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星屑の少女はリングに立つ ―才能ゼロから始める女子プロレスラー・星屑さやか―  作者: バックドロップ
第ニ章 本部道場一ヶ月テスト《残る者と去る者》
12/59

第11話 一ヶ月テスト本番と、残れなかった名前たち

前回は、「一ヶ月中間テスト」が正式に通達され、

残りたい理由と怖さ、それぞれの一週間と前日の夜を描きました。


今回はいよいよ、本番の一日です。

シャトルラン、受け身、ロープワーク、簡単な動作確認。

そして最後に告げられる合否。


星屑さやか達4人は、スタートラインに残ることができるのか。

坂本と森、それぞれの「ここにいたい」と「別の道」の形も含めて、

一ヶ月目の“ジャッジメントデイ”を書いていきます。



 朝の空気が、いつもより少しだけ冷たく感じた。


 スターダスト寮の食堂では、湯気の立つ味噌汁と、控えめな量のご飯が並んでいる。


「今日は重くしすぎないからね」


 大原よしのが、炊飯器の前でしゃもじを動かしながら言った。


「ご飯は腹八分。

 水分はちゃんと取っておきなさい。

 倒れてからじゃ遅いんだから」


「はーい……」


 らんは、スプーンを持ちながらも、明らかにいつもより箸の進みが遅い。


「緊張で、パンもご飯も喉通らない〜……」


「噛めば飲み込めます」


 いぶきが、いつも通りの口調で言う。


「食べたくない時こそ、最低限は入れておかないと。

 途中でエネルギー切れしたら悔やみ切れませんよ」


「星緋ちゃん、そういうところほんと頼りになるね……」


「頼りにしてもらうのは構いませんが、食べるのは姫乃さん自身です」


「はい……」


 らんは、半分泣きそうな顔でご飯を口に運んだ。


 その頃、星屑家の朝食はもう片付いていた。


「お弁当はいらないの?」


「今日はいい。途中でコンビニ寄る時間もないし、あんまり胃に入れすぎたくないから……」


「じゃあ、ゼリー飲料と水は必ず持ってきなさい」


 母は、冷蔵庫からゼリー飲料を二つ取り出し、バッグに突っ込んだ。


「途中で倒れたら、せっかくの一ヶ月が全部パーだからね。

 ……生きて帰ってきなさい」


「物騒だなぁ」


「本気でやってるんでしょ?」


 母は、それだけ言って、いつものようにさやかの頭を軽くぽんと叩いた。


「行ってきます」


 玄関を出る前、さやかは一度だけ深呼吸をした。

 靴紐を結び直し、いつもより少しきつく締める。


(今日で決まる)


 戻ってこられる場所かどうか。

 “星屑さやか”として、この先もリングを目指す資格があるのかどうか。


 手の中のゼッケン入りビニール袋を握りしめて、家を出た。


 


