第12話 一ヶ月目の終わりと、別れのロッカールーム
前回、一ヶ月中間テスト本番が行われました。
星屑さやか・星緋いぶき・ノエル・シエル・ティアラ☆キャンディ/姫乃らんの4人は合格。
一方で、坂本は「陸上への未練と、本気でプロレス一本に絞り切れていない覚悟」を見抜かれて不合格。
森は「推しへの気持ちは本物でも、体力基準に明確に届いていない」ことから、安全面を優先して不合格となりました。
今回は、一ヶ月目の終わり。
別れのロッカールームと、正式な新人練習生としてのスタートラインに立つ4人、
そして日常に戻ったさやかと、森の小さなその後を描きます。
結果発表が終わって、道場の緊張が少しだけ緩んだ。
それでも、更衣室の空気は重かった。
汗とシャンプーと、かすかな消毒液の匂いが混ざった、いつもの匂い。
なのに、ベンチに座る全員の表情は、いつも通りとはとても言えない。
金属のロッカーを開ける音だけが、カン、カンと響いていた。
「……とりあえず、荷物まとめなきゃね」
坂本が、ロッカーの奥から使い込まれたスポーツバッグを引っ張り出した。
中には、折りたたまれたジャージやタオルと一緒に、小さなキーホルダーが入っている。
陸上スパイクを模した、小さなチャーム。
「それ、陸上のやつ?」
らんが、そっと問いかける。
「うん。中学ん時の先輩にもらったやつ。
プロレス始めてからも、捨てられなくてさ」
坂本は、チャームを指でつまんで、苦笑した。
「こういうのも、半分“保険”だったんだろうな。
いつでも陸上に戻れるように、って」
「どちらかを選ぶのは、弱さじゃないですよ」
タオルで髪を拭きながら、いぶきが静かに言った。
「自分が一番走りたい場所を選ぶのは、武道でも同じです。
道場に残るか、家業を継ぐか、選ばなきゃいけない人もいましたから」
「……ありがとう」
坂本は、いぶきの方を見て、少しだけ目元を緩めた。
「今日、走っててさ。
“プロレスのテストに受かりたい”って気持ちと、
“やっぱりトラックでタイム狙ってる時の自分も好きだな”って気持ちが、頭の中で喧嘩してて」
握りしめたチャームが、かすかに鳴る。
「どっちも本気、って言えたらカッコよかったんだろうけど。
たぶんあたしは、どっちも半分ずつだったんだと思う。
だから、落ちて当然かもね」
「当然、なんて言わないでください」
ノエルが、少しだけ強い口調で言った。
「坂本さんがここにいたから、走りでずっと引っ張られてました。
それに……“半分”でも、ここに来てくれたこと、わたしは嬉しかったです」
「そうそう」
らんも、勢いよく頷く。
「走るのめちゃくちゃ速くてさ、シャトルランの時も“あの背中追いかけなきゃ”って思ってたし。
あたしたちの前の一ヶ月、絶対ムダじゃないよ」
「……ありがと」
坂本は、ナイロンバッグの口を閉めながら、小さく笑った。
「またどこかの体育館で走ってるかもしれないからさ。
その時は、笑って声かけてよ」
「もし試合会場の近くなら、走り込みだけ参加してもらいたいくらいですね」
いぶきの言葉に、ベンチの空気が少しだけ柔らかくなる。
「それ、ちょっと楽しそうかも」
坂本は、肩をすくめて笑った。
その隣で、森は黙ってタオルで顔を押さえていた。
涙を堪えているのが、誰の目にも分かる。
「森ちゃん」
らんが、そっと声をかけた。
「泣きたいなら、泣いていいんだよ?」
「……ここで泣いたら、なんか、終わりみたいで」
タオルの奥から、くぐもった声が聞こえる。
「リングに立てないのは、分かってるんです。
でも、泣いて“さよなら”って言っちゃったら、
推しの試合観に行けなくなりそうで」
「そんなことないよ」
らんは、首を横に振った。
「リングに立つ人も、客席から見てくれる人も、
みんな一緒にプロレス作ってるんだからさ。
森ちゃんが“好きでいる”の、やめる必要ないよ」
「……わたしは」
森は、ようやくタオルを下ろした。
