第3話 二次審査、本部道場へ
前回は、一次審査の合格と、両親の戸惑い。
そして、幼馴染のまながタブレット片手に援護してくれて、「二次審査まで」という条件付きで送り出されるところまでを書きました。
第3話では、いよいよさやかがPWS本部ビルへ向かい、本部道場の扉をくぐります。
親との約束、まなからのメッセージ、本部道場の雰囲気、そして後輩候補の朝比奈こはるとの出会いまでが中心の回です。
よければ今回もお付き合いください。
その朝、家の中の空気は、いつもより少しだけ張りつめていた。
食卓に並ぶメニューは、いつもと変わらない。
焼き鮭に卵焼き、サラダ、味噌汁、ご飯。
ただひとつ違うのは、椅子の横に置かれたスポーツバッグだ。
学校の指定カバンではなく、体育のジャージとタオルと飲み物が詰まった遠足用のリュック。
その中には、父と母が昨夜署名した「保護者同意書」も入っている。
「ちゃんと食べなさいよ。途中でお腹空いても困るんだから」
母が、いつもより一言多めに世話を焼いてくる。
「うん。……いただきます」
箸を取ったものの、口の中がからからで、なかなかご飯が進まない。
胸の奥で、今日という日がじわじわと形を持ち始めていた。
味噌汁を一口飲んだところで、父が新聞から視線を上げた。
「……さやか」
「うん?」
「昨日も言ったが、念のためにもう一度だけ言っておく」
父の声はいつも通り低く落ち着いていたが、その目は真剣だった。
「途中で本当に無理だと思ったら、逃げていい。
ただし、逃げた理由だけは、自分でちゃんと認めろ。
“何となく”ではなく、自分で考えて決めたと思える理由だ」
「……うん」
「怪我をしそうなことを、誰かに強制されたら、そのときはきっぱり断れ。
怒鳴られようが何を言われようが、命と体の方が大事だ。
それで本当に駄目になるような場所なら、その時点でやめて帰ってこい」
言葉は厳しいのに、その奥にあるものが怖さだけではないのは分かった。
心配。迷い。それでも、背中を押そうとしてくれている気持ち。
「……分かった」
さやかは、箸を握ったまま小さくうなずいた。
母も、湯気の立つ味噌汁を置いて、改めて向き直る。
「終わったら、結果がどうでも電話ちょうだいね。
終わったって分かるまで、こっちはずっとそわそわしてるから」
「うん、する」
「水はこまめに飲むこと。無理はしないこと。
あと、行く前にもう一回トイレ行っときなさいね」
「小学生じゃないんだから……」
思わず笑いが漏れる。
その笑いに、自分がどれだけ緊張していたかを思い知らされる。
「……じゃあ、行ってきます」
食器を片づけ、バッグを背負い、玄関に立つ。
靴ひもを結びながら、一度だけ深呼吸をした。
扉の前で振り返ると、廊下から父と母がこちらを見ている。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「……行ってらっしゃい。気をつけてね」
その言葉に送られて、星屑さやかは家を出た。
***
最寄り駅から出ている私鉄の車内は、通勤ラッシュには少し早い時間で、そこまで混んではいなかった。
座ることはできなかったが、ドア横の手すりをつかめるだけでありがたい。
つり革に掴まる指とは別に、反対側の手は自然とバッグのストラップを握りしめていた。
車内アナウンスが流れ、電車がゆるやかに加速する。
(……本当に、行くんだ)
窓の外には、いつも通りの街並み。
制服ではなくジャージ姿でここに立っていることだけが、現実から少し浮いている。
ポケットの中のスマホが震えた。
取り出すと、水野まなからのメッセージが画面いっぱいに表示される。
「今どこ!」
続けざまに、もう一件。
「二次審査だからってガチガチになりすぎないこと。
受け身は昨日、布団の上でイメトレした通りでいいんだからね」
昨夜、電話越しに“布団受け身”を一緒に練習した光景が思い出される。
布団の上でごろごろ転がっていた自分が、今は本物のリングに向かっている。
さやかは、親指で短く返事を打った。
「今、電車。駅2つ前」
「了解。
合格したら、記念に推しタオルもう一枚買ってあげよう(勝手に)」
「まだ受かってもないのに、もうオタク活動の予定立てないで」
「こっちは既に“未来の推しのビッグマッチ単独興行”まで見えてるので」
「……勝手に見ててよ」
思わず小さく笑ってしまい、向かいの席の会社員が不思議そうにこちらを見た。