 ノエルの家では、静かな朝の空気の中、ダイニングテーブルに温かいカフェオレの香りが漂っていた。


「テストの日、だったね」


 父が新聞から顔を上げる。


「はい。一ヶ月の中間審査です」


「無理だと思ったら、すぐに言いなさい」


 父の声は、穏やかでぶれない。


「体を壊してまで続けるものではない。

 やめることだって、立派な選択だ」


「……はい。覚えておきます」


 ノエルは、コップを置いて、まっすぐ父の目を見る。


「でも、今日はできることを全部やってきます。

 それでダメだったら、その時はまた考えます」


「うん」


 父は、それ以上何も言わず、静かに頷いた。


 ***


 本部道場には、いつもより早い時間から緊張の空気が漂っていた。


 壁の時計は、午前九時少し前を指している。

 リングの上にはまだ誰もいないが、キャンバスの白さが、やけに眩しく感じられた。


「ゼッケンつけろ」


 黒岩の声で、練習生たちはそれぞれ自分の番号を胸にピンで留めていく。


 さやかの胸には「39」。

 いつもの番号なのに、今日はやけに重く感じた。


「全員揃ったな」


 リングサイドに、黒岩と白銀。

 その後ろに、スーツ姿の天城社長が立つ。

 さらに少し離れたところには、リングドクターと、ストップウォッチを持ったスタッフが何人か。


 いつもの練習と違う、少し“式”の匂いがした。


「今日の流れをもう一度説明する」


 黒岩が、短く告げる。


「まずは体力テストだ。

 ランニングとシャトルラン。

 タイムだけじゃなく、フォームと途中離脱の有無も見る」


「次に、受け身テスト。

 後ろ、前、横、連続。

 怖さに飲まれてねえか、頭と首を守れてるか、安全第一で見る」


「その後、ロープワーク。

 決められたコースを、決められた本数。

 ラインとリズムを見させてもらう」


「最後に、ペアでの簡単な動作確認だ。

 ロックアップから、ロープワークと受け身まで。

“技のキレ”より、“相手と一緒に動けるか”“危なくねえか”を重視する」


 黒岩の声は、いつも通り低くてよく通った。


「掃除や挨拶、時間の守り方も含めて総合評価だ。

 点数稼ぎはできねえ。

 一ヶ月、お前らがここでどう過ごしてきたかを見るテストだと思え」


 白銀が、静かに補足する。


「ドクターも常にリングサイドにいる。

 体調が悪くなったら、自分で申告すること。

 それもまた、“自分を守る能力”として見る」


 社長は、最後に一言だけ付け加えた。


「今日は、ここまでの一ヶ月に対する“ジャッジ”の日だ。

 だが、合格したからといってゴールではない。

 不合格だからといって、人生が終わるわけでもない」


 そう言ってから、練習生たちを見回した。


「それでも、今ここにいる君たちにとっては、大事な一日になる。

 だからこそ――できることを、全部出してきなさい」


「じゃあ、軽くアップからだ。走れ」


 ランニングの号令がかかり、道場の中にシューズの音が鳴り響いた。


 ***


 体力テストは、いつものランニングから始まった。


 決められた時間、一定のペースで道場の壁沿いに走る。

 それだけなのに、今日はやけに息が上がるのが早い気がした。


(落ち着け、落ち着け)


 さやかは、自分に言い聞かせながら足を動かす。


 隣を走るいぶきのフォームは、前を見据えてブレがない。

 その少し前では、坂本が軽やかに走っていた。

 陸上をやっていたというだけあって、ストライドが大きく、息も乱れていないように見える。


 ランニングが終わると、すぐにシャトルランの準備が始まった。


 道場の端と端にマーカーが置かれ、白銀がストップウォッチを構える。


「号令に合わせて走る。

 疲れてきた時のフォームを、よく見てるからな」


 黒岩の声に、全員が小さく頷いた。


「――始め!」


 笛の音と同時に、マットの上を踏み鳴らす音が連続し始めた。


 最初は余裕がある。

 だが往復を重ねるごとに、足が重くなっていく。


(まだいける、まだいける)


 いぶきは、呼吸を一定に保ちながら、着地の位置を正確に刻んでいた。


 坂本は、さすがのスピードで先頭集団を引っ張っていく。

 ただ、その顔に余裕が見えるのが、黒岩には少しだけ気になった。


(タイムだけなら、余裕って顔だな)


 タイム表を持った黒岩は、走りながらも全員のフォームを目に焼き付ける。


 らんは、最初から飛ばしすぎた。


(やばい、ペース配分間違えた……!)


 途中から太ももが鉛みたいに重くなって、口の中がカラカラになる。

 それでも、客席のライトを想像すると、足を止めるわけにはいかなかった。


(リングの上で、こんな顔絶対できない……!

 ファンの前で、“もう無理です〜”って言うの、いちばんダサい)


 ノエルは、顔を真っ赤にしながらも、一本一本を丁寧に刻んでいた。


(止まったら、絶対後悔する。

 怖い時に“やめる”って選んだあの時と、同じになってしまう)


 体の奥から、嫌な記憶が顔を出しそうになるたびに、ノエルは目の前のラインだけを見つめて走った。


 森は、すでに息が上がりきっていた。


(推しのため……推しのため……)


 小さく呟きながら足を出す。

 視界の端が滲み始めても、それでも止まるわけにはいかなかった。


 さやかの肺は、早い段階で悲鳴を上げていた。


(苦しい……苦しいけど……)


 まなの顔が浮かぶ。


『一週間、サボらず全部やったって胸張れるなら、後悔は減るよ』


 あまねの背中が浮かぶ。


 地方会場のフェンス越し、リングの真ん中で立っていた黒い不死鳥の姿。


(あまねさんみたいに、強くなりたい。

 ただ近くで見ていたいんじゃない。

 いつか、あの人の隣に並びたい。

 いつか、あの人を超えたい)