目の周りは赤くなっている。
「リングの上に立つのは、向いてなかったのかもしれないです。
でも、あの人たちのこと、ずっと好きでいたいって気持ちだけは、
何も間違ってないって信じたいです」
「間違ってないよ」
さやかが、自然と口を開いていた。
「森さんの、“推しのために”って言葉、何回も響いてました。
あたし、すごくカッコいいなって思ってた」
「カッコ……いい?」
「うん」
さやかは、ロッカーの扉にもたれながら、森をまっすぐ見る。
「あたしは、“あまねさんみたいになりたい”“いつか隣に並びたい”“超えたい”って思ってて。
森さんとは、きっとそこが違うんだと思う」
森は、少しだけ目を見開いた。
「森さんは、“推しのそばにいたい人”なんだよね。
あたしは、“背中を追いかけて、いつか同じ位置に立ちたい人”で」
「……そうですね」
森は、自分の胸に手を当てる。
「たぶん、わたしは客席から見ていたいんだと思います。
“推しと同じリングに立つ自分”より、“推しの姿を近くで見続ける自分”でいたい」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「だからこれからは――“リングサイドの客席から”、星屑さんを推しますね」
「えっ、あたしですか?」
「もちろんです」
森は、涙で少し潤んだ目で、まっすぐさやかを見た。
「いつか、わたしの推しの入場のあとに出てくる“星屑さやか”を見るの、楽しみにしてます」
「……うん。
あたし、ちゃんとそこまで行けるように頑張る」
胸の奥が、じんわり熱くなった。
坂本と森のバッグが、それぞれの肩に掛けられる。
ロッカーの扉が、ひとつずつ静かに閉まっていく音が、別れの合図のように響いた。
***
坂本と森が先に更衣室を出て行き、しばらくしてから、4人は再び道場に呼び出された。
リングの前には、黒岩と白銀、そして天城社長。
先ほどまで並んでいた全員の列は、今はもうない。
そこに立っているのは、ゼッケンをつけたままの4人だけだった。
「――まず、ゼッケンを返せ」
黒岩の言葉に、4人は胸に留めていた番号を外した。
さやかの「39」、いぶきの「11」、ノエルの「47」、らんの「23」。
それぞれの数字が、黒岩の手の中で束ねられる。
「今日でこれはいったん終了だ」
黒岩は、ゼッケンの束を手の中でぎゅっと握った。
「これからは、番号じゃなくて“名前”で呼ぶ。
お前らは、“オーディション合格者”じゃなく、“PWSの新人練習生”だ」
その言葉に、胸の奥がじわじわ熱くなっていく。
「ロッカーも、今日から一人一つずつ正式に割り当てる。
名前も貼っておいてやるから、勝手に好きなところ使え」
黒岩が顎をしゃくると、スタッフがロッカーの前で何かを貼っているのが見えた。
白いテープに、黒い文字で名前が書かれている。
星屑さやか。
星緋いぶき。
ノエル・シエル。
ティアラ☆キャンディ。
(名前が……)
さやかは、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
(ここに、自分の名前がある)
ただの見学者でも、体験入門でもない。
この団体の一員として、ここに居場所があるのだと、テープの文字が静かに告げていた。
「今日からお前たちは、“体験コース”じゃない」
天城社長が一歩前に出る。
「自分の名前と、この団体の名を一緒に背負ってもらう」
4人の視線が、自然と社長に集まる。
「練習メニューも、一ヶ月前より一段階上がる。
筋力トレーニングも増えるし、受け身とロープワークの本数も増える。
先輩たちとの合同練習も、これまで以上に増えるだろう」
「ひよりやミナト、アカリたちと一緒のメニューになる日もある」
黒岩が、さらっと恐ろしいことを言う。
「今までの一ヶ月は、“この先やっていけるかどうかを見る期間”だった。
今日からは、“やっていくのが当たり前の期間”だ。
ついて来い」