慌てて視線をそらし、スマホをポケットにしまう。
ドアの窓に映る自分の顔は、緊張で少し強張っていた。
けれど、家を出る前よりも、わずかに表情が引き締まって見える気がする。
(行くって決めたんだ。
“諦めないで立ち続ければ、なれないって決めつける理由はなくなる”って、あまねさんも言ってたんだから)
揺れる車内でバランスを取りながら、心の中でもう一度、自分に言い聞かせた。
***
目的の駅で電車を降りると、空気の匂いが少し違った。
高層ビルが立ち並ぶオフィス街。
平日の昼間ならスーツ姿の人たちであふれているのだろうが、今日はまだ朝が早いせいか、通りはまばらだった。
地図アプリを開き、「PWS本部ビル」と表示されたピンを頼りに歩き出す。
角をひとつ曲がるたびに、心臓の鼓動が早くなる。
ビルの間を抜ける風が、背中のジャージをふわりと揺らした。
「……あ」
横断歩道を渡った先に、それはあった。
全面ガラス張りの中層ビル。
一階のエントランス横には、黒地に銀色の星が散りばめられたロゴプレート。
その下には、こう書かれている。
「PWS本部ビル」
ガラス越しに見えるロビーには、観葉植物とソファ、受付カウンター。
その手前の壁面には、ポスターが数枚並んでいた。
黒いコスチュームの皇あまねが、リングロープにもたれかかるように映っているもの。
笑顔でポーズを決めるアイドルレスラーユニットのポスター。
血のような赤を基調に、冷たい視線をこちらに向けるヒールユニットのビジュアル。
(……本当に、ここなんだ)
テレビや雑誌の中でしか見たことのなかった世界が、
自動ドア一枚の向こう側にある。
緊張で指先が冷たくなりながらも、さやかは一歩、足を踏み出した。
自動ドアが静かに開き、冷房の効いた空気が頬を撫でる。
「いらっしゃいませ」
受付に座っている女性が、にこやかに頭を下げた。
「あ、あの……」
声が裏返りそうになるのを必死で押さえながら、さやかはカウンターに近づく。
「本部道場の新人オーディション、二次審査に……来ました。
星屑さやかです」
「確認いたしますね。少々お待ちください」
受付の女性がパソコンを操作し、画面を見つめる。
「はい、星屑さまですね。
本日二次審査、九時からの回で間違いありません」
柔らかい笑顔で、クリアファイルを一枚渡された。
「こちら、二次審査の案内です。
七階の本部道場までエレベーターでお上がりください。
道場の前にスタッフがおりますので、そちらの指示に従ってくださいね」
「は、はい。ありがとうございます」
ファイルを受け取り、エレベーターへ向かう。
銀色の扉に映る自分の姿は、やっぱりまだ少し頼りなかった。
七階のボタンを押し、扉が閉まる。
機械の駆動音とともに、体がふわりと浮いたような感覚になる。
階がひとつ、またひとつ上がるたびに、胸の高鳴りも一段ずつ増していく。
「……七階、本部道場」
パネルの表示が「7」で止まり、扉が開いた。
廊下に出ると、白い壁とグレーの床が続く、シンプルなフロアだった。
だが、空気はどこか違う。
遠くから、何かが床を叩く鈍い音が聞こえる。
ロープがきしむような、ぎし、という低い音。
誰かの掛け声と、それに応える「はいっ!」という若い声。
廊下の突き当たり、両開きの扉に紙が貼られている。
「PWS本部道場
新人オーディション二次審査会場
関係者以外立入禁止」
喉が、ごくりと鳴った。
(ここだ)
扉の前には、スタッフらしい男性が一人立っていた。
「受験者」の腕章をつけている。
「あの……二次審査の星屑さやかです」
「はい、星屑さんですね。
時間ぴったりです。お疲れさまです」
男性は名簿を確認し、ペンで何かに印をつけた。
「こちらのゼッケンを胸に付けてください。
番号は三十九番です。
中に控えスペースがありますので、上履きに履き替えてお待ちください」
「はい」
渡されたゼッケンには、「39 星屑さやか」と印刷されている。
靴を脱ぎ、備え付けのシューズボックスから内履きを取り出す。
扉の向こうに足を踏み入れる前に、一度だけ深く息を吸った。
き――と、ゴムが床をこする音を立てて、扉が開く。
***
そこは、思っていたよりも広かった。
体育館を小さくしたような長方形の空間。
壁の一面は鏡張りで、床には青いマットが敷かれている。
その奥、部屋の中央には、四本のポールと三本のロープで囲まれたリングが一基。
銀色の鉄柱と、青いキャンバス。
