながらも、さやかは一歩、足を踏み出した。


 自動ドアが静かに開き、冷房の効いた空気が頬を撫でる。


「いらっしゃいませ」


 受付に座っている女性が、にこやかに頭を下げた。


「あ、あの……」


 声が裏返りそうになるのを必死で押さえながら、さやかはカウンターに近づく。


「本部道場の新人オーディション、二次審査に……来ました。

 星屑さやかです」


「確認いたしますね。少々お待ちください」


 受付の女性がパソコンを操作し、画面を見つめる。


「はい、星屑さまですね。

 本日二次審査、九時からの回で間違いありません」


 柔らかい笑顔で、クリアファイルを一枚渡された。


「こちら、二次審査の案内です。

 七階の本部道場までエレベーターでお上がりください。

 道場の前にスタッフがおりますので、そちらの指示に従ってくださいね」


「は、はい。ありがとうございます」


 ファイルを受け取り、エレベーターへ向かう。

 銀色の扉に映る自分の姿は、やっぱりまだ少し頼りなかった。


 七階のボタンを押し、扉が閉まる。

 機械の駆動音とともに、体がふわりと浮いたような感覚になる。


 階がひとつ、またひとつ上がるたびに、胸の高鳴りも一段ずつ増していく。


「……七階、本部道場」


 パネルの表示が「7」で止まり、扉が開いた。


 廊下に出ると、白い壁とグレーの床が続く、シンプルなフロアだった。

 だが、空気はどこか違う。


 遠くから、何かが床を叩く鈍い音が聞こえる。

 ロープがきしむような、ぎし、という低い音。

 誰かの掛け声と、それに応える「はいっ!」という若い声。


 廊下の突き当たり、両開きの扉に紙が貼られている。


「PWS本部道場

新人オーディション二次審査会場

関係者以外立入禁止」


 喉が、ごくりと鳴った。


(ここだ)


 扉の前には、スタッフらしい男性が一人立っていた。

 「受験者」の腕章をつけている。


「あの……二次審査の星屑さやかです」


「はい、星屑さんですね。

 時間ぴったりです。お疲れさまです」


 男性は名簿を確認し、ペンで何かに印をつけた。


「こちらのゼッケンを胸に付けてください。

 番号は三十九番です。

 中に控えスペースがありますので、上履きに履き替えてお待ちください」


「はい」


 渡されたゼッケンには、「39 星屑さやか」と印刷されている。


 靴を脱ぎ、備え付けのシューズボックスから内履きを取り出す。

 扉の向こうに足を踏み入れる前に、一度だけ深く息を吸った。


 き――と、ゴムが床をこする音を立てて、扉が開く。


 


 ***


 


 そこは、思っていたよりも広かった。


 体育館を小さくしたような長方形の空間。

 壁の一面は鏡張りで、床には青いマットが敷かれている。


 その奥、部屋の中央には、四本のポールと三本のロープで囲まれたリングが一基。

 銀色の鉄柱と、青いキャンバス。


 テレビで見てきた「PWSのリング」と同じデザインなのに、

 目の前にあるそれは、どこか別物に見えた。


(これが……)


 客席から見上げていたときとは、全然違う。

 ロープは思っていた以上に高く、太く、近い。


 すでに何人かの受験者が来ていて、マットスペースのあちこちでストレッチをしたり、壁にもたれて座っていたりした。


 体育会系らしいジャージ姿の子。

 華奢で、長袖のインナーを着ている子。

 落ち着かなさそうに時計ばかり見ている子。


(一人じゃ、ない)


 そう思った瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 ゼッケンをどう付けようかとバッグを開けていると、横から小さな声がした。


