第21話 戻ってきた場所と、変わった自分
第四章・PWSビッグマッチ《東京国技館編》の一話目です。
今回は、夏合宿を終えて本部道場と寮・自宅へ戻る一日。
「同じ場所に帰ってきたはずなのに、ちょっとだけ景色が違って見える」
そんな新人4人の感覚を中心に描きます。
バスが本部道場の前に停まった時、車内に小さなどよめきが起きた。
「……着いた」
さやかは、窓の外を食い入るように見つめた。
見慣れた建物。
何度もくぐった玄関。
リングのある練習場。
全部同じはずなのに、
ほんの少しだけ遠く見える気がした。
「荷物、忘れ物ないように確認しろよー」
運転手の声とともに、バスのドアが開く。
ガコン、とステップが地面に触れる音がした瞬間、
さやかの太ももがぴきっと主張してきた。
「……脚、やっぱりまだ生きてない気がする」
「さっき“生きてる”って言ってませんでしたか?」
ノエルが苦笑しながら、隣で荷物を持ち上げる。
「生きてると信じたい気持ちと、現実は別物だった……」
「それは、分かる気がします」
いぶきはそんな二人の前で、いつも通りの背筋で立ち上がる。
らんはと言えば、座席にもたれたまま天井を見つめていた。
「終わっちゃったね、合宿」
「終わったけど、ここからが本番なんですけどね」
「分かってるけど、ほら、ちょっとだけ“合宿ロス”ってやつ」
そんなやり取りをしながら、四人は一人ずつバスを降りた。
玄関の前には、黒岩が腕を組んで待っていた。
「――戻ったか」
短い一言に、四人は同時に背筋を伸ばす。
「お疲れ様です!」
「声は出るようだな」
黒岩は、四人の顔を順番に見ていく。
合宿の最後の日に見た顔と、
一ヶ月テストの頃に見た顔を、
頭の中で照らし合わせているようだった。
「まずは荷物を置いてこい。
そのあと、リングに集まれ」
「えっ、今ですか」
思わずさやかが声を上げる。
「今だ」
黒岩は容赦がない。
「長距離バスで固まった身体のまま放置するのが一番よくない。
軽く動いて、合宿で覚えたフォームが崩れてないか確認する」
「……はい」
脚が悲鳴を上げそうになりながらも、
四人は荷物を引きずるようにして更衣室へ向かった。
リングに上がると、
本部道場のマットがやけに懐かしく感じられた。
「じゃあ、まずはロープワーク三往復ずつ」
黒岩の指示に、四人はロープに手をかける。
さやかは一歩踏み出した瞬間、
合宿所のリングとの違いに気付いた。
(こっちのロープの方が、ちょっと柔らかい)
たわみ方。
跳ね返りの感覚。
何度も走ったはずのロープが、
少しだけ別物のように感じる。
「星屑、手首が流れてる」
黒岩の声が飛ぶ。
「ロープに当てる時、手の甲を少しだけ外に向けろ。
そうしないと、試合で突然ロープに振られた時に手首を痛める」
「は、はい!」
注意されたポイントを意識してもう一往復。
ロープに当たる角度を変えるだけで、
さっきよりも身体の返りがスムーズになる。
(あ、こっちの方が走りやすい)
自分の中の小さな「分かった」が増えていく感覚に、
合宿中と同じ種類の嬉しさがわずかに蘇る。
「星緋。足音が静かになったな」
「ありがとうございます」
いぶきのロープワークは、
まるで床を滑るように音がしなかった。
「ただし、静かすぎてスピードまで落ちている。
“静かに速く”を目指せ」
「……難しいですね」
「だから練習するんだろうが」
黒岩は鼻を鳴らした。
「ノエル」
「はい」
「ロープに入る直前の顔が、前よりずっとマシだ」
「……そんな評価があるとは思いませんでした」
「あるさ。
“怖いけど行きます”って顔と、
“嫌です帰りたい”って顔は違う」
ノエルは、思わず口元に苦笑を浮かべた。
自分でも、合宿前の自分と今の自分の違いは、
はっきりとは言葉にできなかった。
けれど、黒岩のその言葉で、
ほんの少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
「ティアラ」
「はい!」
「お前は……」
黒岩はじっとらんを見て、少しだけ溜息をついた。
「ロープに入る前と入った後でテンションが変わりすぎだ」