「ここから先は、“続けられること”も評価対象になる」
白銀の声は、相変わらず静かだ。
「プロレスの練習は、今回の一ヶ月テストのように分かりやすいゴールがあるものばかりではない。
むしろ、“いつ終わるか分からないマラソン”の方が多い」
ノエルは、小さく息を飲んだ。
「最初の一ヶ月より、これからの方が、ずっと長くて地味な道になる。
それでも続けられるかどうか――それもまた、リングに立つための条件だ」
「覚悟はいいな」
黒岩の問いに、4人はそれぞれ頷いた。
いぶきの目は、相変わらず静かに燃えている。
ノエルは緊張とほんの少しの安堵が混じった顔をしていた。
らんは、不安半分、ワクワク半分といった表情で口を引き結んでいる。
さやかの胸の中では、ひとつの実感がじんわりと広がっていた。
(あまねさんと同じ団体の、“正式な一員”になったんだ)
まだ、遠い。
信じられないくらい遠い。
それでも、自分は今、この場所に立っている。
「行くぞ。今日からが本番だ」
黒岩の号令で、4人は一斉に返事をした。
「はい!」
***
その日の練習は、いつも以上にきつかった。
増えた受け身の本数。
ロープワークのコースも複雑になり、タイミングを合わせるのに必死だ。
筋力トレーニングの時間には、みなせやミナトも混じって、容赦のないメニューを叩き込んでくる。
「星屑、フォーム崩れてる。
回数減らしてもいいから、一回一回ちゃんと」
「は、はい……!」
汗で視界が滲む頃には、全員の脚が笑っていた。
夕方、ようやく「今日はここまで」の声がかかる。
シャワーを浴び終えて、さやかはロッカーの前に立った。
真新しいテープに書かれた、自分の名前。
扉を開けると、中には今日から使うためのタオルと着替えが整然と並んでいる。
(来月も、再来月も、ここから出てリングに行くんだ)
その想像だけで、疲れた体にもう一度小さな火が灯るような気がした。
***
夕方の空は、少しだけオレンジ色を残していた。
「ただいま」
いつもより少しだけ、声が高くなる。
「おかえり」
キッチンから、母の声が返ってきた。
リビングに入ると、テーブルの上にはいつもの夕飯と――コンビニの小さなショートケーキがひとつ。
「なに、それ」
「見れば分かるでしょ。
“おめでとうケーキ”。サイズは控えめ」
母は、少し照れくさそうに笑った。
「顔見たら分かるわよ。
……受かったんでしょ」
「うん」
さやかは、靴下を脱いだ足のまま、リビングの真ん中でぺこりと頭を下げた。
「正式な練習生になりました」
「本当に続けちゃったか」
ソファにいた父が、苦笑する。
「いや、いい意味でね。
最初、“三日でやめる”に一票入れてたからさ」
「ひどいんだけど」
「訂正する。
よく続けたな。おめでとう」
父は、ケーキの箱をぽんと軽く叩いた。
「ただし、ケーキは一切れだけな。
アスリートは体重管理が大事らしいから」
「そういうところだけ情報仕入れてくるのやめてよ」
笑いながら、フォークを手に取る。
甘さ控えめのクリームが、今日一日の疲れた体にじんわり染み渡る気がした。
食後、自室に戻ると、スマホが机の上で震えた。
画面には、まなからのメッセージがずらりと並んでいる。
「生きてる?」
「まだ道場?」
「合否いつ出るの?」
「既読つかないんだけど」
「ちょっと落ち着いてよ……」
苦笑しながら、新しいメッセージを打ち込む。
「合格した。正式練習生になった」
送信ボタンを押して数秒もしないうちに、返信が返ってきた。
「よし」
「公式練習生おめでとう、星屑」
「言ったよね? 受かったらファン一号でTOになるって」
「今日から“星屑担当”背負うから、ちゃんと輝いてよ?」
「担当ってなに……」
ニヤける頬を抑えながら、さやかは返信した。
「まだ何もできないけど」
「いつかあまねさんの隣に立てるくらいになったら、その時は最前列で見てて」
少し間を置いて、画面に新しい文字が表示される。