テレビで見てきた「PWSのリング」と同じデザインなのに、
目の前にあるそれは、どこか別物に見えた。
(これが……)
客席から見上げていたときとは、全然違う。
ロープは思っていた以上に高く、太く、近い。
すでに何人かの受験者が来ていて、マットスペースのあちこちでストレッチをしたり、壁にもたれて座っていたりした。
体育会系らしいジャージ姿の子。
華奢で、長袖のインナーを着ている子。
落ち着かなさそうに時計ばかり見ている子。
(一人じゃ、ない)
そう思った瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
ゼッケンをどう付けようかとバッグを開けていると、横から小さな声がした。
「あ、あのっ……」
顔を上げると、ひとりの女の子が立っていた。
自分より少し背が低いくらい。
柔らかそうな茶色の髪を高めの位置でひとつ結びにしたポニーテール。
制服に似たブレザーにジャージのパンツという、少しちぐはぐな格好。
胸元には「40 朝比奈こはる」と書かれたゼッケンが、すでに付けられている。
「えっと……ここ、ピンが固くて。
自分だとやりにくいですよね……」
こはるはおずおずと安全ピンを差し出した。
「よかったら、付けましょうか?」
「あっ……う、うん。お願いしてもいい?」
「はいっ」
こはるの指は少し震えていたが、ゼッケンを持つ手つきは手慣れていた。
シャツとジャージを一緒に掴まないように気をつけながら、器用に安全ピンを通していく。
「ここを、少し斜めにすると……走ってもあまり揺れないって、聞いたことがあって」
「すごい、ありがとう。
あたし、不器用だから、絶対ぐちゃぐちゃになるところだった」
「いえ、その……あたし、学校のマラソン大会とか、いつもゼッケン担当で……」
言いながら、こはるは照れくさそうに笑った。
「えっと、あの、朝比奈こはるっていいます。
高校一年生で……今回、初めて応募しました」
「星屑さやか。星海高校の二年。
あたしも、初めて」
握手を求められているような気がして、さやかは手を差し出した。
こはるの手はひんやりと冷たかった。
「緊張、してる?」
「すごく、してます。
さっきから、お腹痛くて……」
「……あたしも」
二人で小さく笑いあった瞬間、少しだけ空気が柔らかくなった。
ふと見ると、少し離れたところで、背の高いショートカットの子が黙々とストレッチをしている。
背筋が一直線に伸び、股関節も信じられない角度まで開いている。
(あの人……すごい。身体、めちゃくちゃ柔らかい)
さらに別の場所では、華奢な体つきの子がノートを開き、何かを確認するようにページをめくっていた。
「受け身」「ロープワーク」などの文字が、ちらりと目に入る。
鏡の前では、髪をきれいに巻いた女の子がひとり、笑顔の作り方をチェックしていた。
くるりとターンして、ピースを作り、ウインクをしてみせる。
その表情だけならアイドルのオーディションと言われてもおかしくない。
(みんな……全然、違う)
運動神経の良さそうな子。
見た目は華奢なのに、目だけ強く光っている子。
どう見ても“アイドル志望です”というような子。
たぶんそれぞれに、ここに来るまでの物語があるのだろう。
「受験者の皆さん、そろそろ時間です。
荷物は壁際に寄せて、マットの上に二列で整列してください」
スタッフの声が響いた。
さやかとこはるは顔を見合わせ、ゼッケンの位置をもう一度確認してから、他の受験者たちと同じようにマットの上に並んだ。
***
全員が並び終えると、道場の扉が再び開いた。
最初に入ってきたのは、ジャージ姿の大柄な男性だった。
腕を組み、鋭い目つきでこちらをひとりひとり見ていく。
(この人が……)
プロローグの日、あまねの試合前VTRで見たことがある。
鬼のようなトレーニングで新人を鍛えるという、PWS本部道場トレーナー。
黒岩剛。
その後ろから、ラフなジャケット姿の男性が続く。
落ち着いた雰囲気の中に、どこかリングの匂いを残したような佇まい。
天城星弥。PWSの社長。
さらに白いシャツに黒のパンツという、レフェリー服の男性。
雑誌で「安全第一の名レフェリー」と紹介されていた、白銀リョウ。
そして最後に、白衣を着た女性が静かに入ってきた。
髪を後ろでひとつにまとめ、首から聴診器を下げている。
(ドクターさん……)
リングドクター兼メディカルトレーナーだろう。