「えっ」
「“行くぞー”の顔と、“わあー大変だー”の顔が別物になっている。
試合中はそこも全部見られていると思え」
「……はい。
でも、怖いんですよ、ロープ速いと」
「怖いなら怖いで構わん。
ただし、“怖くてもやれる”顔を覚えろ」
「はい!」
真剣な顔で頷くらんに、
さやかは横目でちょっとだけ笑いそうになった。
(あたしとノエルちゃんと、らんちゃんと。
怖いポイントは違うのに、言われてることは似てるなぁ)
合宿で何度も聞いた言葉が、
本部道場でもそのまま続いていくのを感じる。
ロープワークと軽い受け身を終えると、
黒岩は腕を組み直して四人を見渡した。
「――よし」
短く、それだけ言う。
「大きく崩れてるところはない。
合宿で得たものを、そのままここでも続けろ」
四人は揃って「はい」と頭を下げた。
「今日のところは、ここまでだ。
寮組はスターダスト寮に戻って体を休めろ。
通い組は脚を冷やしてから寝ろ。風呂で温めすぎるな」
「了解しました」
「ありがとうございました!」
道場に一斉に声が響く。
さやかはリングを降りながら、
合宿の初日に感じた「リングの怖さ」を思い出そうとしてみた。
(……思い出せない、わけじゃないけど)
あの時ほど、
ロープが「敵」に見えなくなっている自分に気付く。
(ちょっとは、前に進めてるってことでいいのかな)
道場を出ると、
寮行きのワゴン車が待っていた。
「じゃ、星屑ちゃんとノエルちゃんはここまでだね」
らんが、さやかの手を振る。
「また明日、道場でね!」
「うん。また明日」
「気をつけて帰ってくださいね、さやかちゃん、ノエルちゃん」
いぶきも小さく頭を下げた。
「いぶきさんも、らんさんも。
今日はちゃんと脚伸ばしてから寝てくださいね」
「さやかちゃんこそ」
ノエルが、少しだけ笑う。
「絶対そのまま寝落ちするタイプなんですから」
「なんでバレてるの……」
そんなやり取りをしながら、寮組の二人はワゴン車に乗り込んだ。
二人を乗せた車が走り出すのを見送りながら、
さやかは隣のノエルと顔を見合わせる。
「……戻ってきましたね」
「うん。
戻ってきたね、いつもの場所に」
さやかの言葉は、どこか不思議な響きを持っていた。
夕方の電車の中は、思ったより空いていた。
さやかは窓側の席に座り、
肩に背負ったバッグの重みを感じながら外を眺める。
ノエルは向かいの席で本を開いていたが、
ページの進みはやけに遅い。
「ノエルちゃん、眠い?」
「……正直、半分くらい意識が飛びそうです」
「だよね」
さやかも、何度か揺れに合わせてうとうとしかけた。
窓に映る自分の顔を見る。
日焼け止めを塗っていたはずなのに、
頬は少し焼けていて、
目の下には薄くクマが浮かんでいる。
(疲れてる顔だな……)
でも、
そこに混じっている何かは、合宿に行く前とは違っていた。
(ちょっとだけ、やりきった顔、してる気がする)
そんなことを思った自分が、
少しだけ恥ずかしかった。
家の玄関を開けると、
夕飯の匂いがふわりと漂ってきた。
「あ、おかえり」
キッチンから母親の声がする。
「ただいま戻りました」
靴を脱ぎながらそう言うと、
リビングの方から父親も顔を出した。
「おう。生きて帰ってきたか」
「失礼なこと言わないでよ」
さやかは笑いながらバッグを下ろした。
「どうだった、合宿。死ななかった?」
「死ぬかと思ったけど、ギリギリ生きてた」
「それはなかなかの感想だな」
父親は苦笑する。
母親はお皿をテーブルに並べながら、ちらりと娘の顔を見た。
「顔つき、ちょっと変わった?」
「え?」
「なんか、“疲れた〜”って顔はしてるんだけど、
それだけじゃないというか」
「……そうかな」
さやかは頬をかいた。
「きつかったけど、楽しかったよ。
いや、楽しいって言っていいのか分かんないけど」
「どっちなのよ、それ」
「しんどいんだけど、
でも、“あたし、今ちゃんとプロレスラーの練習してるんだな”って感じがして」
自分でもうまく言葉にならない感覚を、
できるだけ丁寧に探しながら話す。
「前より、“嫌ならやめれば?”って言われても、