 こはるの笑顔が浮かぶ。


『また来ます』


(その時まで、ここにいたい。

 あたしは、“ただ見てるだけのファン”で終わりたくない)


 足が鉛みたいに重くなっても、膝が笑い始めても、それでも足を前に出した。


「――そこで終わり」


 白銀の声が響く。


 最後の笛の音と同時に、さやかはマットに膝をつきそうになったが、堪えた。

 ゼエゼエと荒い息が、あちこちから聞こえてくる。


「タイム表出せ」


 黒岩がスタッフから紙を受け取る。


 坂本のタイムは、やはりトップだった。

 だが、終盤のフォームは、少し雑だった。

 “全力で出し切った苦しさ”より、“ここらへんでいいか”的な余裕がほんのわずかに混じっていた。


 いぶきは、タイムもフォームも高水準で安定している。

 ノエルは、中盤から大きく落ちかけたが、最後までペースを維持しようともがいた跡が見えた。


 森のタイムは、明らかに基準に届いていなかった。

 途中で白銀が「ここまで」と止めなければ、倒れていたかもしれない。


 さやかのタイムは――ギリギリ、線の上。


(数字だけ見りゃギリギリだ。

 ……でも)


 黒岩は、ランニングとシャトルラン中の姿を思い返す。


(止まりそうになっても、止まらなかったのは星屑と、あと数人だけだ)


 紙の上の数字だけじゃなく、そこに至るまでの“姿勢”が頭に刻まれていく。


 ***


 受け身テストは、一人ずつリングに上がって行われた。


 マットの上は、いつもよりも少しだけ硬く感じる。

 キャンバスの白が、やけに鮮やかだった。


「星緋」


 名前を呼ばれたいぶきが、ロープをくぐってリングインする。


 後ろ受け身、前回り、横、連続――。


 動きは、流れるように滑らかだった。

 武道で磨かれた身体感覚が、そのままプロレス用のフォームに乗っている。


 ただ、時折ふとした瞬間に、「壊そうとする角度」が顔を出しそうになる。

 アカリに言われた“効きすぎる角度”だ。


(そこは、意識して殺せるようになっている)


 白銀は、静かな目でそれを確認する。


「星緋――よし」


 短い言葉が返された。


 らんは、緊張で足が震えそうになりながらも、リングに上がった。


「いきます!」


 後ろ受け身。

 客席を意識した時のように、顎の角度と表情をほんのわずかに残して倒れる。


(リラさんとミコトさんに教えてもらった通り……!)


 前回り受け身では、髪がふわりと舞い、顔がしっかりと見える。


 横受け身、連続受け身。

 最後の方は若干音が弱くなったが、それでも視線は落ちていなかった。


「ティアラ――そうやって、“見せること”も忘れんなよ。

 ただし、派手にやりすぎて安全がおろそかになったら即落とす」


「はい!」


 黒岩に釘を刺され、らんは大きく頷いた。


 さやかの番が来た。


 リングに足をかけた瞬間、膝が少しだけ笑う。


(怖い)


 正直な感情が、胸に浮かぶ。

 だが、そのすぐ後に、ひよりの声を思い出した。


『怖い時ほど、倒れる直前に一回だけ息を吐いてみな』


『息止めてると、体が固まるから』


(息を、吐く)


 後ろ受け身の体勢に入る前、さやかは一度だけふうっと息を吐いた。

 それから、肩を丸めてマットに背中を預ける。


 ドン、と音が響いた。


 完璧なフォームじゃない。

 でも、首と頭は守れている。


 前回り、横。

 連続受け身では、四つ目の音が少し浅くなりかけたが、そこで意識してもう一度息を吐き、最後まで倒れ切った。


「星屑――」


 白銀が、一拍置いて言った。


「よし」


 その一言で、さやかの肩の力が少しだけ抜けた。


 ノエルは、リングに上がる前に一瞬足を止めてしまった。


 ロープの向こうに広がるキャンバスが、過去の記憶と重なりそうになる。


 頭の中に、“あの日”の光景が一瞬だけよぎった。

 誰かが倒れ、動かなくなった背中。

 「大丈夫」という言葉を信じてしまった自分。


(違う)