まながタブレットで見せてくれた本部道場紹介のページに映っていた人と、よく似ている。
黒岩が一歩前に出た。
「――全員、前を向け」
その声だけで、空気が変わる。
「ここまで来た時点で、お前らがそれぞれ覚悟を決めてきたことは、分かっているつもりだ。
だが、ここから先は、“本気でやりたい”って言葉だけじゃ通用しない場所だ」
黒岩の視線が、列の端から端までゆっくりと滑っていく。
「今日見たいのは、“今のお前たちの全部”だ。
体力。柔軟性。怖さへの付き合い方。諦め方と、諦めないやり方。
そして、こいつらの言うことをちゃんと聞ける頭があるかどうか」
こいつら、と言って顎で示されたのは、社長と白銀とドクターだった。
「だが勘違いするなよ。
今日でプロレスラーになれるわけじゃないし、
ここを落ちたからと言って、プロレスラーになれないと決まるわけでもない」
その言葉に、さやかの胸の奥が少し揺れた。
「ただ一つだけ言えるのは、今日ここにいる全員の中で、“通すかどうかを判断していい”立場にいるのは、俺たちだけだってことだ。
そこだけは、ちゃんと覚えとけ」
静かなざわめきが、列の中を走る。
天城社長が前に出て、黒岩の隣に立った。
「黒岩の言うとおりです」
先ほどまで柔らかく見えた表情から、一切の甘さが消えていた。
「ここまで来た皆さんは、それぞれ少なからず覚悟を持って応募してくれたのだと思います。
その覚悟自体は、私はとても尊いものだと考えています」
一拍置いて、社長は続けた。
「ただし、プロのリングは“頑張った”だけでは立てません。
興行に出れば、お客様からお金をいただきます。
その対価としての試合を見せられるかどうか。
そこに至るまでの道のりの入り口に立てるかどうかを、私たちは今日、見ます」
白銀レフェリーが一歩前に出る。
「私は、主に安全面を見させてもらいます。
受け身が取れないのに無理をしている者がいれば、止めます。
危険だと判断した動きがあれば、その時点で中断させます」
声は穏やかだが、その目は驚くほど冷静で鋭かった。
「自分の限界を、自分で分かっているかどうかも、プロには必要な資質です。
“やる気”と“無茶”は別物だということを、忘れないように」
白衣の女性も、前に出て軽く会釈した。
「体調が悪い人、怪我をした人は、すぐに私のところに来てください。
少しでもおかしいと思ったら、無理をしないでくださいね」
柔らかく微笑みながらも、その声には揺るぎないものがあった。
「……以上だ」
黒岩が再び一歩出る。
「これから、順番に基礎運動と受け身、それから簡単なロープワークを見てもらう。
号令に従って動け。勝手なことをするな。
途中でどうしても無理だと思ったら、その時点で手を挙げろ。
意地でごまかした怪我が、一番タチが悪い」
列のあちこちで、小さな息を呑む音がした。
「それじゃあ、まずは体を温めるところからだ。
道場の端から端まで、合図に合わせてランニング。
『始め』って言ったら走る、『止め』って言うまで止まるな。いいな」
「「はい!」」
返事が重なり、黒岩の号令で列が動き出す。
***
最初は、それほどきつくないと思った。
道場の周りをぐるぐると走る。
体育の授業でもやったことのあるような、普通のランニング。
けれど、道場の床は体育館よりも柔らかく、足に伝わる反発が微妙に違う。
数周も走るうちに、そのわずかな違いがじわじわと脚にたまっていく。
「はぁ、はぁ……」
息が上がり始めるのが、自分でも分かった。
前を走る背の高いショートカットの子は、呼吸を乱すことなく淡々とペースを守っている。
その後ろにつけている子たちも、まだ余裕がありそうだ。
だが列の後方では、すでに何人かが表情を歪めていた。
さやかの隣を走るこはるも、そのひとりだ。
「は、はぁ……っ、でも……まだ……」
肩で息をしながらも、足を止めようとはしない。
小さな体で、必死に前へ前へと重心を運び続けている。
「止まるなよー。
止まりたかったら、“落ちたいです”って言ってから止まれ」
黒岩の声が飛ぶ。
数分後、「止め」の声がかかったときには、さやかの脚は笑っていた。
膝がぐらつき、止まった瞬間にその場にしゃがみ込みたくなる。
「スクワット、三十回。
腰を落とせ。太ももが床と平行になるところまで。
数えながらやれ」
「「いち、に、さん……」」
声を出すたびに、息が切れる。
二十を過ぎたあたりで、太ももが燃えるように熱くなった。
(これで、まだ準備運動……?)