「あ、あのっ……」


 顔を上げると、ひとりの女の子が立っていた。


 自分より少し背が低いくらい。

 柔らかそうな茶色の髪を高めの位置でひとつ結びにしたポニーテール。

 制服に似たブレザーにジャージのパンツという、少しちぐはぐな格好。


 胸元には「40 朝比奈こはる」と書かれたゼッケンが、すでに付けられている。


「えっと……ここ、ピンが固くて。

 自分だとやりにくいですよね……」


 こはるはおずおずと安全ピンを差し出した。


「よかったら、付けましょうか?」


「あっ……う、うん。お願いしてもいい?」


「はいっ」


 こはるの指は少し震えていたが、ゼッケンを持つ手つきは手慣れていた。

 シャツとジャージを一緒に掴まないように気をつけながら、器用に安全ピンを通していく。


「ここを、少し斜めにすると……走ってもあまり揺れないって、聞いたことがあって」


「すごい、ありがとう。

 あたし、不器用だから、絶対ぐちゃぐちゃになるところだった」


「いえ、その……あたし、学校のマラソン大会とか、いつもゼッケン担当で……」


 言いながら、こはるは照れくさそうに笑った。


「えっと、あの、朝比奈こはるっていいます。

 高校一年生で……今回、初めて応募しました」


「星屑さやか。星海高校の二年。

 あたしも、初めて」


 握手を求められているような気がして、さやかは手を差し出した。

 こはるの手はひんやりと冷たかった。


「緊張、してる?」


「すごく、してます。

 さっきから、お腹痛くて……」


「……あたしも」


 二人で小さく笑いあった瞬間、少しだけ空気が柔らかくなった。


 ふと見ると、少し離れたところで、背の高いショートカットの子が黙々とストレッチをしている。

 背筋が一直線に伸び、股関節も信じられない角度まで開いている。


(あの人……すごい。身体、めちゃくちゃ柔らかい)


 さらに別の場所では、華奢な体つきの子がノートを開き、何かを確認するようにページをめくっていた。

 「受け身」「ロープワーク」などの文字が、ちらりと目に入る。


 鏡の前では、髪をきれいに巻いた女の子がひとり、笑顔の作り方をチェックしていた。

 くるりとターンして、ピースを作り、ウインクをしてみせる。

 その表情だけならアイドルのオーディションと言われてもおかしくない。


(みんな……全然、違う)


 運動神経の良さそうな子。

 見た目は華奢なのに、目だけ強く光っている子。

 どう見ても“アイドル志望です”というような子。


 たぶんそれぞれに、ここに来るまでの物語があるのだろう。


「受験者の皆さん、そろそろ時間です。

 荷物は壁際に寄せて、マットの上に二列で整列してください」


 スタッフの声が響いた。


 さやかとこはるは顔を見合わせ、ゼッケンの位置をもう一度確認してから、他の受験者たちと同じようにマットの上に並んだ。


 


 ***


 


 全員が並び終えると、道場の扉が再び開いた。


 最初に入ってきたのは、ジャージ姿の大柄な男性だった。

 腕を組み、鋭い目つきでこちらをひとりひとり見ていく。


(この人が……)


 プロローグの日、あまねの試合前VTRで見たことがある。

 鬼のようなトレーニングで新人を鍛えるという、PWS本部道場トレーナー。


 黒岩剛。


 その後ろから、ラフなジャケット姿の男性が続く。

 落ち着いた雰囲気の中に、どこかリングの匂いを残したような佇まい。


 天城星弥。PWSの社長。


 さらに白いシャツに黒のパンツという、レフェリー服の男性。

 雑誌で「安全第一の名レフェリー」と紹介されていた、白銀リョウ。


 そして最後に、白衣を着た女性が静かに入ってきた。

 髪を後ろでひとつにまとめ、首から聴診器を下げている。


(ドクターさん……)