 ノエルは、自分で自分に言い聞かせた。


(今のリングは、あの日の場所とは違う。

 白銀さんが見てくれている。

 怖いって言っていいって、言ってくれた)


 呼吸を整え、ロープを自分の手で押し分けてリングインする。


 後ろ受け身。

 体はまだ少し強張っているが、「途中で止まる」ことはしない。


 前回り。

 視界が一瞬裏返る感覚にも、逃げずに身を任せる。


 横受け身、連続――。


 音は、決して綺麗とは言えなかった。

 それでも、最後まで倒れ切ることができた。


「ノエル」


 白銀の声は、いつも通り淡々としている。


「怖いのに、ちゃんと倒れたな。

 それでいい」


「……はい」


 ノエルの喉が、少しだけ震えた。


 坂本の受け身は――悪くはなかった。

 だが、良くもなかった。


 運動神経の良さと柔軟性で、ごまかせている部分が多い。

 音は浅く、肩の抜き方も安定していない。


(走らせたら一番。

 でも、プロレスラーとしての“受け”は、まだ半分も来てねえな)


 黒岩は、心の中でそう評した。


 森は、体力テストで削られたせいで、最初の一歩からふらついていた。


 それでも、後ろ受け身、前回りと、練習でやってきた通りに体を動かす。

 最後の連続受け身で、呼吸が合わず、膝が床に落ちかけた瞬間――。


「そこまで」


 白銀の声が飛んだ。


「もう一回やらせてください!」


 森は、思わず言っていた。


「まだいけます!」


「いけない」


 白銀の声は、きっぱりしていた。


「ここから先は、“続ける根性”じゃなく、“倒れる危険性”の方が高い。

 それは、テストじゃない」


 森は、唇を噛んで頭を下げた。


 ***


 ロープワークと動作確認は、全員がペアを組んで行われた。


 さやかは森と組んだ。


 ロープを走るのは、まだ怖い。

 でも、黒岩に言われた「ラインを意識しろ」という言葉を思い出しながら、できるだけ同じ軌道をなぞるように走った。


 ショルダータックルを受ける森の受け身も、ぎこちないながらも必死だった。


 さやかが一度、ロープに足を引っかけそうになり、森を引き倒しそうになる。


「ご、ごめん!」


「大丈夫です!」


 森は、ちゃんと背中から受け身を取って立ち上がった。


 いぶきは、坂本と組んだ。


 ロックアップからの崩しは、いぶきの方が上手かった。

 坂本は身体能力でついていきながらも、どこか距離感がふわふわしている。


(この子は、スパイク履いて走ってる時の方が、きっと目が輝くんだろうな)