「最前列は高いんだけど?」
「……しゃーない。バイト代ためておく」
「だから星屑は、ちゃんと“その価値のあるレスラー”になってね」
胸の奥が、また少し熱くなった。
(なりたい)
本気でそう思った。
(あまねさんの隣に立てるくらいのレスラーに。
最前列で見てもらっても恥ずかしくないくらいの、“星屑さやか”に)
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
一ヶ月前とは違う天井だ。
でも、あの日と同じように、右手は自然と天井に向かって伸びていた。
ぎゅっと握った拳は、もう、少しも緩むつもりはなかった。
***
その頃、別の部屋でも、ひとつの天井が静かに見上げられていた。
森の部屋には、何枚ものポスターが貼られている。
リングの上でポーズを決めるレスラーたち。
タイトルマッチの写真。
サイン入りのタオル。
ベッドに倒れ込んだ森は、枕に顔を埋めた。
テストの間は必死で堪えていた涙が、ようやく堰を切ったように溢れ出す。
「……はあ」
しばらく泣いたあと、ようやく顔を上げる。
ベッド脇の棚から、試合のパンフレットを一冊取り出した。
推しのインタビュー記事が載っているページを、指でなぞる。
(リングに立つのは、向いてなかったのかもしれない)
頭のどこかで、冷静な声がする。
(でも、“好きでいること”までやめなくていいよね)
リング上で戦う姿を見るたび、胸が高鳴る。
ひとつの技、一つの表情、一つの言葉に、一喜一憂する。
その感情は、今日の判定で消えるものじゃない。
「スタッフとか、マネージャーさんとか、記者さんとか……」
ぽつりと、声が漏れる。
「そういう形で、あの人たちのそばにいるのも、ありなのかな」
リングに立つ側じゃなくても。
支える側や、伝える側として、プロレスの世界にいられる道は、きっとある。
答えが出るのは、ずっと先かもしれない。
それでも、“この世界から完全に離れる”という選択肢だけは、今のところどこにもなかった。
スマホを手に取り、PWSの公式サイトを開く。
ニュース欄に、「新人オーディション合格者・正式練習生決定」の記事が上がっていた。
スクロールしていくと、写真はまだ載っていないが、名前と簡単なプロフィールの一覧がある。
その中に、「星屑さやか」の文字を見つけた。
「……がんばれ、星屑さん」
誰にも聞こえない声で、森は呟いた。
「推しのリングに、いつか本当に立てますように」
画面をそっと胸に当てる。
涙は、もうさっきほどには溢れてこなかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第12話では、
・テスト直後の更衣室での、坂本と森、そして4人との静かな別れ
・坂本が「トラックに戻る自分」を少し受け入れ、いぶき達と笑い合うまで
・森が「リングに立つ側ではなく、“推しのそばにいたい人”としての自分」を言葉にする場面
・さやかの「あまねと並びたい・いつか超えたい」という憧れの方向と、森の「推しのそばにいたい」という憧れの方向の違い
・ゼッケン返却と、ロッカーに名前が貼られる“正式練習生”への切り替え
・練習メニューが一段階上がり、「ここからが本番だ」と告げられる4人
・家に帰ってのささやかな「おめでとうケーキ」と、まなの“星屑担当TO宣言”
・森の自室での小さな幕間と、「別の形でプロレスに関わるかもしれない」という未来への種まき
を描きました。
これで、「オーディション〜一ヶ月中間テストまで」の第一段階がひと区切り。
次回からは、正式な新人練習生としての“本格的な地獄の練習”と、
先輩レスラーたちとの関わりが増えていく「強化期間編」に入っていく予定です。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、次の話も覗きに来ていただけると嬉しいです。