 リングドクター兼メディカルトレーナーだろう。

 まながタブレットで見せてくれた本部道場紹介のページに映っていた人と、よく似ている。


 黒岩が一歩前に出た。


「――全員、前を向け」


 その声だけで、空気が変わる。


「ここまで来た時点で、お前らがそれぞれ覚悟を決めてきたことは、分かっているつもりだ。

 だが、ここから先は、“本気でやりたい”って言葉だけじゃ通用しない場所だ」


 黒岩の視線が、列の端から端までゆっくりと滑っていく。


「今日見たいのは、“今のお前たちの全部”だ。

 体力。柔軟性。怖さへの付き合い方。諦め方と、諦めないやり方。

 そして、こいつらの言うことをちゃんと聞ける頭があるかどうか」


 こいつら、と言って顎で示されたのは、社長と白銀とドクターだった。


「だが勘違いするなよ。

 今日でプロレスラーになれるわけじゃないし、

 ここを落ちたからと言って、プロレスラーになれないと決まるわけでもない」


 その言葉に、さやかの胸の奥が少し揺れた。


「ただ一つだけ言えるのは、今日ここにいる全員の中で、“通すかどうかを判断していい”立場にいるのは、俺たちだけだってことだ。

 そこだけは、ちゃんと覚えとけ」


 静かなざわめきが、列の中を走る。


 天城社長が前に出て、黒岩の隣に立った。


「黒岩の言うとおりです」


 先ほどまで柔らかく見えた表情から、一切の甘さが消えていた。


「ここまで来た皆さんは、それぞれ少なからず覚悟を持って応募してくれたのだと思います。

 その覚悟自体は、私はとても尊いものだと考えています」


 一拍置いて、社長は続けた。


「ただし、プロのリングは“頑張った”だけでは立てません。

 興行に出れば、お客様からお金をいただきます。

 その対価としての試合を見せられるかどうか。

 そこに至るまでの道のりの入り口に立てるかどうかを、私たちは今日、見ます」


 白銀レフェリーが一歩前に出る。


「私は、主に安全面を見させてもらいます。

 受け身が取れないのに無理をしている者がいれば、止めます。

 危険だと判断した動きがあれば、その時点で中断させます」


 声は穏やかだが、その目は驚くほど冷静で鋭かった。


「自分の限界を、自分で分かっているかどうかも、プロには必要な資質です。

 “やる気”と“無茶”は別物だということを、忘れないように」


 白衣の女性も、前に出て軽く会釈した。


「体調が悪い人、怪我をした人は、すぐに私のところに来てください。

 少しでもおかしいと思ったら、無理をしないでくださいね」


 柔らかく微笑みながらも、その声には揺るぎないものがあった。


「……以上だ」


 黒岩が再び一歩出る。


「これから、順番に基礎運動と受け身、それから簡単なロープワークを見てもらう。

 号令に従って動け。勝手なことをするな。

 途中でどうしても無理だと思ったら、その時点で手を挙げろ。

 意地でごまかした怪我が、一番タチが悪い」


 列のあちこちで、小さな息を呑む音がした。


「それじゃあ、まずは体を温めるところからだ。

 道場の端から端まで、合図に合わせてランニング。

 『始め』って言ったら走る、『止め』って言うまで止まるな。いいな」


「「はい!」」


 返事が重なり、黒岩の号令で列が動き出す。


 


 ***


 


 最初は、それほどきつくないと思った。


 道場の周りをぐるぐると走る。

 体育の授業でもやったことのあるような、普通のランニング。


 けれど、道場の床は体育館よりも柔らかく、足に伝わる反発が微妙に違う。

 数周も走るうちに、そのわずかな違いがじわじわと脚にたまっていく。


「はぁ、はぁ……」


 息が上がり始めるのが、自分でも分かった。


 前を走る背の高いショートカットの子は、呼吸を乱すことなく淡々とペースを守っている。

 その後ろにつけている子たちも、まだ余裕がありそうだ。


 だが列の後方では、すでに何人かが表情を歪めていた。

 さやかの隣を走るこはるも、そのひとりだ。


「は、はぁ……っ、でも……まだ……」


 肩で息をしながらも、足を止めようとはしない。

 小さな体で、必死に前へ前へと重心を運び続けている。


「止まるなよー。

 止まりたかったら、“落ちたいです”って言ってから止まれ」


 黒岩の声が飛ぶ。


 数分後、「止め」の声がかかったときには、さやかの脚は笑っていた。

 膝がぐらつき、止まった瞬間にその場にしゃがみ込みたくなる。


「スクワット、三十回。

 腰を落とせ。太ももが床と平行になるところまで。

 数えながらやれ」


「「いち、に、さん……」」


 声を出すたびに、息が切れる。

 二十を過ぎたあたりで、太ももが燃えるように熱くなった。


(これで、まだ準備運動……?)