 黒岩は、ほんの少しだけ苦笑した。


 ノエルとらんのペアは、最初こそ動きがぎこちなかったが、

 らんの「大丈夫だよ」という目線と声のテンポが、ノエルのリズムを引き出していった。


「――よし。危ない動きはなかったな」


 白銀が、全体を見渡して言った。


「大怪我させるようなことは、今のところ誰もしていない。

 あとは、“慣れてきた時の油断”と、“怖さをごまかさないこと”だけだ」


 黒岩は、それを聞いて小さく頷いた。


 ***


 全てのテスト項目が終わると、汗でびしょびしょになったTシャツのまま、全員で道場の掃除に入った。


 マットにモップをかける者。

 ロープの汗を拭く者。

 リングサイドの椅子や用具を片付ける者。


 さやかは、マットの端から端まで、黙々とモップを動かしていた。


 腕は重く、足もパンパンだ。

 それでも、手を止める気にはなれなかった。


 ノエルは、用具置き場の整理を仕切っていた。

 誰がどのマットやポールを持っていったか、頭の中で全部把握しながら片付けていく。


 いぶきは、重いマットを率先して運んだ。

 らんは、リングサイドのポスターや棚のホコリを拭きながら、疲れた足をだましだまし動かしている。


 坂本も森も、サボることなく最後まで動いていた。

 その姿を、黒岩も白銀もちゃんと見ていた。


 掃除が終わると、全員が再びリングの前に整列した。


 黒岩、白銀、社長が、少し離れた場所で短く言葉を交わす。

 紙とメモ帳が何度か行き来し、やがて三人がこちらに向き直った。


「――結果を伝える」


 天城社長が、一歩前に出た。


「最初に言っておく。

 これは、君たちの人生そのものを決めるための判定ではない。

 あくまで“今の時点で、この先リングに立たせても安全かどうか、育てていけるかどうか”の判断だ」


 その上で、と社長は続けた。


「名前を呼ばれた者は、一歩前へ」


 息を飲む音が、一斉に重なった。


「――星緋いぶき」


「はい」


 いぶきが、一歩前に出る。


「合格だ」


 社長の声は、はっきりしていた。


「技術と体の使い方は、この中でも頭一つ抜けている。

 ただし、武道の“壊す角度”と、プロレスの“見せる角度”は、これからもっと磨いていかなければならない」


「精進します」


 いぶきは、短く頭を下げた。


「ノエル・シエル」


「はい」


「合格だ」


 ノエルの胸の前で、タオルがきゅっと握られる。


「怖さから逃げず、向き合おうとしてきた一ヶ月だった。

 受け身もロープも、まだ完璧とは言えない。

 だが、“途中で止まらない”ことを選べるようになったのは、大きな変化だ」


「……ありがとうございます」


「ティアラ☆キャンディ――姫乃らん」


「はいっ!」


 らんは、思わず声が裏返りそうになるのを慌てて飲み込んだ。


「合格だ」


 社長は、少しだけ笑みを浮かべた。


「スター性と根性は十分だ。

 ただ、体力と基礎がそのままでは、いずれ自分の輝きに足を引っ張られる」


「うっ……」


「自分の体を、“推してくれる人たち”のためにも大事にしなさい」


「はい!」


 らんは、涙目になりながらも大きく頷いた。


「星屑さやか」


「はい」


 自分の名前が呼ばれた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 膝が、少し震える。

 それでも、一歩前に出た。


「合格だ」


 その一言が耳に届いた瞬間、世界から音が消えたような気がした。


「タイムや数字だけを見れば、ギリギリだ」


 社長は、淡々と続ける。


「受け身もロープワークも、まだ褒められたものではない。

 だが――」


 黒岩が、そこで少しだけ口を開いた。


「最後まで“止まらなかった”のは、お前の大きな武器だ、星屑」


 その言葉に、胸の奥が熱くなる。


「才能の話をするには、まだ早い」


 社長は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「だが、“諦めなかった一ヶ月”は確かにここにある。

 そのしぶとさが、この先どこまで通用するのか――楽しみにしている」


「……はいっ」


 声が震えるのを、なんとか堪えた。


 4人が前に並んだまま、しばしの沈黙が落ちる。


 その後ろで、坂本と森が、固く拳を握りしめているのが見えた。


「――ここからは、不合格の者への話になる」


 社長の声が、再び道場に落ちた。


「何度も言うが、これは君たちの人生そのものを否定する判定ではない。

 だが、ここで曖昧にしてしまうことの方が、君たちの未来にとって残酷になると、私たちは判断した」


 その言葉を聞いて、誰も目を逸らさなかった。


「坂本」


「はい」


 坂本が、一歩前に出る。


「君は、陸上選手としての素質と体力は、この中でもトップクラスだ。

 走りのタイムだけを見れば、文句なく一番だ」


 黒岩も、静かに頷いた。


「だが――」


 社長の声が、少しだけ厳しくなる。


「今日の走りと、この一ヶ月の姿を見ていて、

 “プロレスだけを見ていない目”も、はっきりと見えた」


 坂本の肩が、びくりと震える。


「陸上に戻る道も、ちゃんと考えている。

 それは悪いことではない。

 むしろ、自分の可能性を広く見ているという意味で、賢いと言ってもいい」


「……はい」


「だが、“どっちも半分”のまま続けさせるには、このリングは危険すぎる」


 社長の言葉は淡々としていたが、その裏には迷いが感じられた。


「今の君を、ここで“合格だ”と言うことはできない。

 プロレスを本気で選び直す時が来たなら、その時は改めて門を叩いてほしい。

 だが今は――不合格とする」


 坂本は、唇を噛み締めた。


「……ありがとうございました」


 それだけ言って、深く頭を下げる。

 その背中には、悔しさと、どこかほっとしたような感情が入り混じっているように見えた。


「森」


「はい」


 森の声は、震えていた。


「君の“推しのために残りたい”という気持ちは、本物だと思う」


 社長は、優しい目をして言った。


「練習量も、一ヶ月で一番伸びたと言っていい。

 シャトルランも、受け身も、最初に見た時とは別人のようだった」


「でも――」


 森は、自分から続けた。


「足りなかった、ですよね」


 その言葉に、白銀が小さく頷く。


「体力の基準に、明確に届いていない。

 無理をさせれば、リングに立つ前に、身体を壊す可能性が高い」


 白銀の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「プロレスラーにとって、一番大事なのは“続けられる体”だ。