“やだ、やめたくない”って言える気がする」
父親と母親は顔を見合わせた。
以前だったら、
この言葉を聞いても「でも勉強は?」とすぐに返していたかもしれない。
けれど今は、
合宿前に一度腹を割って話したこともあってか、
二人とも少し言葉を選んでいるようだった。
「……ちゃんと自分でそう思えてるなら、いいんじゃないか」
父親がぽつりと言う。
「前にも言ったけど、
やるだけやって駄目だったら、その時また考えればいい」
「うん」
「その代わり、勉強の方は、星屑のペースでいいから投げ出さないこと。
学校にもちゃんと行くこと」
「分かってる」
「まなちゃんにも迷惑かけすぎないことね」
母親が言うと、
さやかは少しだけ肩をすくめた。
「もう“ファン一号やってあげるから、ノートは任せて”って言われてるから……」
「あの子、ほんと頼もしいわね」
母親は苦笑しながら、お味噌汁を並べた。
「まなちゃんに恥ずかしくないプロレスラーになりなさいよ」
「うん。
まなにも、あまねさんにも恥ずかしくないように頑張る」
その名前を自然と口にしている自分に、
さやかは少しだけ驚いた。
憧れの対象の名前が、
家族との会話の中に溶け込んでいる。
(あの日、フェンス越しに“あなたみたいになれますか”って言ったんだし)
自分で投げた言葉だ。
投げっぱなしにはしたくなかった。
夕飯と風呂を済ませ、
自分の部屋に戻ると、さやかはベッドの上にどさっと倒れ込んだ。
「……起き上がりたくない」
布団に埋まりながら、
枕元のバッグに手を伸ばす。
合宿中ずっと持ち歩いていた小さなノートを取り出した。
表紙には、
ボールペンで大きく「PWS合宿メモ」と書いてある。
ページをぱらぱらとめくると、
ひよりに言われたこと、
みなせにフォームを直されたこと、
AQUARIUSで聞いた技の組み立ての話、
Bloodyでアサギたちに言われた言葉が、ところどころ震えた字で書き込まれていた。
空いているページを開き、
ペンを握る。
「えーっと……」
さやかは、今日バスの中で考えていたことを思い出した。
この合宿で、自分が一番変わったと思うのはどこか。
何を、これからも続けたいと思っているのか。
しばらく悩んだ末に、
ゆっくりと書き始める。
『合宿で分かったこと』
・脚が弱い。だから鍛えれば絶対に強くなれる。
・怖いって思いながらでも、前に進める自分が、少しはいる。
・あまねさんみたいに、最後まで立っている人になりたい。
・一人では頑張れない時もあるけど、四人なら頑張れる。
「……こんな感じ、かな」
自分で書いた文字を見つめていると、
胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
(ここに書いたこと、忘れないようにしないと)
合宿は終わった。
でも、合宿で得たものは、ここからが本番だ。
ノートの隅に、小さく一行だけ書き足す。
『いつか、あの山を笑って振り返れるくらい強くなる』
ペンを置くと、
急に眠気が押し寄せてきた。
「……明日、まなにいっぱい話そう」
学校、道場、寮、家。
これからまた、全部を抱えながら走っていく日々が始まる。
でも、さやかは、
布団の中で天井を見上げながら、
ほんの少しだけ楽しみに感じていた。
(戻ってきた場所は同じでも――
あたしは、ちょっとだけ変われたはずだから)
そう自分に言い聞かせて、
星屑さやかは、静かに目を閉じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第21話では、
・合宿を終えて本部道場に戻り、黒岩コーチの「フォーム確認」
・寮組と通い組に分かれていく新人たち
・さやかが家族と少しだけ落ち着いた会話をする様子
・合宿ノートを見直し、「自分が変わったと思えるポイント」を言葉にする場面
を描きました。
次回は、さやかが学校に戻り、
まなとの再会や「勉強とプロレスの両立」の現実が少しずつ顔を出してきます。
日常とリング、その両方を抱えていく星屑さやかを、引き続き見守ってもらえたら嬉しいです。