 内心で半泣きになりながらも、声だけは止めない。


 腕立て伏せ。腹筋。背筋。ブリッジ。

 体育でやったことのある動きなのに、一つ一つが別物のように重い。


 隣でこはるが、何度も腕を震わせながらも、

 歯を食いしばって数を数え続けているのが見えた。


「にじゅう、きゅう……さんじゅう……!」


「よし。

 そこまでが、“まだ準備”だ」


 黒岩の言葉に、何人かが絶望したような顔をした。


(これで、準備……)


 さやかも心の中で同じ言葉を繰り返す。


 額から汗が滴り落ちる。

 息がうまく入ってこない。


 それでも、目の前にはリングがある。


 銀色のポール。青いキャンバス。

 昨日までは画面の向こうと客席の向こうにしかなかった場所。


(あそこに、立ちたいって、言ったんだ)


 自分で、自分に言い聞かせる。


「次は、マットの上だ」


 黒岩の声が響いた。


「ここから先は、“落ちる”練習だ。

 受け身も取れねえ奴は、リングに立つ資格はない。

 番号の若い方から、順番にリングサイドへ」


 受験者たちが、リングのステップの前に一列に並ぶ。


 三十九番のさやかと、四十番のこはるは、列の後ろの方だ。


 先頭の受験者が名前を呼ばれ、ステップを上がる。

 ロープが低くきしむ音と、キャンバスの上に足を乗せたときの僅かな沈み。


 それが、並んでいる全員の耳と目に刻み込まれていく。


「朝比奈こはる、四十番」


 呼ばれた名前に、こはるがびくりと肩を震わせる。


「……い、行ってきます」


 小さくつぶやいて、こはるはさやかの方を見た。

 さやかは、できるだけまっすぐな目でうなずく。


「うん。……行ってらっしゃい」


 こはるの背中が、ステップを一段、また一段と上がっていく。

 ロープをまたぎ、リングの内側に消えた。


 次々に呼ばれていく名前。

 リングの上で鳴る、どん、という受け身の音。

 黒岩の短い指示と、白銀の「もう一度」という冷静な声。


 心臓の鼓動が、さっきまでのランニングよりも早くなる。


「三十九番、星屑さやか」


 自分の名前が呼ばれた。


 足が、自然と前へ出る。


 ステップに足をかけた瞬間、ゴムと金属がこすれる、低いきしみが足裏に伝わってきた。


 見上げれば、ロープが三本。

 その向こうには、青いキャンバスが広がっている。


(行くんだ)


 喉の奥で、ごくりと唾を飲み込む。


 ロープをまたごうと一歩を踏み出した瞬間、

 さやかは、自分が今まさに「リングの内側」に足を踏み入れようとしているのだという事実を、全身で感じていた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


この話では、

・二次審査当日の朝、両親との「条件付きGO」の再確認

・通学電車の中での、まならしい軽い応援メッセージ

・PWS本部ビルと本部道場の、テレビ越しとは違う“プロの現場”の空気

・後輩候補となる受験生・朝比奈こはるとの初めての出会い

・黒岩トレーナーや天城社長たちによる、二次審査の宣言と基礎運動の開始

を描きました。


さやか自身の緊張や不安に加えて、

「受かる者と、今はまだ届かない者」が同じラインに立っていることを、

こはるの存在を通して少しずつ匂わせ始めた回でもあります。


次回は、いよいよリングの内側で行われる受け身やロープワークの審査、

そして二次審査の結果発表までを書いていく予定です。


少しでも続きが気になると思っていただけましたら、

ブックマークや感想など頂けると、とても励みになります。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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