 そこがまだ、合格ラインに届いていない」


「……はい」


「君をこの先の練習生としてリングに上げないという判断は、

 君の“推しへの気持ち”を否定するものではない」


 社長は言葉を選ぶように続けた。


「むしろ、その気持ちを壊さないための判断だと、理解してほしい」


 森の目から、一粒だけ涙がこぼれた。


「今回は、不合格とする」


「……ありがとうございました」


 森は、震える声でそう言って、深く頭を下げた。


(あたしと、森さんの違いって――)


 さやかは、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じていた。


 森の「推しのため」は、本物だ。

 あまねに憧れた自分の気持ちと、同じくらいまっすぐだと思う。


(でも、あたしは……)


 フェンス越しに見たあまねの背中を思い出す。


(あの人の近くにいたいだけじゃない。

 いつか隣に並びたい。

 いつか、あの人を超えたいって――本気で思ってる)


 森は、きっと違う。


(森さんは、“推しのそばにいたい人”なんだ)

(あたしは、“目標の背中を追いかけて、いつか同じ位置に立ちたい人”だ)


 それが正しいとか、間違っているとかじゃない。

 ただ、向いている場所と求めているものの違いが、ここではっきりと分かれてしまったのだと感じた。


「――以上だ」


 社長が、全員を見渡して言った。


「合格した者は、今日で終わりではない。

 やっと、“スタートラインに残った”だけだ」


 黒岩が、そこで口を挟んだ。


「星屑」


「はい」


「お前も、数字があと少し悪けりゃ、間違いなく落としてた」


「……はい」


「“自分だけ合格してよかった”なんて、一度も思うな」


 黒岩の視線は、厳しくて、少しだけ優しかった。


「一緒に名前を呼ばれなかった連中の分まで、やるくらいの気持ちでいろ。

 そうじゃなきゃ、残った意味がねえ」


 さやかは、ぎゅっと拳を握りしめた。


(ここがゴールじゃない)


 あまねのリングは、まだまだ遠い。

 遠いどころか、スタートラインのずっと向こうにある。


(やっと、“スタートラインに立ち続けていい”って言われただけ)


 それでも、その一歩が嬉しかった。


 嬉しくて、悔しかった。


 道場の天井を見上げて、さやかは心の中で静かに誓った。


(絶対に、ここで終わらない。

 あの人の隣に並べるくらい、強くなる)


 胸の前で握った拳は、少し震えていた。

 それでも、開くつもりはなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第11話では、

・一ヶ月テスト当日の朝、それぞれの家・寮からの出発

・ランニングとシャトルランで見える、体力と「止まらない気持ち」

・受け身テストとロープワーク、動作確認での安全性と伸びしろ

・坂本が「陸上への未練とプロレス一本への覚悟の薄さ」を見抜かれて不合格になる流れ

・森が「推しへの本物の気持ち」と「体力基準に届かない現実」を理由に、安全の観点から不合格になる流れ

・さやかが、数字的にはギリギリながらも“止まらなかった一ヶ月”と、“あまねに並びたい・超えたい”という方向性を評価されて合格する流れ

・森の「推しのそばにいたい」と、さやかの「目標の隣に立ちたい・超えたい」という“憧れの方向の違い”

・そして、「スタートラインに残っただけだ」という黒岩の一言

を描きました。


次回からはいよいよ、「中間テスト後」の世界。

残った4人と、別の道に進む坂本と森。

それぞれの“これから”の始まりと、さらに厳しくなる練習の日々、

そして王者・皇あまね達のいる本隊の動きにも、少しずつ絡んでいく予定です。


ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。

よろしければ、次の話も覗きに来ていただけたら嬉しいです。

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