内心で半泣きになりながらも、声だけは止めない。
腕立て伏せ。腹筋。背筋。ブリッジ。
体育でやったことのある動きなのに、一つ一つが別物のように重い。
隣でこはるが、何度も腕を震わせながらも、
歯を食いしばって数を数え続けているのが見えた。
「にじゅう、きゅう……さんじゅう……!」
「よし。
そこまでが、“まだ準備”だ」
黒岩の言葉に、何人かが絶望したような顔をした。
(これで、準備……)
さやかも心の中で同じ言葉を繰り返す。
額から汗が滴り落ちる。
息がうまく入ってこない。
それでも、目の前にはリングがある。
銀色のポール。青いキャンバス。
昨日までは画面の向こうと客席の向こうにしかなかった場所。
(あそこに、立ちたいって、言ったんだ)
自分で、自分に言い聞かせる。
「次は、マットの上だ」
黒岩の声が響いた。
「ここから先は、“落ちる”練習だ。
受け身も取れねえ奴は、リングに立つ資格はない。
番号の若い方から、順番にリングサイドへ」
受験者たちが、リングのステップの前に一列に並ぶ。
三十九番のさやかと、四十番のこはるは、列の後ろの方だ。
先頭の受験者が名前を呼ばれ、ステップを上がる。
ロープが低くきしむ音と、キャンバスの上に足を乗せたときの僅かな沈み。
それが、並んでいる全員の耳と目に刻み込まれていく。
「朝比奈こはる、四十番」
呼ばれた名前に、こはるがびくりと肩を震わせる。
「……い、行ってきます」
小さくつぶやいて、こはるはさやかの方を見た。
さやかは、できるだけまっすぐな目でうなずく。
「うん。……行ってらっしゃい」
こはるの背中が、ステップを一段、また一段と上がっていく。
ロープをまたぎ、リングの内側に消えた。
次々に呼ばれていく名前。
リングの上で鳴る、どん、という受け身の音。
黒岩の短い指示と、白銀の「もう一度」という冷静な声。
心臓の鼓動が、さっきまでのランニングよりも早くなる。
「三十九番、星屑さやか」
自分の名前が呼ばれた。
足が、自然と前へ出る。
ステップに足をかけた瞬間、ゴムと金属がこすれる、低いきしみが足裏に伝わってきた。
見上げれば、ロープが三本。
その向こうには、青いキャンバスが広がっている。
(行くんだ)
喉の奥で、ごくりと唾を飲み込む。
ロープをまたごうと一歩を踏み出した瞬間、
さやかは、自分が今まさに「リングの内側」に足を踏み入れようとしているのだという事実を、全身で感じていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この話では、
・二次審査当日の朝、両親との「条件付きGO」の再確認
・通学電車の中での、まならしい軽い応援メッセージ
・PWS本部ビルと本部道場の、テレビ越しとは違う“プロの現場”の空気
・後輩候補となる受験生・朝比奈こはるとの初めての出会い
・黒岩トレーナーや天城社長たちによる、二次審査の宣言と基礎運動の開始
を描きました。
さやか自身の緊張や不安に加えて、
「受かる者と、今はまだ届かない者」が同じラインに立っていることを、
こはるの存在を通して少しずつ匂わせ始めた回でもあります。
次回は、いよいよリングの内側で行われる受け身やロープワークの審査、
そして二次審査の結果発表までを書いていく予定です。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
ブックマークや感想など頂けると、とても励みになります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




